昼間のファミレスでの耳が痛くなるほどのバカ騒ぎや、実家の食卓を包んでいた出汁の効いたカレーの匂いが、まるで遠い前世の出来事だったかのように、夜の静寂が部屋を支配していた。
勉強机の上には、高校の授業で使ってきたノートが整然と並べられている。これまでの歩みを整理するようにパラパラと捲ってみるものの、文字は滑るように翔大の脳裏を通り抜けていった。ふと窓の外に目をやると、今夜の夜空は不気味なほどに真っ暗だった。つい先ほどまで二人の頭上に優しく輝いていた満天の星々は、いつの間にか湧き出た重苦しい分厚い雲に遮られ、一筋の光さえも地上に届けてはくれない。
(もう、時間がないんやな……)
喉の奥に苦い塊が張り付いたような息苦しさを感じていると、背後で微かな気配がした。
振り返ると、いつの間にか部屋に入り込んでいたモナが、ドアの前にポツンと佇んでいた。いつもなら「ダーリン!」と2トントラック並みの勢いで抱きついてくるはずの彼女が、今夜は両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、力なく俯いている。
「モナ……?どうしたんや、そんなところで突っ立って。おかんがまだ下に起きとるから、あんまりウロウロしたら見つかるぞ」
翔大は努めていつもの調子を装い、少し大袈裟な関西弁で話しかけた。だが、モナはピクリとも動かず、ただじっと畳の目を見つめている。
「……ダーリン」
ぽつり、とこぼれ落ちたのは、まるでひび割れたガラスの鈴が鳴るような、か細い声だった。
「夜、窓から外を見てたらね……うちの指輪が、ずっと冷たいんだっちゃ。冷たくて、ずっと細かくプルプル震えてるんだっちゃ。……時空が、何だかすごく不安定だっちゃ。もうすぐ、この世界の歪みが、完全に閉じちゃうっちゃ……」
ドクン、と翔大の心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。
「時空の歪みが……閉じる?」
「そうだっちゃ……」
モナが、ゆっくりと顔を上げた。その世界で一番美しいはずの瞳には、今にも堰を切って溢れ出しそうなほど、大粒の涙が溜まっていた。
「なぁ、モナ。時空の歪みがとれて……全部元通りになったら、俺らはどうなるんや?このまま、ここで一緒に高校生活を続けることは、やっぱり……できへんのか?」
分かっていながらも、翔大はどうしようもない淡い期待を口にしてしまった。心の中身がどれだけ薄汚れた50代のサラリーマンであろうとも、この温かくて眩しい17歳の肉体としがみついた日常から、どうしても離れたくなかった。まだ荻中たちと卒業旅行の計画だって立てていない。
「……ダメなんだっちゃ」
モナの声が、ついに涙に濡れてかすれた。
「歪みが消えたら、そこにあるはずのないものは、全部正しい場所に戻されちゃうっちゃ。うちは、うちの星へ……。ダーリンは、ダーリンのいるべき、あの40年後の時間へ引き戻されるんだっちゃ……!」
「……っ」
冷酷なまでに明快な宣告が、二人の間の空気を切り裂いた。
頭では理解していたはずだった。ファミレスで玉田の顔を見たときも、おかんのカレーを食べたときも、これが「期限付きの奇跡」であることは分かっている。それでも、こうしてモナの口から直接言葉にされると、どうしようもない感情の奔流が一気に押し寄せ、翔大の胸の奥を激しく掻き乱した。
(やっぱり、そうなんか。俺はまた、あの孤独で、加齢臭のする平日の朝に誰も起こしてくれん薄暗いボロマンションに戻る。そしてモナは、何千光年も離れた宇宙の彼方へ帰ってしまう。もう二度と、会うこともできん場所に……)
