放課後の誰もいない男子トイレ。夕暮れ時の赤い光が、斜めに窓から差し込んでいた。
水道の蛇口をひねり、冷たい水で何度も顔を洗う。掌にすくった水が、驚くほど冷たくて心地よかった。これで少しは、脳味噌を蝕む重苦しい靄が吹き飛んでくれればいいのだが。
濡れた顔を拭い、翔大はふと正面の鏡を見上げた。
「……また、か」
思わず、乾いた苦笑が漏れる。
鏡の中に映っているのは、瑞々しい肌をした、どこからどう見ても17歳の男子高校生の姿だ。しかし、その黒い瞳の奥をじっと凝視すると、まるで二重露光の写真のように、全く別の男の顔が透けて見えていた。
白髪の混じり始めた髪。深く刻まれた目尻の皺。満員電車と理不尽な接待、終わらない書類仕事に追われ、すっかり生気を失った50代の冴えない中年サラリーマン――すなわち、本来の翔大の姿だった。
「やっぱり、気のせいやないな……」
翔大は自分の顔に触れてみた。指先に触れるのは滑らかな若い皮膚なのに、脳裏に浮かぶのは、疲れ果てて弛んだ自分の中年の頬の感触だ。
原因は分かっている。二日前、モナの父親から告げられたあの言葉。
『この歪みが維持できる時間も、決して無限ではないのだよ』
過去に戻り、こうして高校生として生活を送るための「時空の歪み」。モナは翔大の中身が50代の男だと知った上で、それでも「ダーリン」と呼び、一途に愛してこの歪みを維持してくれている。だが、異星のテクノロジーをもってしても、時の濁流に抗う負荷は確実に限界を迎えようとしていた。
歪みが軋むたびに、翔大の頭の奥を鋭い頭痛が襲う。
17歳の頭痛。かつて本当に歩んだ17歳の記憶と、現在の歪められた時間が衝突を起こしている。それはモナの無理の限界ではなく、翔大自身の「50代の肉体と精神の記憶」が、この若い時間に耐えきれなくなってきている証拠だった。
(モナは俺のために、あんなに一生懸命になってくれとるのに……お父さんにあんなに啖呵切っておいて、俺は何をしてるんや……)
底知れない不安が胸の奥から湧き上がり、泥のように広がっていく。
鏡の中の「老兵」が、情けない顔で翔大を見返してくる。自分がこの歪みを維持できなくなれば、モナとのこの愛おしい時間は終わってしまう。玉田や荻中、村上といった、あいつらとの馬鹿馬鹿しくも楽しい高校生活も、すべて消えてしまうのだ。
「中身はおっさんのくせに、高校生生活に未練たらたらやな。ほんまに恰好悪いわ、俺は」
自嘲気味に呟いたその時、頭の奥でピキリと鋭い痛みが走り、翔大は思わず洗面台の縁を強く掴んだ。視界が一瞬、セピア色に歪む。まるで二人の青春の終焉をカウントダウンしているかのような、無慈悲なきしみだった。
「ダーリン! どこにいるんだっちゃー!」
突然、廊下の方から、体育館の喧騒を突き抜けるような、あの鈴の鳴るような美しい声が響いてきた。
翔大はハッと息を呑み、深く息を吸い込むと、両手で自分の両頬を強く叩いた。パチン、と乾いた音が響く。
もう一度鏡を見ると、そこには五十代の影を必死に押し殺した、ただの若い高校生の自分が立っていた。
「よし。……行かなあかんな」
モナが待ってくれない。彼女がこの時間を守ろうとしてくれている限り、自分が弱音を吐くわけにはいかない。
翔大は鏡の中の老兵に背を向け、いつもの優しい笑顔を浮かべてトイレを出た。
夕暮れの廊下を進むと、向こうから息を切らせたモナが走ってくるのが見えた。翔大の姿を捉えた瞬間、彼女の顔がパッと華やぐ。
「あ、ダーリン!探したっちゃ!」
「ごめんごめん、ちょっと顔洗ってたんや。劇の準備、もう始まってるよな」
いつもの調子で優しく微笑みかける翔大。しかし、モナはいつものように飛びついてこず、ピタリと足を止めると、翔大の顔をじっと覗き込んできた。
