どくん、どくん、と胸が高鳴る。 腕の中にいる彼女の、柔らかして確かな温もり。50代の寝室を包み込む甘い花の香りで、ようやく翔大はハッと我に返った。
「あ、あなた、どうしたの?」
不思議そうに、トパーズの瞳を潤ませて見上げてくる彼女。翔大はその華奢な肩をやさしく掴み、さらに少しだけ体を引き離した。そして、諭すように、しかし自分に言い聞かせるように必死の形相で語りかけた。
「なぁ、さっきも言うた通り、俺はもう地球で結婚して何十年も経つし、東京には子どもだっておるんや。年齢だって56歳のおっさん。今さら君とどうこうできるような、そんな身軽な人間やないねんやんか」
家庭を壊すわけにはいかない。それが彼なりの矜持きょうじだった。だが、じっと翔大の言葉を聞いていた彼女は、悲しむどころか、パッと満面の笑みを浮かべて首を振った。
「大丈夫!年齢や場所、時代なんて、宇宙の法則の前には何の関係もないよ」
「関係ないって、そんなわけ……」
「できるよ。私の星の『多重世界収束パラレル・シンクロ装置』を使えばね!」
そこから彼女が語った説明は、量子力学だか宇宙紐コスミック・ストリング理論だか、高度な科学すぎて翔大の脳細胞ではさっぱり処理できなかった。しかし、要するに地球の概念で言うところの『若返りの薬』と『タイムマシン』などが一つになった、おそるべき画期的な超技術のようだった。
それを理解した瞬間、翔大の胸は少年のように跳ね上がった。だが、すぐに冷徹な理性が強烈なブレーキをかける。見ず知らずの異星の美少女のために、自分が突然この世界から消えたら、残された家族はどうなる。捜索願が出され、会社は無断欠勤になり、どれほどの迷惑がかかるか。その現実的な不安と罪悪感が、おっさんの足をすくませる。
翔大がその苦い思いを正直に伝えると、彼女は少しも曇りのない笑顔で言った。
「心配しないで。こちら側のあなたも、向こうに行くあなたも、両方ちゃんと存在するから大丈夫!」
「……は?グラグラする。頭がグラグラしてきた。それじゃあ、俺が二人存在することになるじゃないか。それってドッペルゲンガー的なやつで死んだりせえへんの!?」
「時空っていうのは不思議なものでね、実態と影が一つのようになるから、何も問題はないの。誰も悲しまないよ」
何が何やら、もう狐につままれたどころか、最新の量子コンピューターにハッキングされたような気分だった。しかし、誰も傷つかず、家族にも絶対に迷惑がかからないという彼女の言葉を、翔大は信じることにした。何より、彼の心の奥底で数十年間眠っていた「あの頃の少年の夢」が、行け、と激しく背中を押していた。
彼女が指にはめていた不思議な指輪を宙にかざすと、何もない空間に、淡い光を放つホログラムのモニターが浮かび上がった。
「さあ、この前に立って」
言われるがままに、翔大はその未知の光の前に進み出た。 次の瞬間、視界が弾けるような真っ白な閃光で満たされた。 強烈な眩しさに思わず目をつむる。どれほどの時間が経ったのだろうか。一瞬のようでもあり、数百年が流れたようでもある不思議な浮遊感が体を引き裂き、やがて、ゆっくりと足が地に着く確かな感覚が戻ってきた。
翔大は、恐る恐る目を開けた。
「……え?」
目の前に広がっていたのは、見覚えのある、ひどく懐かしい景色だった。1980年代の匂い。かつて高校時代を過ごした、現実の今ではとっくに取り壊されて存在しないはずの、あの実家の子供部屋の真ん中に、自分は立っていた。 触った自分の顔には、シワもなければ、頭頂部にも豊かな髪の感触がある。
「あれ?翔大、起きたの?」
階下から、トントントン、と小気味よい包丁の音が響き、聞き覚えのある、けれどもう二度と聞けないはずの声がした。階段を転げるようにして駆け下りると、そこには、数年前に亡くなったはずの母・佳子が、若々しい割烹着姿で立っていた。
「……おかん……!おかん!!」
翔大は感情を抑えきれず、大声をあげて泣き崩れ、母に抱きついた。
