放課後の無人の教室。オレンジ色の生ぬるい夕日が窓から斜めに差し込み、机や椅子の影を床に長くギザギザと伸ばしていた。遠くから運動部の掛け声がかすかに聞こえる中、その教室だけは、世界から切り離されたような静寂に包まれている。
玉田は腕を組み、教卓に腰を掛け、いつになく真剣な……いや、すべてを見透かすような鋭い視線を翔大に真っ直ぐ向けていた。いつもはひょうきんに細められているその瞳が、夕日を浴びて冷徹なまでに澄み切っている。
「峰川。これが最後だと思って、もう一度だけ聞くからさー」
一呼吸置き、玉田ははっきりと、静かに言葉を突きつけた。
「モナちゃんは……いや、君たち二人は、本当に地球人ですか?」
前にも一度、冗談半分で聞かれたことのある荒唐無稽な質問。だが、今の玉田の顔にふざけた色はひとかけらもなかった。翔大が「またその話か、お前オカルトの読みすぎやて」と笑ってごまかそうとするよりも早く、玉田は一歩前に踏み出し、言葉を重ねる。
「モナちゃんだけじゃないんだよ。……峰川、お前自身のその目さ。時々、同級生を眺めるときにさ、何十年も酸いも甘いも噛み分けて生きてきた『老兵』みたいな目をしてるんだ。普段は冴えない関西人のフリしてるけど、俺の目はごまかせないからさー」
さらに、玉田はふっと息をつき、少しだけ声を落として続けた。
「……実はさ、お前が最近やけに古臭い言い回しをしたり、歴史の教科書に載ってないような妙にリアルな時代の空気感を知っていたりしたときから、心のどこかでうすうす勘づいてはいたんだよね。『こいつ、中身はもっと先を生きている大人なんじゃないか』ってさ」
核心を突かれた翔大は、完全に言葉を失った。
サラリーマンとして何十年も培ってきたはずのポーカーフェイス。しかし、40年後に至るまで自分のすべてを知り尽くすことになる「未来の親友」の、その若き日の純粋で、かつ鋭敏な瞳の前では、どんな言い訳の鎧も一瞬で剥ぎ取られてしまう。
喉の奥がカラカラに乾き、翔大はゆっくりと俯くしかなかった。
長い、重苦しい沈黙が流れる。
カチ、カチと教室の壁時計が刻む音が、まるでカウントダウンのように響く。翔大は意を決して、ゆっくりと顔を上げた。
「……玉田。ここではなんやから、場所を変えへんか。後日……いや、放課後、ちゃんと全部話すわ」
親友の玉田なら、きっと分かってくれる。いや、この鋭い男をこれ以上騙し通すことなんて、最初から不可能だったのだ。
場所を移し、放課後の静かな河川敷。
オレンジ色から紫色へと移り変わるグラデーションの空の下、翔大とモナ、そして玉田の三人は堤防の芝生に並んで座っていた。
「……信じられないっちゃ。ダーリン、本当に話すっちゃ?」
モナが不安そうに、翔大のブレザーの袖をきゅっと握りしめて上目遣いで見てくる。翔大はその小さな手をそっと包み込み、「大丈夫や。玉田は信用できる」と優しく微笑みかけた。モナは一瞬驚いたように目を見張ったが、翔大の覚悟を感じ取ったのか、コクンと素直に頷いて翔大の肩にそっと寄り添った。その指の指輪は、今は静かに眠るように沈黙している。
そこから、翔大はすべてを打ち明けた。
自分が50代の冴えないサラリーマンの記憶を持ったまま、この17歳の肉体にタイムリープしてきたこと。ある日、突如として空から降ってきた異星人の少女・モナと出会い、不思議な同居生活が始まったこと。そして、二人の間にある「誰にも言えない秘密」のすべてを、包み隠さず。
玉田は途中で言葉を挟むことなく、時に「うそ、まじで……?」と目を丸くして驚きながらも、ただじっと二人の話を聞き終えた。
