ガヤガヤと騒がしい教室の喧騒が、どこか遠くの国のできごとのように聞こえる。
正月休みが明け、始まった三学期。いつもの見慣れたはずの教室なのに、翔大の目には、黒板の緑も、木目の机も、窓の外の寒空さえも、まるで古い写真のようにどこかセピア色に色褪せて見えていた。
「おーい、峰ピー!聞いとるけ?宿題の数学、一問目から意味不明すぎて、わしのオタクとしてのプライドは冬休みの間に宇宙の彼方へ消え去ったピー」
村上が、白紙に近い自分のノートをひらひらと情けなく揺らしながら翔大の席にやってきた。
「あ〜ん、玉プィー。そんなわけだから、大吉パワーで俺に数学の答えを授けるピー!」
村上がいつものように、玉田のブレザーの裾を親指と人差し指でちょこんとつまんで、上目遣いで甘える。
「うわっ、新年早々べたつくなよ村上!離れろって、キモいじゃん! だいたいさー、おみくじの大吉と数学の宿題に何の関係性があるわけ? 否! 否! 宿題は自分の脳細胞をトップギアで回転させて解くから意味があるんじゃん!」
玉田が本気で嫌そうな顔をしながら、村上の手をバシッと容赦なく叩き落とす。
「冷たいなぁ、玉田は。お前がそんなだから、村上の大凶の呪いがクラス全体に伝染しとるがん。ほら、今日のホームルーム、なんかいつもより教室が寒気がせん?」
荻中がガタガタと大袈裟に肩を震わせ、首をすくめながら冗談めかして笑った。
「誰が大凶の呪いだピー! あれは神様が俺に与えた、高すぎるプライドとアニ嫁への試練だぜぇ〜」
「はいはい、試練試練。あんたが試練つったところで、その発言の論理的根拠はどこにあるんだつーの! 否! 否! 完全にオタクの誇大妄想じゃん!」
荻中がこれでもかと玉田の言い回しを完コピして捲し立てると、周囲の席の連中からもドッと大きな笑いが起きる。
「ちょっと荻中!俺の喋り方のシミュレーションを勝手に悪用しないでよ!」
と、玉田が本気で顔を真っ赤にする。そんな男子たちのやり取りを遮るように、廊下側から「やべえ!担任が新春恒例の抜き打ち持ち物検査の準備しながらこっち歩いてくるぞ!」と男子生徒が飛び込んできた。
「ゲッ、マジかだがん!?冬休みの宿題忘れただけじゃなくて、カバンに変なゲーム機入ったままだがん!」
「わ、わしのカバンにはアニ嫁の限定フィギュア(薄い本付き)が……!これが没収されたらわしは社会的にも精神的にも死ぬピー!」
一瞬にしてパニックに陥った荻中と村上が、なぜか翔大の席へと突撃してくる。
「峰ピー!ちみのロッカーか机の中にこれ隠させてピー!」
「頼むがん峰川!一生の願いだがや!」
「アホか!なんで俺のところに隠すねん!巻き添え食らうわ!あと村上、その生々しいフィギュアを俺の教科書に挟むな!」
「だめっちゃ!ダーリンの聖域をその怪しいオタクグッズで汚しちゃダメっちゃ!」
後ろの席からモナまで身を乗り出して参戦し、翔大の席の周辺は私物を押し付け合うドタバタの戦場と化した。いつも通りの、くだらなくて、騒がしくて、愛おしい青春の狂騒。
翔大も必死に村上たちを押し返しながら、声を出して笑った。――しかし、喉の奥で笑い声が不自然に引っかかる。
(……あれ? 俺、この高校の宿題も、この友達とのバカ騒ぎも、56歳のサラリーマンの時に……会社のデスクで、Excelのデータの合間に、昔を懐かしんで裏紙に解いた記憶があるな……?)
