遊園地での夢のような時間の余韻は、あまりにも唐突に、そして最悪な形で打ち破られることになった。
駅へと向かう薄暗い路地裏。街灯の切れた空間の行く手を塞ぐようにして、他校の制服をだらしなく着崩したガラの悪い三人組がまたもや立ちはだかった。
「おいおい、そこのシケたツラしたお兄さん。隣の可愛い子、ちょっと俺たちと遊ばせてよ」
にやにやと下品な笑みを浮かべ、先頭のリーゼント風の男がモナの肩に手を伸ばしようとする。
「ひゃっ……!ダーリン!」
モナが怯えた声を上げ、すかさず翔大の背中に隠れた。その小さな震えが背中に伝わった瞬間、翔大の中で56歳のサラリーマンとしての理性が消し飛び、内なる頑固親父が激怒した。人の大切な女の子に、どの面下げて触ろうとしとんじゃ、ボケナスが!
「おい、こら!その汚い手をどけろ。俺の……俺の女に気安く触るな!」
「あぁ?なんだお前、やる気かよ? 冴えねえツラしやがって」
男たちが一歩踏み込んでくる。
(舐めるなよ。中身がくたびれたオッサンやからって、大人を舐めたらあかんぞ!修羅場なら会社の会議室でいくらでもくぐってきとんじゃ!)
翔大は足を大きく開き、かつて健康維持と護身のために中途半端に習っていた空手の構えをとった。月謝だけ払ってほとんど幽霊会員だった泥臭い空手だが、形だけは覚えている。
「モナ、下がっとれ!正拳突き……いや、ここは必殺の空手チョップや!」
「ダーリン、危ないっちゃ!うちの指輪の力を使うっちゃ!」
モナが必死な顔で胸元の指輪を握りしめ、不思議な光を放とうとする。だが、翔大はそれを叫んで制止した。
「アカン!モナ、指輪は使うな!これ以上世界の歪みを大きくしたら、ほんまに全部壊れてまう!ここは、俺が男を見せる番や!」
そうだ、ここで頼ってばかりでは男が廃る。翔大は地面を蹴り、男の懐に飛び込みながら、脳内で完璧にシミュレーションされた気合いと共に手刀を振り下ろした。
――はずだった。
「ふんっ!!」
「……は? なんだよそのヘロヘロのチョップ。蚊が止まったかと思ったわ」
「え……?」
男は平然とした顔で、翔大の放った渾身の空手チョップの手首をガシッと掴んだ。
嘘やろ。頭の中では完璧な軌道で、大人の体重を乗せた一撃が決まって、男が気絶するはずだった。しかし、今の翔大の肉体は、ひょろひょろの、ただの17歳の高校生なのだ。身体が、50代のイメージに全く追いついてきていない。
「調子に乗ってんじゃねえよ、コラァ!」
ドカッ、と鈍い音がして、翔大の無防備なお腹に強烈な拳が突き刺さった。
「がはっ……げほっ……っ!」
息が完全に止まり、視界がぐにゃりと黄色く歪む。あまりの痛みに一歩も動けなくなり、翔大はその場に崩れ落ちて、冷たいアスファルトの泥の中に顔を突っ込んだ。
「ダーリン――!!」
モナの悲鳴が夜の路地裏に響き渡る。男は嘲笑いながら、倒れた翔大の脇腹を容赦なく蹴り上げようと、太い足を後ろに引いた。
その時、モナの「ダーリンを助けたい」という悲痛な願いに呼応するように、彼女の指輪がパァァァッと青白い光を放たせた。
男が蹴り下ろした瞬間――カツンッ! と、目に見えない空気の壁が翔大の身体を覆い、男の足が弾かれた。
「痛ぇっ!?なんだ今の硬さ……!?こいつ鉄板でも仕込んでんのか!?」
男が自分の足を抱えて怯む。
(今や……肉体はクソザコでも、俺には56年の経験がある!)
泥まみれの翔大の目が、鋭く光った。空手道場で散々叩き込まれた「相手の動きを見切る目」だけは、脳が覚えている。男がバランスを崩した一瞬の隙を突き、翔大は下から男の細い手首の関節を、まるで万力のような正確さでガシッと掴み、捻り上げた。
「ぐあぁぁっ!?痛痛痛っ! 離せ、なんだこのエグい握り方は!外れねえ!」
「……大人の、いや、俺を舐めるなよ」
翔大は泥を吐き捨てながら、男を睨みつけた。
だが、多勢に無勢。残りの二人組が「この野郎!」と同時に翔大に掴みかかろうとした、まさにその時だった。
「否!否!三人がかりで一人の峰川を殴るとか、そんなの男の美学に反するじゃん!」
路地裏の入り口から、耳にタコができるほど聞き馴染みすぎた、妙に甲高い声が響いた。
「玉田……!?えっ?なんでお前らが……」
息を切らせた玉田、荻中、村上の三人が仁王立ちしていた。
「おいお前らぁ!俺の大切なダチになにさらしとるんだがん!名古屋魂を舐めるなよ!」
荻中が怒声を上げながら、真っ先に男たちへ全力の体当たりをかました。
「う,うそうそー!なんでお前までこんなガチの肉弾戦に巻き込まれてるわけー!?痛い!痛っ!マジで痛いってばさー!」
玉田は小心者らしく涙目で悲鳴を上げながらも、短い手足をバタつかせ、必死に男の服を引っ張って翔大の盾になろうとしている。
その時、男の一人が、村上のスクールバッグを乱暴に払いのけた。地面に落ちたバッグから、村上が何より大切にしている限定版のアニメ缶バッジが外れ、男の足に踏みにじられる。
「あ……。わしの、推し(嫁)の尊い顔が……汚された……ピィィ……」
村上の動きがピタッと止まり、前髪の奥の目が、野生の肉食獣のように鋭く据わった。