話し終えると、川のせせらぎと、遠くを走る電車の音だけが響いた。
玉田はしばらくの間、沈む夕日に照らされた川面をじっと見つめていたが、やがて「ふぅー……」と、胸に溜まった熱を吐き出すように深い息をついた。
「……そうだったのか。正直、科学的には全く、1ミリも信じられないし、いつもの『うそ!うそ!』ってギャグで返したいところだけどさー」
玉田はぽつりと言いながら、バシッと翔大の肩を強く叩いた。
「ジーンとくるじゃん。でもさ、お前がこんな大掛かりで、しかもモナちゃんまで巻き込んで嘘をつくような奴じゃないことは、この俺が一番よく知ってるからさ」
「玉田……」
「安心しろよ、このことは荻中にも村上にも、世界の誰にも他言しないって約束するべ。……前にも言ったかもしれないけど、俺はお前やモナちゃんの味方だからさー。っていうか、50代になっても俺とお前、友達のままなんだろ?だったら、なおさら裏切るわけないじゃん」
あまりにも温かい、そして未来の絆までをも肯定してくれる言葉に、翔大の視界がじわりと熱く滲んだ。五十代の頑固で、どこか孤独に染まりかけていた大人の心が、17歳の親友の変わらぬ、真っ直ぐな優しさに激しく揺さぶられていた。
「う、うち、玉田くんのこと、ちょっと見直しちゃったっちゃ……!良い人だっちゃね」
モナが感動してポロポロと涙をこぼし、しおらしく翔大の腕に抱きつく。翔大もまた、モナの肩を抱き寄せながら、「ありがとう、玉田。ほんまに、ありがとな……」と、震える声で何度も頭を下げた。
「よし、じゃあちょっと待ってろよな」
しんみりした空気を照れくさそうにはらうと、玉田は堤防を駆け上がり、近くの自動販売機へ走っていった。数分後、両手に冷たい缶コーラを三本抱えて戻ってくる。
「はい、50代のオッサン。未来じゃ居酒屋でホッピーかビールか知らないけどさ、17歳の今はこれで我慢しろよな」
ニカッと笑って手渡された赤いアルミ缶。翔大はそれを受け取り、未来の古びた居酒屋で、何度も玉田とグラスを合わせた記憶が鮮明に蘇り、胸の奥がじーんと熱くなった。
「うちもダーリンと乾杯だっちゃ!」
モナが嬉しそうに缶を構える。その瞬間、翔大の脳裏に昼休みの光景――アルミ缶を片手で握りつぶした(ベキィッ!)という音がフラッシュバックした。
「ま、待てモナ!嬉しいのはわかるけど、力加減だけはほんまに気をつけてや!?また中身ブシャアってなるからな!?」
「わかってるっちゃ!うちをなんだと思ってるっちゃ!もぅ!」
モナがぷくーっと頬を膨らませ、玉田が「頼むから俺の制服にはかけないでよー」と笑う。
「それじゃ……俺たちの変わらない友情と、二人の未来に、乾杯!」
玉田の音頭で、チーンと小気味よい金属音が夕暮れの河川敷に響いた。甘い炭酸が、翔大の乾いた喉を心地よく潤していく。
飲み終えたあと、玉田はふと自分の空き缶を手にとってプルタブを器用にカチッと外し、それを翔大の手にポンと乗せた。
「ほら、これやるよ。いつか未来でおっさんになったときに、この河川敷の夕日を思い出せよ。俺たちのささやかなタイムカプセルってことでさ」
照れくさそうに笑う玉田から受け取った小さなプルタブの感触に、翔大は胸が熱くなるのを感じた。
ひとしきり照れ隠しのバカ騒ぎを終えた玉田が、ふと思い立ったように制服の鞄から、使い込まれた小さなシルバーのポータブル・カセットレコーダーを取り出した。小さな黒いカセットテープがセットされているのを確認し、慣れた手つきでボタンを操作する。
「おい峰川。お前が元の世界に戻るとき、このテープを持っていけるかは分からないけどさ。もし持っていけたら、40年後のおっさんになった俺に、絶対にこれを聞かせろよな」