二人の間に、心臓の鼓動すら躊躇われるほどの重苦しい沈黙が流れる。
翔大の視線が、机の上に置かれたオカリナに向かった。楽譜も読めず、ただモナを喜ばせたくて、彼女の故郷の風を真似て吹き続けた拙い音色。
「嫌だっちゃ……!」
張り詰めた沈黙を破り、モナが翔大の胸に激しく飛び込んできた。華奢な小さな拳で、翔大の胸元をぽすぽすと力任せに叩きながら、モナは子供のように声を上げて泣き出した。
「嫌だっちゃ!ダーリンと離れたくないっちゃ!やっと会えたのに、またうちを一人にして、置いていかないでほしいっちゃ……!40年後の、あのちょっとお腹が出てて、おじさん臭のするダーリンも大好きだけど、今のダーリンと、みんなと一緒に、もっともっと『今』を過ごしたいっちゃ……!」
「モナ……。おい、おじさん臭とかお腹が出とるとか、今そのリアルなディスりはやめてくれや。地味に傷つくわ……」
「だって本当だっちゃ!でも、どんなダーリンでも大好きなんだっちゃ!」
モナの泣き笑いのような一言に、翔大は言葉にならない愛おしさを感じ、彼女の細い体を壊れてしまいそうなほど強く抱きしめた。腕の中にある彼女の背中は、驚くほど小さく、痛々しいほどに震えている。
50代の大人の理性が、脳裏で冷たく「これが正しい未来だ。受け入れろ」と囁く。しかし、今この瞬間に脈打つ17歳の少年の熱い心臓が、その理性を全力で、魂の底から拒絶していた。
「俺だって……離れたないわ! モナ、お前がおらん世界に戻るなんて、もう耐えられへん。なんでや、なんでやっと、こんなに輝いとる青春を取り戻せて、お前っていう一番大切な存在を見つけられたのに……っ!」
翔大の目からも、こらえきれなくなった熱い涙が決壊した。ボロボロと溢れ落ちる涙がモナの柔らかな髪を濡らし、二人の涙が混ざり合っていく。
「ダーリン、聞いてっちゃ……」
モナが翔大の胸に顔を埋めたまま、涙を堪えるようにきゅっと身を縮めて、掠れた声で、だけどハッキリと言った。
「たとえ何千光年離れたって、たとえどれだけの時間が流れたって、うちは絶対にダーリンを諦めないっちゃ。時空の底に沈んだって、何回だってダーリンを見つけ出すっちゃ……!だから、ダーリンも絶対にうちを探して。約束だっちゃ……!」
そのあまりにも真っ直ぐで、命を削るような迫真の言葉が、翔大の胸の奥底へ深く突き刺さる。
「モナ……。当たり前や。お前を忘れるわけないやろ。40年経とうが、何億光年離れようが、お前のダーリンは俺だけや!それに何があっても、俺がお前を絶対に見つけ出す」
翔大がモナの涙を優しく指先で拭い、その濡れた瞳を真っ直ぐに見つめ返した、その時だった
。
フワッ……と、翔大のズボンのポケットの奥から、柔らかな光が漏れ出した。
驚いて翔大がポケットから取り出したのは、写真館で5人一緒に撮影した、あの落書きだらけの写真だった。モナの指の指輪が、その光に呼応するように細かく震え、青白い神秘的な光を放っている。二つの光が混ざり合い、写真に書かれた「ズッ友ピー!」「ダーリン大好きっちゃ!」のカラフルな文字が、まるで命を得たかのように一瞬だけ優しく、強くきらめいた。
「あ……写真が光っとる……」
「きっと、みんなの笑顔のパワーだっちゃ……!」
モナは涙を浮かべたまま、愛おしそうにその写真を見つめた。
「この世界の歪みが消えても、みんなと過ごした思い出のエネルギーは、うちの指輪の中にも、ダーリンの心の中にも、ちゃんと残るっちゃ。きっとこれは、時空を超える『目印』になるんだっちゃ!」
