「かんぱーいだがん!!」
荻中の威勢のいい声とともに、ファミレスのドリンクバーのグラスがガチャンと音を立てて合わさった。
3学期も半ばを過ぎ、放課後にこうして5人で集まる時間は、いつの間にか翔大にとって『最後へのカウントダウン』と同義になっていた。前日の教室での指輪の暴走以降、世界のあちこちで目に見えない時空の歪みは確実に加速している。翔大の50代の記憶は完全に目覚め、自分がもうすぐ、この愛おしい偽物の春から、あの冷たく孤独な現実へと引き戻されることを、魂のレベルで理解していた。
「おい荻中、メロンソーダにカルピスとコーラを混ぜるなよ。うそでしょー、3層に分離してて見た目が完全に劇物じゃん。飲むなよ、絶対それ炭酸の暴力だからさ~」
玉田が、いつものように心底呆れ果てた顔で、自分の安全なウーロン茶をすすりながら言った。
「何を言うとるか玉田!これが俺のオリジナルブレンド『名古屋の熱い夜・トリプルアクセル』だがや!ほら村上も一口飲んでみやあ、世界が変わるがん!」
「あ~ん、わしはそんな劇物御免だピー。美しく高貴なオタクの舌に泥を塗る気け?そもそもネーミングセンスが絶望的にダサいピー」
村上がいつもの甘えた声で「玉プィー、荻中を科学的に、かつ法的に叱ってやるピー」と玉田の制服の裾を指先でちょんちょんとつまむ。
「だから離れろって村上!否!否!叱る以前に、荻中的胃袋の構造と味覚のバグは現代科学では解明不可能なんだよ!」
「あんたが解明不可能ったからどうだっつーの!俺の胃袋は宇宙一だがん!」
荻中がすかさずキレのいいツッコミを入れ、夕方のファミレスの片隅にドッといつもの笑い声が起きた。
そのバカ騒ぎにいつもの調子でツッコミを入れながら、翔大は一人ひとりの顔を心のカメラで焼き付けるように愛おしく見つめていた。
(荻中……お前はほんまに女好きで調子ええ奴やったけど、誰よりも真っ直ぐで友情に厚い男やったな。40年後もお前、地元の名古屋で元気にやっとるよ。どれだけオッサンになっても、そのままでおってくれよ)
(村上、かみちゃん。重度のアニメオタクでプライド高いくせに、仲間が落ち込んどる時は一番に気づいて、いつも不器用な優しさをくれる奴。お前の変な語尾も、玉プィーって甘えるキモい仕草も、俺にとっては最高の青春の1ページや)
そして、翔大の視線が自然と玉田で止まる。玉田はふと笑いを収め、その鋭い目を翔大に向けた。すべてを知り、他言しないと約束してくれた、40年後も変わらぬ最高の親友。玉田はどこか、翔大の「覚悟」を察しているような目をしていた。
「……何見てんだよ、峰川。俺の顔に何か未発見のデータでもついてるわけ?」
「いや、なんでもない。玉田はやっぱり、世界一頼りになる男やなと思ってな」
「なんだよ急に、気持ち悪いじゃん。……まぁ、俺が優秀なのは宇宙の真理であり事実だけどさー」
玉田は照れくさそうに顔を真っ赤にして視線を外したが、その口元は少しだけ優しく、どこか切なげに緩んでいた。
「ダーリン」
隣に座るモナが、そっとテーブルの下で翔大の手を握ってきた。小さな、けれど温かい手のひら。モナの指輪は、暴走の後遺症か、今は静かに冷たくなっている。お互いに言葉にしなくても分かっていた。これが、この大好きな仲間たちと過ごせる最後のバカ騒ぎなのだと。
「よし!次はフライドポテトの大盛りを賭けて、山手線ゲームだかんね!お題は『モナちゃんの可愛いと思うところ』だがや!」
荻中がこれ以上ないほど無茶苦茶なお題を出して、手を叩いた。
「ちょっと待て、それ荻中の一人勝ちじゃん!否!否!公平な科学的お題にしろよ!元素記号とかさ!」
玉田が必死に抗議するが、「うちの可愛いところ!?いっぱいあるっちゃ!ダーリン、うち負けないっちゃ!」とモナが満面の笑みで嬉そうに参戦し、ファミレスのボックス席はさらに混沌とした笑いに包まれていった。視界が涙で滲みそうになるのを必死に堪えながら、翔大は腹の底から大声で、彼らと一緒に笑い転げた。
