「おい荻中!台本と全然違うこと喋るなとか言うとる場合か!はよ引っ込まんかい!」
「否!否!そこはもっと優雅に、横浜の風を感じるように十二単をなびかせて!」
幕が上がったばかりの体育館のステージ裏は、すでに地獄絵図と化していた。
クラスの出し物である演劇『新説・竹取物語』。脚本と演出を仕切る玉田が、トレードマークの小太りな小さな体を大汗で濡らしながら、小心者特有の早口で怒鳴り散らしている。いつもは博識ぶっている彼も、今日ばかりは余裕がないらしい。
舞台の上では、きらびやかな着物をアレンジした特製ドレスに身を包んだモナが、息を呑むほど美しい「かぐや姫」として佇んでいた。
その隣で、帝役の荻中がこれ見よがしにポーズを決める。名古屋仕込みの熱い視線をモナに送りながら、朗々とアドリブを響かせた。
「ああ、麗しのかぐや姫! 俺のこの胸の炎は、どえりゃあ燃え上がっとるがや!月へなんか帰らんと、一緒に名古屋城の金のシャチホコを見に行かまい!」
「ちょっと待って!その手を離すピー!」
突如、黒のフルフェイスヘルメットを被った男が乱入してきた。竹林を荒らす悪の大魔王役の村上だ。なぜかサッカーボールを小脇に抱え、プライドの高そうな声を響かせる。
「かぐや姫を月に連れ去るのは、わしじゃ!俺が言うくらいだぜぇ〜!」
「おい村上!なんだそのヘルメット!平安の世界観がバラバラじゃん!」
舞台袖から玉田が必死の形相で制止するが、村上はどこ吹く風で、今度は舞台袖の玉田に指を向けた。
「玉プィー、そんなに怒らんでぇ〜。あとで一緒にアニメ見よ?」
「やめんか!気持ち悪いわ!」
客席からは、すでに爆笑と戸惑いの声が巻き起こっている。
そんな中、翔大はといえば――。
「……なんで俺が、ただの通りすがりの木こりAなんや」
茶色い布切れのような衣装を纏い、舞台の端っこで段ボール製の斧を持って突っ立っていた。50代の錆びついたサラリーマン根性が染み付いている身としては、目立たないポジションはありがたい。だが、いくらなんでも、目の前で繰り広げられる同級生たちの暴走劇には頭が痛くなった。
「まったく、どいつもこことも勝手なことばっかり言うて……。これ、劇として成立しとんのか?」
翔大が関西弁で小さく愚痴をこぼした、その時だった。
舞台中央のモナが、きょろきょろと美しい瞳を動かし、ステージの端にいる翔大を見つけた。その瞬間、彼女の顔がパッと輝く。
「あ!ダーリン!こんなところにいたっちゃね!」
「ぶっ!?」
翔大は思わず吹き出し、心で叫んだ。おいモナ、お前は月に帰るかぐや姫やろ!通りすがりの木こりAをダーリンって呼ぶ奴があるか!
案の定、客席が「ダーリン!?」とザワつき始める。舞台上の荻中と村上が、嫉妬の炎を燃やして翔大を睨みつけてきた。
「峰ピー……!木こりのくせにかぐや姫と不適切な関係ピー!?」
「峰川ぁ!おみゃあ、通行人の分際でモナちゃんをたぶらかしたな!」
玉田が舞台袖で「終わった……我が演劇ライフはここで終了だ……」と頭を抱えてしゃがみ込んでいる。
しかし、モナは周囲の混乱など一切気に留めていなかった。ただ真っ直ぐに翔大だけを見つめ、胸の前で不思議な指輪をぎゅっと握りしめる。昨日の夕暮れ、トイレの前で翔大が言ってくれた言葉が、彼女の心を芯から温めていた。
――主役がそんな泣きそうな顔してたら、月に帰る前に劇が終わってまうで。
モナは小さく息を吸い込んだ。
「みんな、うちの歌を聴いてほしいっちゃ――」
その瞬間、体育館の空気が一変した。
モナの口から溢れ出たのは、この地球のどこを探しても見つからない、あまりにも澄んだ「美しい声」だった。 言葉の意味はわからない。けれど、それは星々の瞬きや、時空を渡る風の優しさをそのまま音にしたような、圧倒的な旋律だった。
歌声が響き渡る中、その神秘的な共鳴によって、モナの指輪が眩い光を放つ。 ――次の瞬間、彼女の視界に、そしてほんの一瞬だけ翔大の脳裏にも、信じられない幻影が広がった。 そこには、数十年後の未来の宇宙空間。白髪が混じり、少しだけ老いた姿になった翔大と、変わらぬ美しさをたたえたモナが、二人で並んで地球の星空を穏やかに見上げている未来の姿があった。(私たちは、未来でもずっと一緒だ――) 確信に満ちたその温かい光景を共有したあと、二人はパッと現実のステージへと引き戻される。
がやがやと騒いでいた荻中も村上も、動きを止めて聞き惚れている。客席の生徒たちも、教師たちも、誰もが声を失い、モナの歌声に魂を奪われたようにステージを見つめていた。まるで、本当に月から舞い降りた天女の調べのようだった。
自己流のオカリナしか吹けない翔大にも、その歌の凄さは痛いほど分かった。
(……綺麗やな。未来の景色が、あんなにはっきりと……)
不覚にも、胸が熱くなる。迫りくるタイムリミットや歪みの恐怖を全部はねのけるように、彼女がこの声で、ただ一人、自分を呼び続けてくれたのだという事実と、未来への確かな予感が、じわじわと心に染み渡っていく。
