季節は確実に歩みを進め、街には冷たい木枯らしが吹き抜けるようになっていた。 校舎の窓の外では枯れ葉が舞い、放課後の教室には夕日が長く重い影を落としている。
「峰川、ちょっといい?」
カバンを肩にかけ、帰ろうとした翔大の前に、玉田がヌッと立ちはだかった。その鋭い眼鏡の奥の目は、冗談を言っているようには見えない。玉田は胸の前で愛用の科学ノートをぎゅっと抱きしめ、周囲に声が漏れないよう低く呟いた。
「昨日の階段の件、俺の目は誤魔化せないよ。あの時、確かに空間の歪みと重力の異常値が……」
「な、何言うてんねん玉田。俺がドジ踏んでバタバタしてただけやんか。なぁ、モナ?」
翔大は年季の入った元サラリーマンのポーカーフェイスを総動員して笑ってみせたが、背中には冷や汗が伝っていた。隣のモナも、不安そうに左手の不思議な指輪を右手で隠している。
「否!否!まぁ、今日のところはこれ以上追及しないでおくよ。でもさ、科学で説明がつかない『何か』が君たちにあるのは、もう俺の中で確定してるからさー」
玉田は意味深な捨て台詞を残し、足早に教室を去っていった。
「……遠からず、みんなにバレるな」
帰り道、自転車を押しながら翔大が漏らした呟きは、冬の寒風にかき消されていった。周囲に正体がバレるかもしれないという外的な焦燥感が、じわじわと翔大の胸を締め付けていた。
その日の夜、二階の部屋で過ごしていた翔大は、ふと隣にいるモナの異変に気がついた。
いつもなら、大事なときにだけ神秘的な光を放っていた不思議な指輪。その本来の美しい輝きが、まるで命の灯火が消えかけるように、嘘のようにどんよりと鈍く曇り始めていたのだ。
それに比例するように、モナが浅い呼吸を繰り返しながら、ベッドの上で力なく横たわっていた。
「モナ、大丈夫か?顔色、ごっつう悪いど……」
「ダーリン……。うちは、うちはずっとここにいたいっちゃ……。ダーリンの隣に、ずっといたいっちゃあ……!」
モナは突然、大粒の涙をボロボロとこぼしながら泣きじゃくり、翔大の胸にしがみついてきた。
「モナ!?どうしたんや、急に泣いて。何があったん?」
翔大には、モナがここまで激しく泣き崩れる理由が分からなかった。ただ、胸を締め付けるような焦燥感に駆られ、その細い身体をただきつく抱きしめることしかできない。
しばらくすると、信じられない現象が翔大の目の前で起き始めた。
「あっ……あ、あ……」
モナの瑞々しかった肌が、見る間にツヤを失っていく。美しかった髪には白いものが混じり、顔には深い皺が刻まれていく。徐々に、徐々に、モナの身体は時間を早回しするように老化し、まるでおばあちゃんのような姿へと変貌していったのだ。
「そんな……嘘やろ……モナ、何でや!何が起きとんねん!」
パニックになりかける翔大の顔を見上げ、老いた姿のモナが、悲しそうに、けれど愛おしそうに小さく微笑んだ。その瞳の奥の輝きだけは、まぎれもない、いつものモナのままだった。
ハア、ハア、とモナの息がどんどん荒くなっていく。今にもその命の灯火が消えてしまいそうだった。
(これ以上、大切なものを失ってたまるか……っ!)
長い人生の酸いも甘いも経験してきたはずの脳裏で、元オヤジの魂が必死に叫んでいた。
ふと、勉強机の上に置かれたオカリナが目に入る。思い出すのは、あの孤独で退屈だった冴えない日々だ。あの色のない世界に突如現れ、自分を「ダーリン」と呼んで、人生のすべてを鮮やかなラム色に染めてくれたのがモナだった。
「おばあちゃんになったって、関係あるかい……!お前が俺の救世主なんや!」
翔大は、皺の刻まれたモナの小さな手を、骨が軋むほど強く握りしめた。もう片方の手で机の上のオカリナを固く握りしめ、喉の奥をぎゅっと詰まらせながら、魂ごと声を絞り出した。
「モナ……っ!たとえ、お前が、どんな姿になっても……っ、おばあちゃんに、なったって……!」
涙で視界が歪む。普段なら恥ずかしくて口が裂けても言えない言葉が、心臓の奥からせり上がってくる。
「お、俺は……っ、お前が……お前が、大好きだ……っ!あ、愛してる……!お前と、ずっと、ずっと一緒や……っ!!」
「ダーリン……!」
モナの目から、また新しい涙が溢れ出した。彼女は最後の力を振り絞るようにして、大泣きしながら言葉を返す。
「うちは……うちは、本当に嬉しいっちゃ……!ダーリン、愛してるっちゃ……!愛してるっちゃあ!」
愛おしくて、切なくて、もうどうなってもいい。翔大はそっと顔を近づけ、彼女の乾いた唇に、優しく、軽くキスをした。
その瞬間――
キィィィィン――!
