「――だからさ、あの山奥の温泉街は隠れたパワースポットである可能性が非常に高いわけ。科学的にもマイナスイオンが通常の三倍は検出されてるし!」
放課後の教室。玉田がノートに奇妙な手書きの地図や等高線を広げながら、熱く卒業旅行のプレゼンを続けていた。
「へぇー、温泉かぁ!ええがん、ええがん!湯上がりの卓球大会で、俺の右ストレートチョップが火を吹くがや!秘技・名古屋城落とし!」
荻中がすでに誰もいない空間に向かってエア卓球をしながら、激しく大はしゃぎしている。その横では、村上が「あ〜ん、玉プィー。わしは温泉よりも温泉街のレトロゲームコーナーに魂を売りたいピー。レトロなインベーダーゲームで俺の右人差し指が火を吹くピー」と、玉田のブレザーの袖をつまんで左右にぶんぶんと揺らしていた。
「おい、引っ張るなって村上!ノートが破れるじゃん!温泉地選びは科学的な泉質と効能で決めるからさ!」
「なんだて泉質って!玉田、お前がそんなインテリぶって理屈ばっかこいとるから、いつまで経っても彼女ができんのだがん!」
荻中が横から意地悪くニヤニヤしながらからかい、玉田は「だーっ!荻中、お前は黙ってろ!泉質は男のロマンだろ!否、全人類のロマンじゃん!」と顔を耳まで真っ赤にする。
教室内は、いつもと変わらない騒がしくも愛おしい笑い声に包まれた、平和な日常の光景だった。
翔大とモナも、そんな3人のやり取りを少し離れた席から笑顔で見守っていた。昨日、河川敷で玉田に秘密を明かしたことで翔大の胸のつかえは取れ、日常はいっそう輝きを増したように思えた。教室の隅では、他のクラスメイトたちも数人残り、受験勉強の答え合わせをしたり、他愛のない雑談に花を咲かせていた。
しかし、その穏やかな空間は、突如として音もなく引き裂かれた。
キィィィィィィン――。
脳髄を直接細い針で引っ掻くような、凄まじい高周波の金属音が響く。
「……っ!?」
翔大が思わず両手で鼓膜を押さえた瞬間、モナの指先がカッと爆発したように眩しく発光した。彼女の薬指に嵌められた不思議な指輪が、不規則なパルスを放ちながらジジジと嫌な電気音を立てて異常な熱を持ち始めている。
「だ、ダーリン……!指輪が、うちの指輪が言うことを聞かないっちゃ……!」
モナが青ざめた顔で涙目を浮かべ、激しく震える右手でもう片方の手を抑えようとした。
次の瞬間、世界の境界線がベリベリと剥き出しになるかのように、教室全体の空間がぐにゃりと万華鏡のように歪んだ。
カタカタカタカタカタ!
激しい局所的な振動と共に、誰も触れていない机や椅子が、まるで重力を完全に失ったかのように床から数センチもふわふわと浮き上がる。黒板の溝に置かれたカラフルなチョークが宇宙空間のように宙を舞い、窓ガラスには水面に重い石を落としたような同心円状の歪みが波打っていた。
「う、うそ、うそ!?重力反転!?空間の位相がズレてる!?科学的予測の範疇を完全に超えてるじゃん!」
玉田が、浮き上がった自分のノートを必死に掴もうと泳ぐように空を掻いた。その時、玉田はハッと目を見開き、同じく宙に浮きそうになっている翔大とモナの姿を捉えた。昨日すべてを聞いた玉田だからこそ、これが「宇宙の法則の乱れ」だと直感的に理解したのだ。玉田は恐怖に顔を歪めながらも、翔大に向けて「おい、これマジなやつか!?」と目で必死に訴えかけてくる。
「ひえぇぇ!教室が、教室が名古屋城の天守閣みたいにグラグラしとるがん!どえりゃあことになったがや!」
荻中が頭を抱えて机の下に潜り込もうとするが、守ってくれるはずの机自体もふわふわと天井に向かって浮いている。
「あ〜ん、玉プィー!世界の終わりピー!俺のプライドが物理的にひっくり返るピー!」
村上が白目を剥きそうになりながら、浮き上がるのを拒むように必死に玉田の足にしがみついた。
「キャーッ!なにこれ!?体が浮くっ!」
「地震!?違う、床がない!」
「誰か先生呼んで!ドアが開かないっ!」
残っていた他のクラスメイトたちも、突如として始まった超常現象に完全にパニックに陥っていた。スカートの裾を押さえながら浮かび上がる身体を必死に抑えようとする女子生徒や、恐怖のあまり壁にしがみついて涙を流す男子生徒など、教室内は一瞬で混沌とした絶叫の渦に包まれる。
――その時だった。
ザザザッ……ジジッ……。
突如として、誰も触れていない壁のスピーカー、いや、歪んだ空間そのものから激しい砂嵐のような不快なノイズが鳴り響いた。そして、その雑音の向こうから「妙に大人びた、聞き覚えのある二人の男の声」が重苦しいエコーを伴って教室中に漏れ聞こえてきたのだ。
『――なぁ峰川。お前、あの高校の時のこと、覚えてるか?』 『忘れるわけないやろ。あの河川敷で、お前が変なボイスメモ録音した時のことやろ……』
