しとしとと、静かな雨が窓を叩いている。
日曜日の午後。翔大とモナは、実家の子ども部屋で特に何をするでもなく、穏やかな時間を過ごしていた。窓の外の景色は白く霞み、雨音が部屋の静けさを心地よく満たしている。
畳の上に大の字に寝転がっていた翔大は、ふぅと重苦しい溜息を吐きながら上体を起こし、首の後ろをトントンと拳でさすった。
「あー……アカン、なんかめちゃくちゃ肩凝ったなぁ……」
思わず本音が漏れる。中身は50代の元サラリーマンなのだから無理もない。現役高校生としての慣れない二重生活、さらには前日、玉田の鋭すぎるマッドサイエンティストな追及を冷や汗ダラダラでごまかした心労。17歳のピチピチした肉体をもってしても、50代の魂が訴えかける年季の入った疲労までは相殺しきれなかったのだ。
それを見たモナが、不思議そうにツインテールを揺らして小首を傾げる。
「若いのに肩がこるっちゃねー? ダーリン、うちがマッサージしてあげようか?」
「お、マジで? じゃあ、お言葉に甘えてちょっとだけ頼むわ」
翔大がゴソゴソと背中を向けて座り直すと、モナが膝立ちになって、その小さな両手を翔大の肩に置いた。
「じゃあ、いくっちゃ! ……うわぁ、すごい硬いっちゃねー!まるで鉄板が入ってるような背中だっちゃ!」
苦笑いする翔大。モナは「うぬぬぬ……」と可愛い小さな声を漏らしながら、一生懸命に指先に力を込めて揉んでくれる。前日にアルミ缶のプルタブを引きちぎったあの不可思議な超パワーが暴発してしまわないよう、指輪が怪しく光り出さないように、モナが細心の注意を払いながら気持ちをコントロールしてくれているのが伝わってきた。
(ほんまに健気で、可愛い奴っちゃな……)
必死に自分を癒やそうとしてくれているモナの温もりを感じながら、翔大はすっかり力を抜き、その優しい手つきに身を委ねていた。50代の頑固な大人の心が、じんわりと心地よく解きほぐされていくような気がした。
「ふぅ、これくらいでどうっちゃ?」
「お、ありがとな。……うわ、すご、めっちゃ軽くなったわ!」
翔大が肩をぐるぐると回すと、驚くほどすっきりしている。50代の行きつけの整体院より腕がいいかもしれない。
「どんなもんだっちゃ!」
モナはドヤ顔で小さなガッツポーズを決め、フニッっと柔らかく可愛らしい笑みを浮かべた。その無邪気な笑顔を見ているだけで、肩こりどころか胸の奥のモヤモヤまで一瞬で吹き飛んでしまう。
マッサージが終わると、また部屋に静かな雨音が戻ってきた。少し雨脚が強まったのか、窓際からひんやりとした冷気が流れてくる。
「ちょっと冷えてきたな……。よし、軽くエアコンつけるか」
翔大は立ち上がると、エアコンの効きを良くするために、手慣れた手つきでパパッと脚立代わりに椅子を持ってきてフィルターを外した。そのまま洗面所でホコリを洗い流し、ついでに窓ガラスに結露防止のワンポイント処置を施す。50年の人生経験と、これまでの家庭生活のなかで自然と身体に染み付いた「大人の生活の知恵」である。
それを見ていたモナは、目をきらきらと輝かせて驚嘆の声をあげた。
「わぁぁ!ダーリン、今何したっちゃ!? 魔法使いみたいっちゃ! うちの星の超高性能環境制御システムでも、そんなに素早くピンポイントな空間維持の最適化はできないっちゃ!」
「いや、ただのフィルター掃除やし、主婦の知恵袋みたいなもんやからな」
すべてが自動化された高度な文明で育ったモナには、翔大の地味な手作業の生活スキルが、まるで未知のスーパーテクノロジーのように見えたらしい。純粋無垢な眼差しで尊敬されてしまい、翔大は妙に面食らいつつも悪い気はしなかった。
そんなドタバタが落ち着くと、モナは猫のように小さくあくびをした。そして、何かを思いついたようにパッと顔を輝かせる。
「そうだダーリン! うち、ダーリンのオカリナ聞きたいっちゃ!」
「俺のオカリナ?」
突然のストレートな『おねだり』に、翔大は少し意表を突かれた。自分の奏でるオカリナは完全な自己流で、お世辞にも上手いとは言えない、ただの素人の代物だ。
「なぁ、モナ。前から気になってたんやけど、なんでそんなに俺のオカリナがええのん? 決して上手いわけちゃうのに、いつもリクエストしてくれるやん」
ずっと胸の奥にあった素朴な疑問を、翔大はストレートに尋ねてみた。
すると、モナは窓の外の雨から翔大へと視線を戻し、どこか遠くの宇宙を見つめるような、慈愛に満ちた優しい微笑みを浮かべた。
「ダーリンの奏でる音はね、遠いうちの故郷の、一番優しい風の音に似てるっちゃ。……ううん、風の音っていうか、星の『心音(こころ)』の響きにそっくりなんだっちゃ」
「……故郷の、風……心音の響き……」
その言葉が、翔大の胸に深く、静かに染み渡っていく。地球から遥か何万光年も離れた星の、誰も知らない美しい風景。そこに吹く優しい風と、自分の拙いオカリナの音が重なっているのだという。モナの言葉は、飾らないからこそ、世界中のどんな美辞麗句よりも最高のラブレターのようだった。
