夏休みも終盤に差し掛かった、ある日の夕方。
翔大の家の居間に集まった一同の間には、これまでにない重苦しい沈黙が流れていた。
荻中が実家の都合で、急に名古屋へ戻るかもしれないという噂が流れ、その真偽を確かめるために緊急招集されたのだ。いつもなら誰かしらがボケてツッコミが入るはずの5人組だったが、その夜ばかりは全員が膝を突き合わせ、本音で語り合っていた。
噂は本当だった。餃子屋を営む荻中の父親が体調を崩し、大阪の店舗をたたんで、実家のある名古屋の店一本に絞ることを決めたためだという。高校生という身分ではどうすることもできない抗えない現実を前に、荻中はきつく閉じた膝の上で拳を握りしめ、じわじわと大粒の涙を床に落とした。
「……おみゃあらとの友情は、本物だがん。離れたくないがん……」
いつもチャラチャラしてナンパのことばかり考えている荻中が、初めて見せた大粒の涙。その不器用な横顔に、翔大は胸がギリギリと締め付けられるような思いで声を絞り出した。
「荻中……お前がいなくなるなんて、考えられんわ。お前だけでも大阪に残る方法、なんかないんか?」
荻中は力なく首を横に振った。家族全員での引っ越しが決まっている以上、それは無理な相談だった。
隣で聞いていた村上も、決壊したようにボロボロと涙をこぼす。
「かなしいぴー……荻プィがいない世界なんて、炭水化物のないラーメンみたいなもんだぴー……」
ずっと無言で床を見つめていた玉田が、ようやく口を開いた。少し潤んだ瞳をあえて明るく輝かせ、いつもの口調で、精一杯の強がりと優しさを込めて声を張る。
「でもさー! 名古屋なら新幹線ですぐだし、けっこー近いからいつでも会いにいけるじゃん!週末に突撃してやるからさー!」
モナも、荻中の肩にしがみつくようにして心配そうに見つめた。
「荻中くん、いなくなっちゃ嫌だっちゃ。さみしいっちゃ……」
いつもなら、モナがここまで近づけば周りの目も気にせず「グヘヘ」と鼻の下をデロデロに伸ばすはずの荻中だった。しかし、今日の彼は「モナちゃん、ありがとね……」と消え入りそうな声で弱々しく笑うだけ。いつものキレが全くないその姿が、事態の深刻さを物語っていた。居間は完全に、本当のお通夜のような重い空気に包まれた。
そしていよいよ、運命のその時がやってきた。
翌々日の朝一。
4人は指定された新大阪駅の新幹線ホームに、出発の1時間以上前という大余裕を持って集まっていた。しかし、肝心の主役である荻中がいつまで経っても現れない。連絡を入れようにも、昨夜から荻中の自宅に何度ダイヤルしても、受話器の向こうで執拗な呼び出し音が繰り返されるばかりだった。
「あいつ、何やってんのかな…… まさか寝坊じゃないだろうね!?」
玉田が苛立ちを隠せない様子で、拳を握りしめながらホームを行き来する。
「荻プィ……最後にちゃんとバイバイしたいぴー……」
村上はすでに半べそをかきながら、朝一番のホームの自販機で買ったお茶の缶を抱きしめていた。
発車時刻が数分後に迫り、いよいよ白い新幹線の車体がホームに滑り込んできたその時――。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ! お、おみゃあら!!」
階段の方から、大きな荷物を抱えた荻中が、汗だくになりながら猛ダッシュでホームへと駆け込んできた。
「荻中!」
「お前遅いじゃん!」一斉に駆け寄る面々。
村上は鼻水を垂らして号泣し、玉田も必死で溢れそうになる目元の涙を袖でゴシゴシと拭っている。翔大は隣のモナの手をしっかりと握りしめながら、親友との最後の握手を交わそうと熱い想いを胸に一歩前に出た。
「お前、なんで電話繋がらへんかってん!みんなめちゃくちゃ心配したんやぞ!」
翔大が叫ぶと、荻中が急に気まずそうに頭をかきむしり、視線をあちこちへと泳がせ始めた。
「いや、あのさー……みんなには本当に、めちゃくちゃ言いにくいんやけど……昨日の夜、誤って電話を落として完全に壊しちゃったんだわ……」
「はぁ!?電話を落としたぁ!?まじで!」
玉田が呆れ果てて声を裏返すと、荻中は意を決したように、ギチギチに目をつぶってさらに早口でまくしたてた。
「それだけじゃなくて!昨日の夜、おやじに『友達と離れたくない!』ってワンワン大泣きして土下座して頼んだらさ!おやじが『そこまで言うならわし一人で名古屋に戻るわ!』って言って、俺のために卒業まで大阪の家を残してくれることになったんだわ!」
「だから俺、名古屋行かずに卒業まで大阪に残れることになったがん!だで、今日の新幹線はおやじの見送りになったんだわ!」
一瞬、朝の新大阪駅のホームを流れるすべての時間が完全に停止した。直後、4人の声が見事なディスコールとなって響き渡った。
「「「「……ハァ!!???」」」」
「じゃ、じゃあ、転校しないってことじゃん!」
「超ウルトラ人騒がせな男だピーーー!」