「みんなの笑顔が、目印に……。せやな。玉田も荻中も村上も、みんな俺らの味方や」
翔大は、これ以上ない勇気が湧いてくるのを感じた。
(みんな、ありがとうな。俺、負けへんよ)
そして、机の上に目をやり、そこに置かれたオカリナを手に取った。オカリナの吹き口には、モナが二人の絆のお守りとして編んでくれた、鮮やかな赤と青の編み紐が結ばれている。
翔大は、その紐の結び目を迷わずにほどくと、赤い紐を自分の手首にしっかりと巻きつけ、残った青い紐を手に取った。そしてモナの小さな手を取り、その華奢な手首に青い紐を優しく、しっかりと結んでやった。
「モナ、これをつけててくれ!」
「ダーリン……オカリナの紐……?」
「お前が編んでくれたお守りや。前にお前が言うとったもんな。『これはただの紐やない。指輪の力で、この赤と青の紐は量子レベルで繋がっとるんや』って。お前がその青い紐を手首につけてる限り、たとえ離れ離れになっても、この赤い紐がモナの居場所を真っ直ぐに指し示す羅針盤になるんや!」
翔大はさらに話し続けた。
「何万光年離れたって、次元の壁がどれだけ厚くたって関係ない。俺はこの赤い紐を引いて、時空の果てから必ずモナの手を掴み、俺の方へと引っ張り上げてみせる。だから俺はさよならの準備なんかセェへん。お前をもう一度この腕で抱きしめるための準備を始める。……だから、それをずっと身につけといてくれ」
モナは自分の手首に結ばれた青い紐をそっと見つめ、愛おしそうに指先で触れた。涙で濡れた頬を上気させ、胸の奥から湧き上がる愛しさを噛み締めるように、じわりと温かい笑顔を咲かせる。
「……っ、うん! ダーリン、うち、うち、すごく嬉しいっちゃ……!その紐を頼りに、ダーリンが引っ張り上げてくれるのを信じて、ずっと待ってるっちゃ……!命がけで大事にするっちゃ……!」
モナは青い紐が巻かれた手首を反対の手でぎゅっと包み込み、何度も何度も、こぼれ落ちる大粒の涙を拭おうともせずに頷いた。時空の崩壊という絶望的な現実を前にして、二人の魂は、間違いなくこれまでで一番深く、強く結びついていた。
その時だった。
ガタガタガタタッ!!
突如として、窓ガラスが割れんばかりに激しく鳴り響いた。
ゴォォォォォォ……!
地響きのような、重々しい地鳴りを伴った風の音が、遠くの暗闇から驚異的な速度で近づいてくる。
それは、あのすべての始まりの日――モナが凄まじい光と共に突如として翔大の前に現れた、あの嵐の夜と全く同じ、不気味で圧倒的な大気のうねりだった。
窓を見ると、庭の木々が狂ったように激しく体を揺らし、時空の境界線が悲鳴を上げるかのように、大気が赤紫色の不気味な光を帯びて歪み始めている。
「嵐が……来るな。あの時と、全く同じや」
翔大は手首の赤い紐を強く握りしめ、腕の中のモナをさらに強く抱き寄せながら、窓の外に広がる漆黒の混沌をじっと睨みつけた。その横顔には、引き裂かれる運命をただ待つだけではない、一人の男としての覚悟が、明確に灯っていた。
「ダーリン、光が……!歪みが部屋まで入ってくるっちゃ……ッ!嫌だっちゃ、まだ、まだお別れの準備なんてできてないっちゃ……!」
モナは、しゃくりあげる声を必死に抑え、今にも泣き崩れそうな思いで、青い紐を握りしめた手を翔大の手と重ね合わせた。冷たい窓から吹き込んでくる激しい風の音を聴きながら、彼女の瞳からは涙が止めどなく溢れ、狂い始めた夜空をただ見上げるしかなかった。
世界の崩壊と、引き裂かれようとする二人の運命。閉じゆく時空の歪みを嘲笑うかのように、迫り来る嵐の咆哮が、二人の部屋のすぐ外まで、刻一刻と迫っていた