「な、何よこの子は!急に大声で泣いて、どうしたの?怖い夢でも見たの?」
母は心底不思議そうな顔をしながらも、昔と変わらない温かい手で、優しく翔大の背中を叩いてくれた。その手の温もりに、翔大はそれからしばらく母の側を離れることができず、とりとめもない話を夢中で続けた。
驚くべきことに、この世界では、モナの存在はすでに母や家族に完全に受け入れられていた。しかも「翔大の婚約者」ということになっており、すでにこの家で一緒に暮らしているというのだ。宇宙の超技術による時空の改変によって、翔大の過去そのものが、彼女との出会いに美しく塗り替えられていたのだった。
そんな話をしていると、パタパタと小気味よい足音がして、彼女が姿を現した。
「お母様、翔大さんと少しお話があるので、お部屋に行ってもいいですか?」
「いいわよぉ。私は夕飯の支度をしなくちゃね。モナちゃんも、お話が終わったらお手伝いお願いね」
母は本当に嬉しそうに目を細めた。
「はーい!」
彼女は元気に返事をして、翔大の腕を引っ張って懐かしい子供部屋へと戻った。
「あぁ……本当に戻ってきたんだな、ここに」
机の上の懐かしい教科書、壁に貼られたお気に入りのポスターを眺め、翔大はしみじみと息を吐いた。そして、ようやく少し落ち着いて、彼女と正面から向き合った。
「……あのさ。ここではじめて、ちゃんと自己紹介させて。俺は、峰川翔大、高校2年生。」
彼女は嬉しそうに、小さな胸を誇らしげに張った。
「私は、モナ・ムールといいます。モナって呼んでね、あ・な・た!」
「モナ、か。正直、さっぱり今の状況は分かってない。だけど……もう会えないと思ってたおかんに、また会わせてくれた。それは本当に感謝してる。ありがとう、モナ」
心の底からの感謝を伝えると、モナはニッコリと無邪気に微笑んだ。
「私も嬉しい!あ・な・た、これからよろしくね!じゃあ、お母様のお手伝いに行ってくる!」
嬉しそうに部屋を出ていこうとするモナの背中に、翔大はふと思いついて声をかけた。
「あ、モナ!一つだけ、お願いがあるんやけど」
「ん?なに?あなたのお願いなら、何でも聞くよ!」
「あのさ、話す言葉なんやけど……これからモナは『仙台弁』で話してくれないかな?(笑)」
「えっ?センダイベン……?」
「それともう一つ、俺を呼ぶときはあ・な・たでなく、英語でダーリンって呼んでくれたら嬉しいんやけど」
「うん!ちょっと待ってね」
モナは不思議そうな顔をしながらも、すぐに例の指輪に向かってブツブツと早口の宇宙語で話しかけ始めた。脳内データのダウンロードと書き換えを行っているのだろう。およそ2分後。モナはパッと顔を輝かせ、翔大を振り返って言った。
「ダーリン!うち、下でお母様のお手伝いしてくるっちゃ!これでいいっちゃ?」
「……完璧や!!」
あのアニメのヒロインそのものの口調に、翔大の胸は最高の高鳴りを見せた。嬉しさがこみ上げて、思わずガッツポーズをしてしまう。
モナが階段をルンルンと駆け下りていく足音を聞きながら、翔大は部屋の窓辺に立った。高校生の頃、毎晩のように窓を開けて星空を見上げていた、あの窓だ。
窓の外には、赫々(かくかく)として沈んでいく、燃えるような美しい夕日が広がっていた。 あの金曜日の仕事終わりに、おっさんだった自分が「なんか幸せやなぁ」と見上げた、あの燃えるような夕焼け空と、確かにどこかで繋がっているような気がした。
俺たち地球人が「ただの夕焼け」だと思って見上げているあの空の向こうでは、今も無数の時空が交差し、奇跡のような超技術が息づいているのかもしれない。日常のすぐ裏側で、境界線はいつでも俺たちを待っているのだ。
「不安もある。でも……またこれから、俺の新しい人生が始まるんだ!」
56歳の記憶を持ったまま、10代の若さと、夢にまで見た異星の婚約者を同時に手に入れた男。 翔大は、激しく高鳴る胸の鼓動を抑えきれないまま、新しく始まる青春の星空を見据えていた。