朝の光が、昭和の木造校舎の廊下に斜めに差し込んでいた。
峰川翔大は、黒い学ランのきつい襟元を少し引っ張りながら、大きくため息をついた。
(まさか、56歳になってまた中間テストの心配をしたり、履き慣れない学生靴の踵を気にしたりする日が来るとはな……)
中身はすっかり世慣れたおっさんだが、鏡に映る自分は、髪もフサフサで肌に張りのある17歳の少年そのものだ。しかし、今日の翔大の緊張は、自分の若返りではなく、数歩後ろを歩いている「新入りの居候」のせいに他ならなかった。
「ダーリン、この服、なんだか下がスースーするっちゃ。地球の女の子は、毎日こんな戦闘服で過ごしてるっちゃ?」
セーラー服のプリーツスカートを不器用そうにつまみながら、モナがたどたどしい仙台弁で訊ねてくる。 さすがに頭のてっぺんの角がむき出しでは宇宙人だとバレてしまうため、モナは指輪の科学で作られた『やわらかくなる軟膏』を角に塗っていた。カチカチだった角は、塗った瞬間にグミのようにぷにぷにとした質感になり、今ではリボンのようなヘアアクセサリーを巻き付けて、少し変わった「飾り風の髪型」としてうまくカモフラージュしている。
「戦闘服ちゃう、制服や。ええかモナ、学校では『ダーリン』も禁止やからな。せめて『しょうたくん』って呼んでくれ」
「しょうたくん……? なんか、他人のフリされてるみたいで寂しいっちゃ……」
モナがトパーズの瞳をきゅるんと潤ませて上目遣いに見上げてくる。ぶかぶかのセーラー服から覗く白い首筋と、その破壊力抜群のハニーボイスに、17歳の男子高校生としての心臓がドクンと跳ね上がった。
(アカン、50代の理性よ、仕事をしてくれ……!)
翔大は自分の頬を両手でパチンと叩き、理性を繋ぎ止めた。
廊下の向こうから、担任の英語教師・佐藤が「おい、峰川、連れてきたぞ」と声をかけてきた。モナは、時空改変の超技術によって「海外からの特別留学生」という戸籍を完璧に付与され、翔大とは遠縁の親戚という名目になっていた。
ガラガラと引き戸が開く。
「おい、席につけー。今日は転校生を紹介する」
佐藤が教壇に立つと、ざわざわとしていた教室が一瞬で静まり返った。続いてモナが教壇に入ってきた瞬間、クラスの男子生徒たちから「ぶふぉっ!」という、リアルに鼻血を吹き出しそうな絶賛のドヨめきが沸き起こった。1980年代の男子高校生にとって、モナの浮世離れした美貌、色素の薄いサラサラの髪、そして異国情緒あふれる佇まいは、まさにアニメの画面から飛び出してきたヒロインそのものだったのだ。
「モナ・ムールです。遠いところから来ました。趣味は『にがうり』を食べることで、特技は……分子構造の組み換えです。よろしくお願いしますっちゃ」
最後の「〜っちゃ」という響きが教室に響いた瞬間、男子たちのボルテージは最高潮に達した。
「どこの国の女の子かな?」
「おい! 日本語うまいな、しかも仙台弁かよ!」
「めちゃくちゃ可愛い!」
「ラムちゃんリアル版じゃねえか!」
しかし、悲劇のドタバタはここから始まった。佐藤が「席は……そうだな、峰川の後ろが空いてるな。モナ、あそこだ」と指示した瞬間、教室内がピキリと凍りついた。
「あ、しょうたくんの後ろだっちゃね! 嬉しいっちゃ!」
モナが嬉しさのあまりピョンピョンと跳ねながら翔大の席へと向かい、その細い腕で、翔大の背中に後ろから思い切り抱きついたのだ。
「ちょっ、モナ!! 離れっ……! 学校やぞ!」
「うふふ、寂しかったっちゃ、ダーリン!」
反射的に出た「ダーリン」の単語。そして、クラス一冴えないはずの峰川翔大に、超絶美少女が抱きついているという現実。 教室内には、地鳴りのようなざわつきが広がった。
男子たちの目が、羨望から一転して「裏切り者を処刑せよ」と言わんばかりの、血走った殺意の眼光へと変わる。
「おい峰川……お前、どういうことだ」 「説明しろ、峰川ァ!」
授業が始まっても、教室内には不穏で重苦しい空気が漂っていた。翔大は背中に刺さる男子全員からの殺気を感じながら、黒板に向かって生きた心地のしない時間を過ごしていた。
その時だった。翔大がノートを取っていると、突然ノートの紙面がふわりと歪んだ。
(ん……!? なんやこれ……!?)