と耳鳴りのような音が響き、モナの指輪が、いつもとは違う禍々しいほどの真っ白な光を大爆発させた。
あまりの眩しさに視界が白く染まる中、二人の脳裏に、強烈なビジョンが走馬灯のように駆け抜けた。それは、星空の下、大人の姿をした美しいモナと、50代の姿のままの翔大が、お互いの薬指に指輪をはめて、涙を流しながら微笑み合っている「未来」か「過去」かも分からない一瞬の光景だった。切っても切れない二人の運命の刻印。
「うわっ!?」
二人はそのまま、深い闇へと意識を失っていった。
「……ん……朝、か……?」
窓から差し込む眩しい朝日に、翔大は目を覚ました。 慌てて飛び起き、恐る恐る隣のベッドを見る。
そこには――。
「……ふわぁ、よく寝たっちゃ……」
小さなあくびをして涙目をこする、元の若くて、ピチピチとした、いつもの美しいモナが眠そうに起き上がるところだった。
「モナ!お前、元に戻っとる!」
「え?あ、本当っちゃ!皺々がなくなってるっちゃ!」
二人は手を取り合って、子供のように飛び跳ねながら喜び合った。
落ち着いたあと、モナは不思議な指輪を掲げ、異星にいる母親と交信を行った。
『モナ、心配したのよ。でも大丈夫。それはね、地球の時空や重力、星の自転や公転、大気の違いに、あなたの身体が急速に適応しようとして起きた一時的な「リバウンド」みたいなものだったのよ』
指輪の向こうから、ホッとしたような温和な母親の声が響いた。体調の異変も、地球という環境に完全に馴染むための不可避なプロセスだったらしい。
通信が終わり、部屋に再び静けさが戻る。 すると、モナが急にモジモジし始め、顔を真っ赤に染めて上目遣いで翔大にじりじりと近づいてきた。うるうる全開の、恋する女の子の瞳が翔大を捉えて離さない。
「ねぇ、ダーリン……。昨日、うちのこと『愛してる』って……。はじめてはっきり聞いたっちゃ。うち……すっごく、すっごく嬉しかったっちゃ……」
「あ、いや……それはその……」
翔大は急に恥ずかしさが大爆発し、そっぽを向いて頭をガリガリと掻いた。あの極限状態だったからこそ言えたセリフだ。今まともに思い返すと死ぬほど照れくさい。
「それに、それに……うちに、キスしてくれたっちゃ……♡」
「あ、あれはその!なんていうか!もうあかんと思ったから、その、自然に行き勢いでっていうか……!ほんまごめん!」
必死に言い訳をする冴えないサラリーマン(17歳)に、モナはいたずらっぽく、けれどどこまでも深い愛を込めて微笑んだ。
「ううぅん、謝っちゃダメだっちゃ!」
モナは勢いよく翔大の胸に飛び込むと、両腕を背中に回してぎゅっと抱きついた。驚くほどの力強さ。そこには「もう絶対にこの人を離さない、この人じゃなきゃダメだ」という、一途で揺るぎない強い意志が込められていた。腕の中に伝わる、温かくてピチピチとした若い命の鼓動。
(うわ、これアカン。この距離感は本気でアカン!このままやと、17歳の肉体が本能的にヤバい方向に行きそうや……!)
心臓がバックバクと早鐘を打ち、緊張が限界に達した翔大は、とっさに部屋の隅を指差して大声を上げた。
「うわぁ!!ゴキブリッ!!!」
「きゃあああああかっ!?!?どこだっちゃ!?」
虫が大嫌いなモナは、文字通り飛び上がるようにして翔大から離れ、ベッドの布団の中に頭からすっぽりと潜り込んだ。
引き離すことに成功した翔大は、ニヤニヤと不敵に笑う。
「うっそおーーん!あはは、にーげろ!」
そう叫ぶや否や、翔大は部屋のドアを蹴破るように開けて、階段をドタドタと駆け下りた。
「あー、翔大。朝からバタバタして何事……」
一階のリビングに飛び込むと、エプロン姿の母親・佳子が、朝食のトーストを皿に並べながら不思議そうに翔大を見た。
そこへ、二階から「もうーー!ダーリンのいじわるっちゃ!待つっちゃあー!」と、顔を真っ赤にしたモナがドタドタと階段を降りて突っ込んでくる。
朝から顔を真っ赤にして追いかけっこをする二人を見て、佳子はすべてを察したようにクスクスと優しく微笑んだ。
「あらあら、朝から元気ねぇ。翔大、女の子はいじめちゃダメよ?」
「ち、ちゃうねんオカン!これには深いワケが……っちゅうか誤解や!」
翔大が必死に弁明する横で、モナは佳子の後ろに隠れながら、翔大に向かってぷくーっと頬を膨らませてみせる。
そして、朝食を済ませて二人で並んで学校へ向かう登校道。 冷たい木枯らしが吹き抜ける中、昨日までの死闘の余韻を胸に、二人は並んで歩いていた。
「なあ、モナ……その、昨日のことは……」 少し気まずそうに翔大が口ごもると、モナは恥ずかしそうに頬を染めながら、ふと立ち止まった。そして、そっと自分の小指を、翔大の左手の小指に優しく絡ませてみせる。
「……昨日のこと、絶対に忘れないっちゃ。うちは、ダーリンとずっとずっと一緒だっちゃ」
繋がれた小指から伝わってくる温もりに、翔大は胸の奥がキュッと締め付けられるような愛おしさを覚えた。 外的な焦燥感や秘密を抱える怖さは消えない。だけど、この温もりがあれば――翔大は強く握り返した小指に力を込め、前を向いてしっかりと足を踏み出した。
そして、初冬の冷たい風を吹き飛ばすような温かい絆を胸に、二人は再び、青春の星空の下へと歩き出していくのだった。