翔大は急に猛烈に照れくさくなり、耳たぶを赤くしながら頭をかき、机の上からオカリナを手に取った。
「よっしゃ! じゃーモナ様のために、一曲気合入れて弾きますかぁー!」
「わーい!楽しみだっちゃ!」
少しおどけた調子で言うと、モナは嬉しそうに座布団を引きずって翔大のすぐ隣に座り直した。
翔大がオカリナを口元に当て、そっと優しく息を吹き込む。
ピー、と素朴で、どこか哀愁を帯びた丸い音色が部屋に響き始めた。やっぱり技術的には上手な演奏ではない。けれど、モナを心から愛おしく想う優しさと、50年の人生の酸いも甘いも噛み締めてきた深みが、その音には確かに宿っていた。
その瞬間――不思議なことが起きた。
オカリナの音色に呼応するように、モナの胸元で微かに指輪が銀色の光を放つ。と同時に、窓の外の雨の向こう、白く霞む景色が、ほんの一瞬だけ別の世界の景色へと塗り替わった。 二つの月が穏やかに浮かぶ、見たこともない紫色の夜空。そこに吹く、どこか懐かしく温かい故郷の風が、この狭い子ども部屋の空気と重なり合う。モナもまた目を閉じ、自分の星にいた頃の微かな記憶と、今の地球の温もりとが繋がるような、言い知れない神秘的な感覚に包まれていた。
やがて幻影は静かに溶け去り、部屋には再び雨音と二人の時間が戻ってくる。
すると、モナがそっと目を閉じ、翔大の奏でるメロディに合わせて、小さな声で「フフフ〜♪」とハミングを重ねてきた。 その鼻歌は、地球のどの音階にもない不思議で美しい旋律だった。まるで本当に、遠い異星の風が銀色のハープを鳴らしているかのような、幻想的な響き。不器用なオカリナの音と、神秘的なハミングが、雨の日の子ども部屋を優しく包み込んでいく。
二人は自然と肩を寄せ合う。モナの、女の子らしい柔らかくて温かい体温が、触れ合う肩を通じてダイレクトに伝わってくる。
しばらくの間、外の雨の音と、二人の紡ぐ温かい旋律だけが、狭い空間を優しく満たしていた。
どれくらい吹き続けていただろうか。
ふと隣に静かな重みを感じて視線を落とすと、ハミングが途絶え、モナがスースーと規則正しい、気持ちよさそうな寝息を立て始めていた。オカリナの音色にすっかり安心したのだろう。そのまま、こてんと翔大の肩に小さな頭をもたれかかってくる。ふわっと甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
「ふふ、もう寝てもうたんか」
翔大は演奏を止め、オカリナをそっと床に置いた。もたれかかるモナの小さな体をゆっくりと両腕で抱き上げると、起こさないように細心の注意を払いながら、畳の上に優しく寝かせる。ベッドから持ってきたタオルケットを引き寄せ、その愛おしい体にそっとかけてあげた。
「気持ちよさそうに寝てるなー、ほんまに」
翔大はあぐらをかいたまま、モナの無邪気な寝顔をじっと見守った。
その時だった。
――ガチャッ。
「おーい、翔大。おやつ持ってきたで――って、あれ?」
突然、子ども部屋のドアが勢いよく開き、母・佳子の声が響いた。
「うわっ、おかんっ!?」
翔大は心臓が口から飛び出るほど焦り、寝ているモナの体を隠すように、反射的にガバッと立ち上がってドアのほうへ立ちはだかった。
「な、なんやねん急に入ってきて!びっくりするやろ!」
「あら、そんな大声出して。何よ、二人でお勉強でもしてたの?」
佳子は怪訝そうに首をかしげ、床に敷かれたタオルケットと、そのすき間でスヤスヤと眠っているモナの姿をチラリと視界に入れた。
「い、いや、勉強で疲れてちょっと寝てもうてん!だから今、静かに……そっとしておいたところやねん!」
冷や汗をダラダラと流しながら必死に取り繕う翔大に、佳子はふっと優しい笑みを浮かべ、手に持っていたおやつのトレイをそっと差し出した。
「そう。じゃあ、起こさないように机の上に置いとくから、後で二人で食べなさいね。……無理しすぎたらあかんよ」
「お、おう……サンキュー、おかん……!」
母親の鋭い(けれど温かい)目線をどうにかこうにかやり過ごし、佳子が再び階下へと去っていく足音が聞こえた瞬間、翔大はその場にへなへないと崩れ落ちた。
「……はぁ〜、死ぬかと思った……。実家の防御力、相変わらず高すぎやろ……」
額の冷や汗を拭いながら振り返ると、物音で少し目を覚ましたのか、モナがふにゃりと目をこすりながら起き上がってきた。
「むにゃ……ダーリン……? なんか、いまお母様の声がしたような……?」
「気のせいや、気のせい。寝とき、寝とき」
翔大が優しく頭を撫でると、モナは安心したようにふにゃっと微笑み、再び素直に目を閉じてスヤスヤと寝息を立て始めた。 安心して再び寝入ったモナが寝返りをうった拍子に、小さな手が翔大のズボンの裾をごそごそとぎゅっと掴んだ。眠っていても翔大のそばから離れたくないと言わんばかりのその無意識の仕草に、翔大の胸は再び愛おしさで満たされていく。
外を降る静かな雨は、二人の特別な時間を守るように、いつまでも優しく降り続いていた。