夏休みもいよいよ終わりを告げようかという、ある日の午後。 翔大の自室に響いていたのは、蝉の声ではなく、絶望に満ちた翔大の重いため息だった。
「終わらん……。マジで、1ミリも終わらん……っ!」
机の上には、手つかずのまま放置された夏休みのワークやドリルが、まるでエベレストのようにそびえ立っていた。海に行き、祭りに繰り出し、荻中的なバカ騒ぎに明け暮れていたツケが、今まさに牙を剥いて襲いかかってきている。このままでは新学期早々、職員室送りで居残りの刑が確定してしまう。
中身は50代の、人生の酸いも甘いも噛み分けたサラリーマンでありながら、身体は現役の高校生。よりによって「学生の本分」である宿題で人生最大のピンチを迎えるとは、皮肉なものだった。
「あかん、マジでヤバい……。頭が真っ白になってきたわ……!」
頭を抱えて机に突っ伏す翔大の横で、当の本人であるモナは、クーラーの効いた涼しい部屋のベッドの上で、のんびりとアイスの包みを開けていた。
「ねえ、ダーリン。そんなに難しい顔しないで、息抜きに、うちとおしゃべりしよう?」
「おしゃべりしてる場合ちゃうねん!ここにある問題の数を見ろや!」
翔大が必死の形相で訴えると、モナはふわりとベッドから舞い降り、まるで重力を無視するかのように音もなく翔大の後ろへと回り込んだ。
次の瞬間、後ろからにゅっと両腕が伸びてきて、翔大の首にギュッと巻き付いた。
「ねえ、ダーリン。そんなにカリカリしないでよ」
「うわっ……!モナ、ちょっ、背中に乗るな! 近い、近すぎるって!」
背中越しにダイレクトに伝わってくる柔らかい体温と、甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。甘えん坊な子犬のように背中でスリスリと顔をすり寄せてくるものだから、翔大の心臓はバクバクと早鐘を打ち始めた。
「もう、集中できへんやろ!離れてって!」
翔大がじたばたすると、モナは不満そうにほっぺたを膨らませる。そして、くるりと向きを変えてベッドにバタンと横になった。
「ふあぁ……。じゃあ、うちも横になるから、ダーリンもこっち来て一緒にゴロゴロしよ?」
モナは自分の横のスペースをポンポンと手で叩き、誘うような笑顔を向けてくる。
「いや、俺は宿題をせなあかんねん!」
抗議するも束の間、モナは自分の横の空白を指さしつつ、上目遣いのトパーズの瞳でじっと見つめてくる。
(ぐっ……! そんな目で見られたら、思わず吸い込まれそうになるやないか……!)
翔大はごくりと喉を鳴らし、何とか全霊の理性で自分の頬をパチンと叩いて正気に戻った。
「あかんあかん、こんな誘惑に負けたら人間おしまいや!」
再び必死の思いでシャーペンを走り出させる翔大。しかし、その平和な(あるいは危険な)時間は長くは続かなかった。
しばらくして、モナがトコトコと机のほうに歩み寄ってきたのだ。手には自分の古典のノートを持っている。
「ねえ、ダーリン……ここ、どうしても分かんないの。教えて?」
「ん? どれどれ……」
不意に頼りにされ、男のプライド(というか、少しでもカッコつけたいおっさんの性)がむくむくと頭をもたげた。
「ふっふっふ、そこかモナ。ええか、この古典っていうのはな……よし、お兄ちゃんが華麗に解いてみせたるわ!」
すっかり得意げな顔になった翔大は、モナに教えるためにスッと顔を近づけ、ノートの古文の文章を覗き込んだ。
――その瞬間だった。
翔大の意図を無視して、モナがさらにスッと身を乗り出し、翔大の顔に自分の顔をピタリと寄せた。そして、耳元にふぅーっと、柔らかく甘い吐息を吹きかけたのだ。
「ねえ……ダーリン? この『あはれ』って、どういうふうに訳せばいいの?」
「っっっっっ———————!!!!」
頭の中で、盛大にサイレンが鳴り響いた。
耳たぶをかすめる熱い吐息と、耳元で囁かれる甘い声。あまりの近さと破壊力に、翔大の全身の血が一気に沸騰し、顔面がトマトのように真っ赤に染め上がった。
「モ、モナっ!近い!近すぎるって!耳!耳に息がかかっとるやろ!」
椅子からひっくり返りそうになりながら、翔大は両手で自分の耳を押さえて激しく悶絶した。
モナはキョトンとした顔で首をかしげ、小悪魔のような無邪気な微笑みを浮かべる。
「えへへ、ダーリン、そんなにお顔を真っ赤にしてどうしたの?うち、何か変なことした?」