ファミレスを出てすぐの駅前、ネオンが眩しく輝く写真館の看板の前を通りかかったときだった。
「あ〜ん!最後にみんなで記念写真を撮るピー!オタクの歴史に5人の最高に可愛い姿を刻むピー!」
村上が突然、レトロな雰囲気を醸し出す写真館のウインドウを指差してジタバタと駄々をこね始めた。
「おおっ、ええがんそれ!卒業記念のアルバムの表紙にするがや!」
荻中がすぐにノリノリで拳を突き上げる。
「否!否!男同士でこんな店に入って写真とか非科学的だし恥ずかしいだろ!空間認知の無駄遣いじゃん!」
玉田が全力で嫌がったが、「写真!?うちも、みんなと可愛い記念写真を残したいっちゃ!」とモナが目を輝かせて翔大の腕を引っ張ると、もはや誰も玉田の意見には耳を貸さなかった。
少し緊張した面持ちで、5人で写真館の小さなスタジオへとなだれ込む。
「おい荻中、そんなにくっつくなよ!」
「村上、お前の肩の力が入りすぎじゃん!」
「モナちゃん、こっちの席に座りなよ!」
カメラマンのおじさんが優しく声をかける中、パパッと素早く立ち位置が決められていく。
「はい、真っ直ぐレンズを見て、笑ってくださーい!」
その掛け声で、荻中は精一杯のカッコいいキメ顔を作り、村上は顎に手を当てた文系オタク風のポーズを決め、玉田は揉みくちゃにされながらも照れ臭そうに不器用な笑顔を浮かべる。そして翔大の隣では、モナがこれ以上ないほどの満面の笑みで翔大の腕にそっと寄り添っていた。翔大も、17歳の少年そのものの弾けた笑顔で、真っ直ぐにレンズを見据えた。
――カシャッ!!
一瞬の強いフラッシュの光とともに、かけがえのない青春の一コマがフィルムに焼き付けられた。
数日後、写真館で現像された、少しセピアがかった温かみのあるL判の写真。5人で分け合ったその写真の裏に、モナと村上がペンで「ズッ友ピー!」「ダーリン大好きっちゃ!」と楽しげな文字を書き込んでいく。
翔大は、その世界にひとつだけの宝物である写真を、まるで壊れ物を扱うように震える手でそっとポケットへと仕舞い込んだ。一瞬のきらめく青春を、確かに形にして切り取った、最初で最後の永遠の思い出だった。
そして、その日の夜。
翔大は、自分の家に帰ってきた。玄関のドアを開けると、出汁の効いた懐かしい家庭の匂いが優しく鼻をくすぐる。
「おかえり、翔大。遅かったじゃない。今ちょうどご飯できてるわよ」
いつも笑顔で、穏やかで優しい母親の佳子が、エプロン姿で台所から顔を出した。
「ただいま、おかん」
居間で新聞を大きく広げながら、厳格な父親の文司郎が、低い声で小言を言った。
「なんだ翔大、新学期早々友達と油売ってたのか。学生の本分は勉強だぞ。お前、受験生なんだからな」
「わかっとるよ、親父。ちゃんとやっとる」
50代のサラリーマンだった時、翔大は両親のありがたみも、その深い愛も、失ってから初めて気づいた。過去に戻り、こうしてもう一度二人の小言を聴き、同じ空間にいられることが、どれほどの奇跡か。胸の奥がツンと痛む。
「あ、オニイロー、おかえり!これ、新しく買った車の雑誌なんだけど、ちょっと見てよ。このスポーツカー、めっちゃカッコよくない?」
大人しくて気持ちの優しい弟の彰宏が、嬉そうに自分の部屋から雑誌を抱えてドタドタと階段を降りてきた。未来では別の街で、それぞれの人生を必死に歩むことになる弟。車の話をするときの、あの少年のように純粋に輝く目が、翔大はたまらなく愛おしかった。
「彰宏、ほんまええ車やな。お前、将来絶対にこういうええ車に乗れるようになるで。俺が保証したるわ。だから、ずっとそのままでおれよ」
「えへへ、ありがと、オニイロー。なんかオニイローに真顔で言われると、本当にそんな気がしてくるよ!」
その日の夕食は、何の変哲もない、少し実家の味が染みた普通のカレーライスだった。けれど、翔大にとってはどんな高級ホテルの料理よりも、人生のどの瞬間よりも美味しかった。
スプーンでカレーを口に運んだ瞬間、スパイスの奥から広がる独特のコクと甘みに、翔大の手がピタリと止まった。
(……あ。これや……!)