頭の奥が、ズキリとガラスで引っ掻かれたように重く痛んだ。
ここ数日、頭のモヤが急激に晴れていくような感覚がある。それは本来なら喜ばしいことのはずなのに、翔大にとっては恐怖でしかなかった。56歳の、あの満員電車に揺られる冴えない中年サラリーマンとしての記憶や、現実的な『大人の感覚』が、ものすごい勢いで脳内で主導権を握り始めていたのだ。
キーンコーンカーンコーン……。
絶妙なタイミングで授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響き、荻中と村上は泣く泣く自分の席へと退散していった。
「おい、峰川。モナちゃん。チャイム鳴ったから前向けよー」
前方の席から、玉田がくるりと振り返り、その鋭い目をこちらに向けながら声をかけてきた。その声には、いつもの理屈っぽい冗談めかした雰囲気はなく、どこか翔大たちの間に漂う「決定的な異変」を本能的に察知しているかのような、静かで重い響きがあった。
「おう、わかっとる」
翔大は短く答え、正面の黒板へと向き直った。教師が壇上に立ち、教科書を開く退屈な授業が始まる。
周囲の景色は、時計の針が進むごとにますますその色彩を失い、モノクロームの砂嵐のようになっていく。教科書に書かれた数式すら、どこか記号としての意味を失っていくような感覚の中、翔大が呆然としていると、机の下からそっと、小さく折りたたまれたノートの切れ端が差し出された。後ろの席のモナからだ。
教師の目を盗んで手元で開くと、そこには可愛らしいモナのイラストと共に、こう書かれていた。
『ダーリン大好きっちゃ!授業終わったら購買の焼きそばパン半分こするっちゃ!』
いつもと変わらない、無邪気で甘いモナからの「秘密の手紙」。懐かしい高校生の日常に、翔大の口元が自然と緩む。
翔大はシャープペンシルを握り、その手紙の余白に『おう、楽しみにしてるわ』と返事を書こうとした。
――だが、文字を書こうとした指先が、ピタッと止まる。
ノートの紙面に走った自分の筆跡は、丸みのある高校生のそれではない。それどころか、自分の意思とはまったく無関係に、ペン先が勝手にスラスラと走り出し、紙面には「株式会社〇〇商事 営業二課 峰川翔大」「四半期売上予測およびコスト削減に関する稟議書」といった、長年のデスクワークで完全に体に染み付いた冷徹なビジネスサインや業務メモの文字が刻まれていった。
(……なっ、なんだこれ……! 俺の手が勝手に……っ!)
自分の肉体が、徐々にかつての冴えない中年男のデータに上書きされていく。外側の世界だけでなく、自分自身の内側から強制的に「大人への現実」へと引き戻されていくような強烈な違和感と恐怖に、翔大は冷や汗を流しながらガタガタと体を震わせた。
返事を書くこともできず、手紙を強く握りしめる翔大の左手に、後ろからすっと、別の温もりが滑り込んできた。
まわりの生徒たちにバレないよう、後ろの席から、モナが翔大の制服の袖をぎゅっと力強く握りしめてきたのだ。
それだけでは足りないと言わんばかりに、モナの細い指先が袖を滑り、翔大の手のひらを包み込んで指を強く絡めてくる。
「――ダーリン」
かすかな声に、翔大はハッとして後ろのモナを見た。
驚くべきことに、教室全体が完全に色彩を失い、セピア色と灰色に染まりきっている中で――後ろにいるモナの姿だけが、信じられないほど鮮やかな「フルカラー」で翔大の目に映っていた。モナの髪の美しいグラデーションも、潤んだ瞳の輝きも、制服の胸元で揺れるリボンの鮮烈な赤も、そのすべてが世界の終わりを拒絶するように輝いている。
「本当に大丈夫っちゃ……? なんだか、今のダーリンがすごく遠くに行っちゃいそうな気がして……うち、胸がザワザワして痛いっちゃ……」
モナの大きな瞳から、ぽろりと一滴の涙がこぼれ落ちそうになる。
まわりの喧騒から遮断された、机の下の密やかな二人の世界。
翔大は心の中でそう強く確信し、背後から伸びるモナの小さな手を壊れ物を扱うように、だけど絶対に離さないという強い意志を込めてぎゅっと握り返した。モナが必死に手を繋いできたのは、その「色」と「温もり」を、翔大の世界に繋ぎ止めるためだったのだ。
外では、冷たい新学期の木枯らしが窓ガラスをガタガタと不気味に揺らしている。
色彩を失ったモノクロームの教室の中で、翔大は自分の左手に残るモナの指先の確かな熱を、消えゆく夢の記憶に刻みつけるように、じっと噛み締めていた。
時計の針がチクタクと無情に進むたびに、元の寂しい世界へ引き戻される「大人の足音」が、一歩ずつ確実に近づいてきている。