モナの歌声が最後の余韻を残して体育館に消えたとき、一瞬の静寂のあと、割れんばかりの拍手と大歓声が巻き起こった。
「おー、す、素晴らしい……!大成功じゃん!」
いつの間にか立ち上がっていた玉田が、涙目で拍手を送っている。劇の内容はめちゃくちゃだったが、モナの歌声がすべてを奇跡的な大成功へと昇華させたのだ。
幕がゆっくりと下りていく中、モナは着物の裾を翻して翔大に駆け寄ってきた。
「ダーリン!うちの歌、ちゃんと届いたっちゃ?」
上目遣いで、少し不安そうに、だけど一途な瞳で翔大を見てくる。少しでも他の女子が近くにいると猛烈に焼きもちを焼く彼女だが、翔大に向ける笑顔はいつだって純粋そのものだった。
翔大は斧を置き、頭を掻きながら、五十代の照れ隠しを半分交えて笑った。
「ああ、ばっちり届いたわ。……めちゃめちゃ、よかったで、モナ!」
「うわぁ~嬉しい〜やったっちゃ!」
モナは満面の笑みで、翔大の腕に思いきり抱きついた。ドン、と胸に響いた心地よい衝撃と、柔らかい体温。照れくささと愛おしさで、翔大の胸はいっぱいになる。
興奮冷めやらぬクラスメイトたちが「お疲れ!」「マジで凄かったな!」とハイタッチを交わし合う喧騒の中、モナは翔大の手をきゅっと握ると、誰にも見つからないようにステージのさらに奥、暗い機材の影へと引っ張り込んだ。
表の体育館からは、まだ鳴り止まない拍手と後片付けの騒がしさが遠く響いている。遮蔽物に囲まれた狭い空間で、急に二人きりの静かな世界が作られた。
モナは衣装の十二単の長い袖をパタパタと少し揺らしながら、上目遣いでじっと翔大を見つめてくる。
「ダーリン、うち……ちゃんと『かぐや姫』になれてたっちゃ?」
異星の美しい瞳が、薄暗い舞台裏で少し不安そうに、だけど切ないほど愛おしそうに潤んでいた。
至近距離で見つめ合えば、さっきまでのドタバタ劇の空気は一瞬で消え去り、互いの吐息が触れ合いほどの甘い緊張感が走る。
翔大は50代の「大人」としての優しい眼差しを交え、誰も見ていない舞台裏で、モナの頭をそっと撫でてやった。
「ああ、世界一綺麗なかぐや姫やったよ。劇の中とはいえ……月になんて絶対に帰したないって、本気で思ったわ」
それは「木こりA」のセリフにかこつけた、翔大の本音だった。時空の歪みやタイムリミットへの不安を全部吹き飛ばすようなその言葉に、モナの顔がパッと赤くなる。
モナは小さく目を閉じ、ほんの少しだけ、その可憐な唇を上へと向けた。
「ダーリン……じゃあ、かぐや姫にご褒美をくれるっちゃ?」
(アカン、これは完全にそういう雰囲気や……。今、目の前のモナが可愛すぎる……!)
翔大の心臓がバックバクと早鐘を打ち、五十代の魂が「いけ、若者!」と背中を押したその瞬間――。
ガラッ!
「あー!見つけた!峰ピー、抜け駆けして暗がりでモナ姫と不適切なアドリブしようとしてるピー!」
「峰川ぁ!おみゃあ、通りすがりの木こりの分際で抜けがけとはええ度胸だがや!」
間の悪いことに、次のクラスの機材を運び込みにきた玉田、荻中、そしてフルフェイスを脇に抱えた村上の三人が、カーテンを盛だいに開け放った。
「なっ……!?」
翔大は飛び退くようにモナから距離を取り、顔を耳の裏まで真っ赤にして怒鳴り返した。
「ち、違うわ!誰がアドリブやねん!大体お前らタイミング悪すぎるやろ!」
しかし、モナは絶好のチャンスを邪魔されたことに猛烈にぷくーっと頬を膨らませて、翔大の袖をぐいぐいと引っ張る。
「もー!玉田くんたち空気読めないっちゃ!ダーリン、続きだっちゃ!早くするっちゃ!」
「アホか!こんなギャラリーの前でそんなん恥ずかしくてできるかッ!」
「えー!減るもんじゃないっちゃ!ダーリンのいけずー!」
「いけずとか言うな!ほら、仕事、仕事やない……片付け、片付け!終わらんぞ、頑張るぞ~っ!」
完全に文化祭の現場監督と化した翔大が、必死に自分の動揺を隠すように男たちを追い立てる。
「フッ……木こりのくせに純情だぜぇ〜」と村上にニヤニヤと煽られ、「おい峰ピー、ヒロインを独占するなよぉー!」と玉田からブーイングを浴びせられながらも、賑やかな片付け作業が始まった。
ふと、翔大が控え室のテーブルの片付けをしようとした時、その上にぽんと置かれた洗練されたパッケージの奇妙な菓子箱に気づいた。
「ん……これ、なんや?」
箱を開けると、中には「食べた瞬間に疲れが吹き飛ぶ」という異星の栄養菓子が入っており、添えられたカードには『お疲れ様。うちの娘をよろしくね』というモナの母親からの手書きのメッセージが残されていた。
「うわっ、お母さんいつの間に来てたんや……!」
冷や汗をかきつつも、その粋な隠し差し入れにどこか温かい安心感を覚える翔大だった。
モナに「だっちゃだっちゃ」と腕をきつく絡められて激しくイチャつかれ、同級生たちには「抜け駆け木こりめ!」と羨ましげなヤジを飛ばされながら、翔大の二度目の文化祭は、賑やかで、騒がしくて、これ以上ないほど幸福な喧騒の中で幕を閉じるのだった。