次の瞬間、怒りよりも「あいつがいなくならない」という宇宙規模の安堵が勝った。
「荻プィ〜〜〜〜ッ!!」
最初に動いたのは村上だった。荻中に強烈なタックルをかます。
「本当に、本当に心配させんなよな……っ!」
玉田も悪態をつきながら荻中の首に腕を回した。翔大も50代の照れなど完全に忘れ、17歳の全力で二人の頭ごと荻中をガシッと抱きかかえた。
男4人が朝のホームのど真ん中で、ぐしゃぐしゃの笑顔と涙でガチの男泣きのスクラムを組む。「なんやそれ!」「俺たちの涙を返しやがれ!」と言い合いながら、もみくちゃになって全員で喜びを爆発させた。その熱苦しくも尊い光景を、モナも「もー! 本当に心配したんだっちゃ!」と、荻中の背中をポカポカと叩く真似をしながら、鈴を転がすように嬉しそうに見つめていた。
その時、発車直前の新幹線のドアから、ねじり鉢巻にジャージ姿のコワモテな男――荻中のおやじさんがガバッと顔を出した。
「おい、お前ら! 騒々しいぞ!」 一瞬ビクッとする一同。
しかし、おやじさんはその強面を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、大声で叫んだ。
「息子がそこまで惚れ込んだツレの顔が見たかった!卒業までうちの馬鹿息子をよろしく頼んだぞ!これ、餞別だが!」おやじさんはそう言って、財布から『餃子一生無料券』と書かれた手書きの紙切れを翔大たちに向かってドサッと投げ渡した。直後に無情にもドアが閉まり、新幹線は静かに名古屋へ向かって走り出す。
「おやじーーー! ありがとうだがんーーー!」
遠ざかる白い車体に向け、荻中がちぎれるほどに手を振った。ホームのライトと朝日に照らされたみんなの顔が、まるで宝石のようにキラキラと輝いていた。
「アハハハ!ほんま、お前らしいサイテーで最高のオチやな!」翔大も腹を抱えて笑った。
けれど――。 ツレたちと肩を組み、新幹線の風を浴びながらも、翔大の胸の奥には、どこか冷たい引き潮のような、静かで客観的な大人の感情が去来していた。
(卒業まで、か……)
今回は親父さんの男気と優しさで、奇跡的に残れることになった。けれどそれは同時に、「高校を卒業すれば、否応なしにこの最高の関係にもタイムリミットが来る」という現実を、あまりにもリアルに突きつけられた瞬間でもあった。
進学や就職、それぞれの人生の事情で、どれだけ強い絆で結ばれていても、いつかは必ず離れ離れになっていく。中身が50代の翔大だからこそ、その未来が分かってしまう。この、胸が焼け付くほどに輝かしい青春は、決して永遠には続かないのだ。
「期限付きの儚さ」だからこそ。 今こうして、朝っぱらからバカみたいに肩を組んで大騒ぎしている一瞬一瞬が、切ないほどに愛おしそうに、目も眩むほどに光り輝いているのだと、翔大は心の底から深く噛み締めるのだった。
「何一人でカッコつけて黄昏れとるんだがん、峰ピー!祝いだて!朝マック寄ってくがん!」
すっかりいつものチャラい調子に戻り、隣のモナをチラチラと盗み見しながら、荻中が翔大の背中をパシッと力強く叩いた。
「おう、行くわ!荻中、そこまで人騒がせなことしたんやから、今日はお前の奢りな!」
「なんで俺が全員分奢るんだがん!お小遣い飛ぶがん!」
数十分後、駅前のマクドナルド。
「よーし!荻中プィの残留祝いだピー!」
真っ先に叫んだ村上が、さっきまでお通夜状態で号泣していたことなど綺麗さっぱり忘れたかのように、ハッシュポテト10個とマックグリドル、ソーセージマフィンをトレイに山積みにして凄まじい勢いで爆食いし始めた。
「ちょっとあんた!さっきまで『炭水化物がないラーメンがどうの』って泣いてたじゃんかさー!」
玉田のキレのあるツッコミが店内に響き渡り、モナも翔大も、あるいは荻中も大爆笑した。
しばらくして、ひとしきり食べた後に荻中がおずおずと財布の中身を覗き込み、青い顔をした。
「……あのさ、みんな。今日の新幹線のチケット代とか諸々で、財布の中身がマジでスッカラカンなんやけど……その、今日の朝マック代、誰か立て替えてもらえんか……?」
「はぁ!?お前が残留祝いで奢るって言ったんだろ!」と玉田が呆れ顔で突っ込む。
それを見かねて、翔大はふっと苦笑いを浮かべると、財布からスマートに札を取り出してレジへと向かった。
「しゃあないなぁ。ここは一旦、おっちゃん(大人の財布)が出したるわ」
「おっ、翔大くんかっこいいだっちゃ!さすがモナのダーリンだっちゃ!」とモナがパチパチと手を叩いて目を輝かせる。
「おう、その代わり荻中、今度は特大の餃子を腹いっぱい奢れよ!」
「当たり前だがん! 峰ピー、マジで命の恩人ならぬ財布の恩人だわ……!」
荻中が拝むように頭を下げ、村上も「わしにも特大餃子を100個頼むピー!」と便乗して叫ぶ。
朝の光が差し込むマクドナルド。 いつもの騒がしくも愛おしい5人の笑い声が、夏の終わりの爽やかな青空へと、どこまでも高く響き渡っていった。