40年後の寂しいボロマンションで、一人で冷たいレトルトカレーを食べながら、「おかんのカレー、何が入ってたんやろな……」とどうしても思い出せなかった、人生の失われたピース。その正体が、今、鮮烈に脳裏に蘇った。
「なぁおかん。このカレー、もしかして隠し味にちょっとだけチョコレートと、すりおろしたリンゴ入れとる?」
翔大がぽつりと言うと、佳子は目を丸くして驚いた。
「あら!よく分かったわねぇ翔大!彰くんもお父さんも、何回食べても『普通のカレー』って言って全然気づかないのに。今日のはちょっとビターチョコを多めに入れてみたのよ」
「ええー!オニイローすげえ!グルメやん!」と彰宏がスプーンを片手に目を輝かせる。
「翔大、どうしたの?妙に泣きそうな顔して食べて。どこか具合悪いの?」佳子が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いや、ちゃうねん。美味すぎて感動しとるだけや。おかんのカレーは、間違いなく世界一やな」
「何言ってるんだ、こいつは。急に大げさな奴だな」と文司郎がぶっきらぼうに新聞に目を戻しながらも、どこか嬉しそうに目元をフッと細めている。
すべての食事が終わり、食器を片付けてから、自分の部屋へ戻ろうとしたときだった。
「翔大、ちょっと待ってくれる?」
階段を上りかけた翔大の背中に、母親の佳子の穏やかな声がかかった。振り返ると、佳子は手元のふきんをそっと置き、どこか含みのある、しかし底抜けに優しい眼差しで息子を見つめていた。
「ん?どないしたん、おかん」
翔大が何気ない調子で聞き返すと、佳子はゆっくりと近づいてきて、まるで少年の秘密をすべてお見通しであるかのように、柔らかく微笑んだ。
「ううん、なんだか最近の翔大を見ているとね……とっても頼もしくてね、だけど何かすごく寂しそうで、それでいて遠くへ行ってしまいそうな……そんな気がしてね」
母親ならではの底知れぬ鋭い直感。血を分け合った我が子の、魂の奥底の微細な変化を、佳子はいつだって見逃さなかった。その言葉のあまりの的確さに、胸の奥を急所的一突きされたように翔大の息が止まる。50代の孤独な記憶も、もうすぐこの世界から消えてしまうという焦燥も、すべてこの母親には優しく透けて見えているのだろうか。急激に熱を帯びた涙腺が刺激され、視界がぼやけそうになる。
――あかん、ここで泣いたら全部バレてまう。
翔大はこみ上げる深い悲しみを必死の笑顔で押し隠すと、精一杯の関西人らしい軽口を叩いてみせた。
「何言うてんねんおかん!俺が遠くへ行くって、せいぜい隣町のコンビニか、良くて大学進学で東京に出るくらいやろ!心配性やなぁ、おかんの自慢の息子はこんな居心地のいい家から出て行かへんで」
「……もう、相変わらず調子のいい子ね。ふふっ、そうだといいけれど」
佳子は小さく目を細めて優しく笑うと、「はい、おしゃべりはそれまで。早く部屋に戻って宿題でもしなさい」と、いつもの温かい母親の顔に戻って台所へと戻っていった。
母の背中を見送りながら、翔大は自分の部屋のドアノブに手をかけた。
(……おかん、すごいわ。全部お見通しやったんやな。ほんまに、親ってすごいわ……)
胸の奥にじんわりと広がる熱いものを噛み締めながら、翔大は自分の部屋へと静かに足を踏み入れたのだった。
(親父、おかん。出来の悪い俺をここまで育ててくれて、ほんまにありがとう。彰宏、いつも優しい弟でおってくれてありがとう。俺、かりに元の世界に戻っても、みんなのことを絶対に忘れないし、みんなのことを誇りに思って生きていくからな)
部屋に戻った翔大は、勉強机の前に座った。
部屋の明かりの下、机の上の小さな鏡に映る、17歳の若くてエネルギーに満ちあふれた自分の顔を、翔大はただじっと見つめていた。
その肌のハリ、力強い瞳。40年後の寂しいボロマンションで、死んだような魚の目をしていた自分とは全く違う、輝かしい少年の姿。翔大は拳を強く握りしめ、鏡の中の自分を通して、40年後の冷たい現実にいる「50代の自分」に向けて、心の中で激しく激しく、命令するように語りかけた。
(――おい、40年後の俺。聞こえてるか!お前、元の世界に戻ったからって、何うだうだボロマンションで燻るつもりでおんねん。こんなに最高なツレがおって、おかんのカレーの味もちゃんと分かって、こんなに温かい家族がおって、世界一可愛い女の子が命がけで隣にいてくれたんやぞ。これだけの奇跡を味わったお前が、絶望に負けててどうすんねん!元の世界に戻ったら、何が何でも、死ぬ気で人生やり直せ!この最高の青春を、絶対に無駄にするな……っ!)