玉田はそう言うと、録音と再生のボタンを力強く「ガチャッ」と同時押しした。回転し始めた小さな磁気テープの、微かな「サーーー」というホワイトノイズが夕暮れの空気に混じる。玉田は少し照れくさそうに、機械の小さなマイクに向かって声を張り上げた。
『よぉ、50代の俺!ちゃんと今でも横浜弁使ってるか?相変わらず理屈っぽくて、峰川をいじめてないべな?未来がどうなってるか科学的な予測はつかないけどさ……今、俺の目の前には最高の親友と、宇宙一可愛いその奥さんがいるぞ!お前もオッサンだからって縮こまってないで、シャキッと生きろよな!』
「よし、オッサンへの伝言は完了っと……あ、そういえばこのテープ、裏面がまだ少し余ってるじゃん」
玉田はふと思い出したようにニヤリと笑い、今度は隣にいたモナにマイクを向けた。
「せっかくだからさ、峰川の惚気話でも吹き込んでやるよ、モナちゃん!」
「えっ、うちが……!?そんなの恥ずかしいっちゃ……!」
慌てて顔を真っ赤にして両手で顔を覆うモナ。しかし、玉田に促されるまま、モナは少しだけ指を離し、恥じらいながらも小さな声でマイクに向かって呟いた。
『……えっと、未来の玉田くん、こんにちはだっちゃ。……それと、ダーリン。うち、未来がどうなっても、今、あなたの隣にいられて本当に幸せっちゃ。……大好きだっちゃよ』
「はい、完璧!これでもう裏表ともに最高のテープになったな!」
玉田は満足そうに停止ボタンを押し、カチッと蓋を開けて小さなカセットテープを指で弾き出すように取り出した。その無邪気で真っ直ぐな、そしてモナの声までが刻まれたメッセージを聞きながら、翔大の胸の奥が激しく締め付けられる。もし自分が元の世界に戻って、この世界の歴史が『歪み』として修正されてしまったら、この小さな磁気テープに刻まれた音さえも、幻のように消えてしまうかもしれない。
(でも……たとえこのテープが残らんでも、お前らのその言葉、俺の心のレコーダーに一生消えんように焼き付けとくからな……)
翔大は熱くなる目頭を必死に堪えながら、心の中で二人にそう誓った。
やがて玉田は空になった缶を片手に立ち上がって、ズボンの砂をパッパッと払った。放置された自転車の影が伸びる中、すっかり紫色の夜に包まれ始めた美しい星空を見上げる。
「――なあ、そういえばさっきのさ」
ふと、何かを思い出したように玉田が口を開きかけた。
「ちなみに俺の未来って、どうなっ……いや、やっぱいいや」
言いかけて、玉田はバツが悪そうに自分の頭をポリポリと掻きむしった。未来の具体的な姿や自分の結末を知ってしまうのは、どうやら今の彼にとっては少しだけ野暮なことだと思えたらしい。
「まぁいいよ。俺のことだから、どんな未来でもそれなりに上手くやってるべ!……これから何か困ったことがあれば、今以上に力になるからさー。時空の歪みでも、宇宙人の襲来でも、何でも相談してくれよな」
夜風にブレザーをなびかせる玉田の後ろ姿を見上げながら、翔大は、40年後の未来の居酒屋で、一緒にビールを片手に会社の愚痴を言い合っていた、少し白髪の混じった親友の姿を重ね合わせていた。
「お前はほんまに、何年経っても変わらんなぁ……。40年後も、お前は俺の最高の親友のままや」
「当たり前だべ!」
玉田は振り返り、白い歯を見せて不敵に笑った。時の流れを、そして時空の壁さえをも超えて決して変わらない、男たちの熱い友情。これから訪れるかもしれないどんな過酷な未来の足音も、この河川敷のぬくもりがある限り、恐れる必要はない――。
翔大はモナの手を力強く握り返しながら、心から救われるのだった。