「な、なんだこれ……!?」
しがみつく村上を抱えたまま、玉田が戦慄したように目を見開いた。その音声は、昨日玉田が冗談半分でスマホに吹き込んだ「40年後の自分へのメッセージ」への、まるで未来からの返答のような会話だったからだ。しかも、声の主は間違いなく、ぐっと渋みを増した「大人の玉田」と「大人の翔大」のものだった。
「ひっ、何この声……どこから聞こえるの!?」
「何が起きてるの、助けて……っ!」
空間がねじれ、家具が浮き、さらに正体不明の男たちの会話が不気味に響き渡るという異常事態に、クラスメイトたちの動揺は頂点に達していた。誰もが耳を塞ぎ、見えない何かに怯えるように身を縮める。
『あの頃はこの世界がなくなるなんて、これっぽっちも思ってなかったな……』
『あぁ。でも、だからこそ俺たちの青春は――』
ノイズが激しくなり、未来の会話がぶつぶつと途切れる。
翔大は背筋が凍るような恐怖を覚えていた。自分が過去に戻り、未来を変えようと動き出したことで時空の因果が完全にバグを起こし、未来の音声データがこの場所に逆流してきているのだ。このままでは世界が崩壊する前に、クラス全員の目の前でタイムパラドックスの矛盾が完全に露出してしまう。
「モナ!指輪を抑えるんや!これ以上はアカン!」
翔大が叫び、必死に手を伸ばしてモナの小さな手を両手で強く握りしめた。しかし、暴走するエネルギーの白い光は強まるばかりで、世界の歪みは止まらない。
「みんな……ごめんだっちゃ……!」
モナは溢れ出る大きな涙を頬に伝わせながら、覚悟を決めたように指輪を天に掲げた。
これ以上、大切な友達の領域を、この世界の日常を壊すわけにはいかない。モナの強い意志に応えるように、指輪から激しい光の波動がドォンと衝撃波となって教室全体を包み込んだ。それは、目撃した彼らの記憶を一時的に操作し、世界の因果を強制的に縫い合わせるための、哀しい防衛本能の力だった。
まばゆい閃光が収まると、浮き上がっていた何十台もの机や椅子がガタガタガタッ!と大きな音を立てて一斉に床へと落下した。宙を舞っていたチョークも床に転がり、粉々に砕ける。あの不気味な未来の音声ノイズも、窓ガラスの歪みも、クラスメイトたちの悲鳴も、最初から何もなかったかのように嘘のように消え去っていた。
「……あれ?」
玉田がぽかんとした顔で床に落ちたノートを拾い上げた。前髪を少し掻きながら、怪訝そうに辺りを見回す。
「俺……さっきまで何を熱弁してたんだっけ?なんだか、急に頭がボーッとするな……」
「あれぇ?俺も、なんか名古屋の親父の頑固な顔が急に浮かんできて、無性にホームシックになったがん……。なんで卓球のポーズしとるんだて、俺……」
荻中が不思議そうに首を傾げ、頭をかきながらエア卓球の手を下ろした。
「わしも……急にサッカーの最新フォーメーションが頭から消え去ったピー。俺が忘れるくらいだから相当な健忘だぜぇ~……。なんか、急に眠くなってきたピー……」
村上もトボトボと狐につままれたような顔で自分の席へ戻っていく。周囲のクラスメイトたちも、「あれ、私何の話してたんだっけ?」「なんか今、一瞬光った?」と、さっきまでの大パニックや謎の声に対する恐怖を綺麗に忘れ去り、首を傾げながらノートを閉じたり、いつものように穏やかなお喋りを再開し始めていた。
モナの指輪の力によって、その場にいた全員の数分間の記憶は改変され、空間は何事もなかったかのように収まった。しかし、それはあくまで破れかぶれの布を無理やり繋ぎ合わせた、一時的な応急処置に過ぎない。
「ダーリン……ぐすっ……ごめんだっちゃ……うちのせいで……」
モナは翔大の胸に顔を埋め、ブレザーの布地をきゅっと掴んで声を押し殺して泣いていた。異星のテクノロジーである指輪の暴走、そして未来の音声の混線。それは、二人のいるこの「世界」の寿命が、もうすぐ完全に限界を迎えるという何よりの証明だった。
「モナ、お前が謝ることやない。みんなを守ってくれて、ありがとな」
翔大はモナの震える背中を優しく、大きな手でさすりながら、静まり返った教室の窓の外へと目を向けた。
夕日はすでに沈みかけ、茜色の空をじわじわと不穏な紫色の影が侵食している。その美しいグラデーションのなかに、ほんの一筋――空の裂け目のような、ガラスのひび割れに似た「黒い傷痕」が、まだかすかに残っているのが見えた。
「……世界が、うちたちの滞在をもう拒み始めているっちゃ……」
モナが震える声で呟く。翔大はその傷痕を見つめながら、背筋が凍るような現実味を噛み締めていた。 記憶はごまかせても、世界のシステムそのものが悲鳴を上げ始めている。
日常のすぐ裏側で、自分たちが過ごした最高の時間が、音を立てて崩れ去ろうとしていた。