胸の奥から湧き上がる強烈なエネルギーが、大人の翔大の覚悟を完全に「男」のそれへと昇華させていく。もう、終わりを恐れてメソメソするだけの時間は終わりだ。何が起ころうとも、この記憶を勲章にして這い上がってやる。
夜、自分の部屋の窓を大きく開けると、夜風とともに満天の星空が広がっていた。
静まり返った世界で、遠くの地平線からゴーン……と、いつかの除夜の鐘の残響のような、あるいは新しい世界の始まりを告げる秒読みの地鳴りのような音が、翔大の耳にしっかりと届いた。時空のタイムリミットが、すぐそこまで迫っている。
隣に並んで夜風に吹かれるモナの手をきゅっと握りしめながら、翔大はふと、堰を切ったように、今まで堪えていたネガティブな本音を漏らしてしまった。
「モナ……俺、やっぱり怖いわ。みんなとも、家族とも、これで全部お別れなんやな。この世界が壊れて、私たちの青春も、全部最初からなかったことになってまうんやろか。ここで過ごした宝物みたいな日々も、全部泡みたいに消えて……」
俯き、声を震わせる翔大。それは、自らに誓った決意を裏切るような弱音だったが、しかしその瞳の奥には、すべてを受け入れて前を向くためにこそ吐き出しておきたい、絞り出すような切実な本心が宿っていた。
そんな翔大の大きな手を、モナは両手で包み込むようにギュッと強く握りしめた。
空間が微かに歪み、遠くのネオンがチラチラと爆ぜる中、モナはいつものようにフニッっと柔らかく、でもどこか悪戯っぽく微笑みながら翔大を真っ直ぐに見上げる。
「もー、ダーリン!さっきから終わりみたいなことばかり言ってるっちゃ!めっちゃネガティブだっちゃ!」
「モナ……」
「世界がどうなるとか、因果が壊れるとか、うちにも全然わかんないっちゃ。でもね、ダーリン。どんなことがあったって、うちはダーリンとずっと一緒だっちゃ。時空がいくらきしんだって、星が全部消えたって、うちの心はずーっと、ずーっとダーリンの真隣にあるっちゃ!」
モナの濁りのない、あまりにも一途な瞳が、まっすぐに翔大の不安の霧を射抜く。その力強い言葉と、小さな掌から伝ってくる確かな熱量が、冷え切りそうだった翔大の心を優しく、そして激しく灯した。世界が偽物だろうと、この絆だけは絶対に本物だ。
「……せやな。お前が一緒におってくれるもんな。俺、もう何があっても恐れへんわ」
翔大が微笑むと、モナは一瞬だけ、泣き出しそうなほど愛おしげに眉を下げ、それからすぐに、世界中のどんな星よりも眩しい笑顔を咲かせた。その大きな瞳には、夜空の光と、何があっても揺るがない真っ直ぐな意志が、きらきらと美しく反射している。
「そうだっちゃ!ダーリンはうちの、いつでもうちの、世界一かっこいいダーリンなんだっちゃ!」
歪みゆく世界の中心で、二人は消えゆく日常の色彩の向こう側にある、自分たちの未来の星空を、今度はしっかりと前を向いて、じっと見上げるのだった。ポケットの中の、5人で撮った記念写真が、翔大の体に寄り添うように静かに温もりを放っていた。