異星の美しい瞳が、悲しげに揺れている。彼女の携帯する不思議な指輪が、翔大の頭痛に呼応するように小さく明滅していた。翔大がどれほど隠そうとしても、モナには彼の「軋み」が、その痛みが分かってしまうのだ。
「ダーリン……また頭痛がするっちゃ?無理しちゃ駄目だっちゃ……」
モナはそっと手を伸ばし、翔大の頬に触れた。その小さな手の温もりが、不安で冷え切っていた翔大の心をじんわりと溶かしていく。
「モナ……」
「うちはね、ダーリンが50代でも、おじいちゃんになっても、大好きな気持ちは変わらないっちゃ。だから……この時間がダーリンを苦しめるなら、うちはいつでも――」
モナの瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。自分のことなど二の次で、ただひたすらに翔大の身を案じ、この幸せな時間を終わらせる覚悟すら口にしようとするその純粋さ。
その無邪気なほど真っ直ぐな愛に触れた瞬間、翔大の胸の奥で燻っていた曇りが、一気に吹き飛んだ。
(何を弱気になってんねん、俺は。おっさんの意地はどこへ行った)
不安に押しつぶされそうになっていた自分が急に小さく思えてくる。翔大はそっと手を伸ばし、モナの目元に溜まった涙を親指で優しく拭った。
「……それに、今日の劇、モナが主役の『かぐや姫』やろ?主役がそんな泣きそうな顔してたら、月に帰る前に劇が終わってまうで」
少しおどけた調子で言うと、モナは涙目のまま、ぷくーっと愛らしく頬を膨らませて翔大を睨んだ。
「うちは月に帰ったりしないっちゃ! ダーリンを置いていくわけないっちゃ!おじいさん(玉田)や、帝(荻中)のところになんて絶対に行かないっちゃ!」
そのいつもの一途な猛抗議に、翔大は思わず吹き出してしまった。
モナがここまで自分を想ってくれているなら、その愛の重さに、男として、大人として全力で応えるだけだ。タイムリミットが何だ。歪みが何だ。終わるその瞬間まで、俺がこの子を日本一、いや宇宙一幸せな女の子にしてやる。
翔大の瞳に、確かな力強い光が戻った。
「苦しくなんてないよ」
翔大はモナの手を優しく包み込み、今度は心からの、太陽のような笑顔を浮かべた。
「むしろ逆や。俺は今、めちゃくちゃ幸せや。モナが俺のために作ってくれたこの時間を、一秒でも長く大事にしたいって、本気で思ってる。だから心配いらんよ。俺の心は一歩も引いてへんからな」
翔大の真っ直ぐな言葉に、モナは一瞬目を見開いたあと、嬉しそうに何度も力強く頷いた。その瞳にはまだ涙が滲んでいたけれど、そこにはいつもの一途で弾けるような、最高のラム色の笑顔が咲いていた。
「分かったっちゃ! ダーリンがそう言ってくれるなら、うち、この時間を全力で守るっちゃ! 今日の劇も、最高の思い出にするっちゃ!」
「ああ、頼りにしてるで!」
ふと、二人が見つめ合うその廊下の少し離れた曲がり角。 その物陰から、文化祭の買い出しの途中で通りかかった玉田と荻中が、そのやり取りをじっと目撃していた。
いつもはおふざけで翔大に絡んでくる玉田が、珍しくチャラついた態度を引っ込め、真剣な眼差しで腕を組んでいる。
「……なあ、荻中。あいつら、なんか……すげえもんで結ばれてるよな。俺たちが入り込めないくらいの、何か深いもんでさ」
隣で荻中も、微かに笑みを浮かべて首を振った。
「あぁ。野暮な真似はよそう、玉田。今はただ、あいつらの時間をそっと見守ってやろうだがん」
「……だな」
二人はそれ以上声をかけることもなく、そっと足音を殺してその場から引き返していったクラスメイトたちもまた、言葉には出さずとも、翔大とモナの間に流れる本物の絆と切なさを、なんとなく肌で感じ取っていたのだ。
不安を乗り越え、より一層深まった二人の絆を胸に。 翔大とモナはしっかりと頷き合い、茜色に染まる廊下を並んで歩き出した。これから始まる、文化祭の狂想曲(ラプソディ)の舞台へと向かって――。