「――許さねぇぜぇぇええええ!!」
普段のナヨナヨした甘えた声からは想像もつかない、鼓膜が震えるほどの怒号が路地裏に轟いた。村上はポケットからお気に入りの推しキャラのアクリルスタンドをまるで聖剣のように力強く掲げ、 「俺の推しの愛と、わしのプライドと、大切な峰ピーを傷つけた罪、万死に値するぜぇ!」 と叫ぶやいなや、火のついたイノシシのような勢いで男に突進し、その腕にガブリと噛みついた。
「うわぁぁっ!?なんだこいつ、急に狂ったオタクバケモノになりやがった!離せ!」
「チッ、なんだこいつら、クソ熱苦しくて気味の悪い連中だな!おい、行くぞ!」
荻中の体当たり、玉田の必死の足払い、そして村上の野生の噛みつきという予想外の猛攻撃に圧されたのか、面倒になった男たちは吐き捨てるようにして路地裏の闇へと逃げ去っていった。
静まり返った路地裏に、全員のハァハァという荒い息遣いだけが響く。
「……ててて。うう、俺の『洗練されたヨコハマ仕様のシティボーイ顔』に青あざができたからさー……。否!否!完全に全治三日じゃん……」
玉田は殴られた頬を手のひらで大事そうにさすり、乱れた髪をサッと手櫛で整えながら、ズボンの泥をパンパンと払い、情けなくボヤいた。
「峰ピー、大丈夫ピー……?怖かったけ?」
村上は泥だらけの服を払いながら、心配そうに翔大に手を差し伸べてくる。
「悪ぃな、峰川。全員ぶっ飛ばして、モナちゃんに格好いいとこ見せたかったけど……これが限界だがん。腰抜かすかと思ったわ」
荻中が真っ赤に腫れた拳をさすりながら、照れくさそうに不器用な笑顔を見せた。
「みんな、ほんまに……すまん……。ありがとうな……。でも、なんでお前らがここにいるんや?」
翔大が差し伸べられた村上の手を握り、痛む身体を起こしながら尋ねると、三人は一瞬だけバツの悪そうな顔でお互いを見合わせた。
「……いやさー、実は遊園地の入り口で偶然二人を見かけちゃってさ。デートぽかったから心配になって『そっと後をつけて』様子を見てたわけよ。ほら、モナちゃん可愛いから変な虫がつかないかチェックするためにさー!」
「そうだがん!ついでに峰川がどんなダサいデートしとるか記録して、それをネタにして牛丼でも奢らせようと思っただけだがん!」
ニヤニヤと白状する玉田と荻中の言葉に、翔大は呆れ果てると同時に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。呆れ返るようなストーカー行為だが、彼らなりの不器用な優しさで、二人のことを見守っていてくれたのだ。
そこへ、モナが大きな瞳から涙をボロボロと流しながら、翔大の胸に激しく飛び込んできた。
「ダーリン――!!ごめんっちゃ……!うちの、うちのせいで、ダーリンが痛い目にあって……うぇぇん!」
「ちゃうよ、モナ。お前は何も悪ない。俺が弱かっただけや。泣かんとき」
翔大が優しく頭を撫でると、モナは涙を拭い、ポケットから大切に紙に包んで持っていた「さっきのチュロスの残り」を取り出した。
「ダーリン、これ食べて元気出すっちゃ……はい、あーん!」
「お,おう……あーん、もぐ……うん、美味い!」
泥まみれでボロボロのくせに、そこだけ完全にピンク色の二人だけの世界(ラブコメ空間)が出来上がっている。
命がけで戦い、今の今までデートを尾行していた親友三人の目が、一瞬で点になった。
玉田が髪を振り乱して絶叫した。
「おかしいじゃん!僕たち泥まみれになって、必死に助けたのに、何?このご褒美の格差は!?割に合わないべ!完全に労働基準法違反じゃん!」
「そうだがん!モナちゃん、俺のことも『よしよし』してくれんだがん!拳が痛いんだがん!」
「峰ピーばっかりずるいピー!玉プィー、玉プィーも俺に優しくしてくれピー!」
「寄るな村上!気持ち悪りーよぉ-!」
いつもの騒がしいバカ騒ぎが戻ってくる。
そのあと、近くのコンビニの明かりの下に五人は移動し、痛む体を労うようにそれぞれ肉まんやホットドリンクを買い込んだ。
「あちっ……うう、顔面が痛くて肉まんが沁みるべ……」 玉田がほっぺたに湿布を貼りながらボヤき、荻中が「いてて、俺の右ストレートの代償はでかかっただがん」と腕をさすっている。村上は「痛いピー、痛いピー」と大げさに騒ぎながら、モナから「みんなも、ありがとうだっちゃ……」とお礼を言われて、嬉しさのあまりその場でガッツポーズを決めていた。
そんな仲間たちの賑やかなやり取りを眺めながら、翔大は温かい缶コーヒーを両手で包み込む。
(大人の心を持ったまま過去に戻り、どこかで俺は周りを見下ろしていたのかもしれない。経験があるから、先を知っているからと、高を括っていた。だが、現実は冷酷で、今の俺はただの無力な17歳だ)
重力に逆らえない、殴られれば痛む、ちっぽけな高校生。それでも――
(この無力な身体だからこそ、泥にまみれて一緒に戦ってくれる、本物の仲間がいるんやな……)
痛む身体の奥で、翔大は切ないほどの温かさと、自分たちが置かれた現実の厳しさを、深く、静かに噛み締めていた。二重の影を持つ自分たちに、この愛すべき優しい日常は、あとどれくらい残されているのだろうか。