「変なことだらけや!おっさんの心臓を狙い撃ちにするような真似はなぁ、心臓に悪いからやめなさい!」
心臓をバクバクさせながら必死にツッコミを入れる翔大をよそに、モナは「ダーリンってば面白ーい!」とケラケラと鈴を転がすように笑っている。
もうダメだ、このままでは本当に色々な意味でリタイアしてしまう――そう悟った絶妙のタイミングだった。
――ガチャリ。
「はーい、お勉強の邪魔しまーすよ〜」
まるで神のタイミングかのように、自室のドアが勢いよく開き、母・佳子が顔を覗かせた。
「ほら、二人ともずっと部屋にこもって息が詰まってるでしょ。冷た〜いオレンジジュースと、今切りたての甘いスイカを持ってきたから、一休みしなさいね」
トレイにのせられた冷え冷えのオレンジジュースと瑞々しいスイカを見た瞬間、翔大は心の底から天に向かって手を合わせた。
「お、おかん……!神や!あんたは我が家の女神や……!!」
「あら、大げさねぇ。はい、モナちゃんもどうぞ」
「わぁ、お母様ありがとうございます!うち、スイカ大好きだっちゃ!」
母の天然すぎる絶妙の乱入のおかげで、部屋のなかに立ち込めていた甘い危険な空気は一瞬で吹き飛び、事なきを得た。
冷たいジュースを喉に流しながら、翔大は冷や汗の止まらない額を拭い、心の中で深く息をつく。
(危なかった……あわや、宿題どころか人生のタイムリミットが来るところやったわ……)
母が部屋を出て行き、冷たいジュースで一息ついたあと。窓の外を見ると、いつの間にか夕暮れが迫り、部屋の中には二人きりのオレンジ色の光が満ちていた。
結局、その日はモナのペースにすっかり振り回されてしまい、宿題は半分ほど残ったまま夜を迎える。
消灯時間になり、自分の部屋へ戻ろうとするモナを引き止め、
「おい、明日の朝は早いんやから、今夜中に絶対終わらせる手伝いせえよ!」
と翔大がぼやく。すると、モナはニヤリとイタズラっぽく笑い、
「じゃあ、ご褒美をくれたら手伝ってあげる!」
と言って、翔大のベッドの端にちょこんと座り込んだ。
「ご褒美ってなんやねん……」
頭を抱える翔大に、モナはトパーズの瞳をキラキラ輝かせながら無邪気に告げた。
「ご褒美はね、うちの横に寝ること!」
「はっ……!?なんでやねん!」
「だーかーら、横に寝てくれたら、残りの宿題をぜーんぶ魔法みたいに一瞬で終わらせてあげるっちゃ!」
「ぐっ……」
悪魔的な、いや天国的な誘惑だった。圧倒的に残っている宿題の山と、目の前の甘い誘惑。翔大は苦悶の末に頭を抱え、
「……わかった!ほんまに一瞬で終わらせるんやぞ!」
としぶしぶ折れ、ベッドの上でモナの隣にゴロンと横になった。
至近距離で香る甘い花の香り。緊張で翔大の全身がカチコチに固まる。
モナは嬉しそうな笑みを浮かべてふわりと腕を伸ばすと――その柔らかい手が、緊張で波打つ翔大の胸の上にそっと置かれた。
トクン、と心臓が跳ね上がった、その瞬間。
「はいっ! ご褒美の時間はおしまいっ!」
翔大は慌ててガバッと起き上がり、自分の胸元に置かれていたモナの手を素早くどかすと、動揺を必死で隠しながら得意げに言い放った。
「い、今の約束は守ったで!ほら、ご褒美はここまでや!よっしゃ、宿題の続きを手伝って!」
「なっ……!?」
モナは突然のことで目を丸くし、それから不満そうにぷくーっとほっぺたを思い切り膨らませた。
もう少し二人だけの甘い雰囲気が続くと思っていたのに、あまりのドライな(必死すぎる)対応に、トパーズの瞳を潤ませながらジト目を向けてくる。
「もうっ!ダーリンのケチ!せっかくいい雰囲気だったのに、すぐそういうことする!」
「アホかっ! これ以上おっさんの理性を試したら、ほんまに色々決壊するわ!」
冷や汗を拭いながら机に向かった翔大は、自分の胸にまだ残る微かな温もりと、未だにバクバクとうるさい心臓を押さえながら、真っ赤な顔で心の中で呟いた。
(……もう、完全にモナに手の平の上で踊らされとるな俺は……)
「ふんんだ!ダーリンのいじわる!」と拗ねるモナの頭を、翔大が「はいはい、すんまへん、お願いします」と不器用にポンポンと撫でる。
夜の静かな部屋で、少しの照れ隠しと甘い空気を含んだ二人のおかしな小競り合いが小さく響く。
月明かりが差し込む穏やかな部屋で、ときめきと笑いに満ちた、二人の甘くて慌ただしい夜は更けていくのだった。