なんと、モナが指輪の重力波動技術を応用し、翔大のノートの上にだけ『見えない重力波のメッセージ』を浮かび上がらせてきたのだ。ノートの上に、光の結晶のような文字が浮かび上がる。
『しょうたくん、授業むずかしいっちゃ。退屈だっちゃ。放課後、ふたりでデートしたいっちゃ♡』
(ぶふぉっ!?)
翔大は思わず吹き出しそうになり、必死で口を押さえた。翔大の視線だけにしか見えない、空間を歪めた重力波のラブレター。後ろをチラリと振り返ると、モナが教科書で口元を隠しながら、トパーズの瞳をきらめかせて悪戯っぽく微笑んでいた。
50代の社会人経験をもってしても、17歳の身体にダイレクトに打ち込まれる甘すぎる重力波の破壊力には耐えきれない。翔大の心臓は、警報のような猛烈なビートを刻み始めていた。
休み時間になると、案の定、翔大の席はクラスの男子たちに完全に取り囲まれていた。机をバンと叩かれ、胸ぐらを掴まれんばかりの凄まじい熱気だ。
「おい峰川ァ! 聞きたいことが山ほどあるぞ! なんでお前があんな可愛いモナちゃんを知ってるねん!?」
「そうだよ! なんでいきなり転校生と知り合いなんや!? 納得のいく説明をしろ!」
「おい、さっきモナちゃん『ダーリン』って言ったぞ! 耳を疑ったわ! お前、モナちゃんに裏から手ぇ回して、なんか弱みでも握ってるんちゃうやろな!?」
口々に叫び、嫉妬の炎を燃やす男子生徒たち。56歳の社会人経験を持つ翔大だったが、10代男子のピュアで凶暴なエネルギーに気圧され、さすがに冷や汗が止まらない。
「いや、これはその、事情というか、やな……」
翔大がタジタジになっていると、その時、モナが翔大の前にスッと割って入った。
「みんな、しょうたくんを責めちゃダメだっちゃ!」
「モナちゃん……! でも、なんでこいつなんかと……っ!?」
男子生徒の一人が悔しそうに訊ねると、モナは自分の指輪をこっそりいじりながら、毅然と言った。
「しょうたくんとうちは、遠い親戚なんだっちゃ! 小さい頃から何回か会ってるっちゃよ。……うちがもっと幼いとき、一緒に海岸へ遊びに行ったら、うち、クラゲに足を刺されて泣いちゃったんだっちゃ。そのとき、しょうたくんがすっごく必死になって、毒を口ですいだしてくれたんだっちゃ! その時の優しさに、うちはこの人に一生ついていこうって決めたんだっちゃ」
モナの口から語られた、絶妙に地球風にアレンジされた「幼少期のドラマチックな嘘エピソード」。 それを聞いた男子たちは、一瞬にして静まり返った。
「クラゲの毒を……口で……」
「マジかよ……そんなの、ただの『遠い親戚』の域超えてるやろ……」
「完全なヒーローやんけ……クソッ、それじゃあモナちゃんがベタ惚れなのも、納得するしかないやんかよぉ……っ!」
1980年代の純朴な男子高校生たちは、その熱いボーイ・ミーツ・ガールな物語に圧倒され、ガックリと肩を落とした。割り込む隙のないあまりの絆の強さに、嫉妬を超えて敗北感を噛み締めているようだった。
「お前、そんな大金星を昔から挙げてやがったのか……。悔しいけど、今回ばかりはお前を認めざるを得ないわ、峰川……!」
男子たちの納得ぶりに調子に乗った翔大は、ふっと鼻で笑い、格好をつけて見せた。
「まあな。俺、こう見えて昔から『現場主義』やから、困ってる女の子を見過ごせへん性分なんよ」
ドヤ顔でドカッと椅子に深々と腰掛けた――その瞬間。
ドゴォッ……!!!
「ぐはっ……!?」
突如、翔大のみぞおちへ目に見えない猛烈な衝撃波が叩き込まれた。悶絶して腹を抱え、前屈みに倒れ込む翔大。 見れば、モナが指輪をハメた手を腰に当て、ジト目(激しいヤキモチ顔)で翔大を睨みつけていた。男子の前で鼻の下を伸ばしてドヤ顔をした翔大に対し、指輪の重力波動で「お腹への衝撃波(プチお仕置き)」を食らわせたのだ。
(モ、モナ……威力調整間違えてへんか……!? 死ぬかと思ったぞ……!)
その時、教室の女子グループがざわつき始めた。突如現れた容姿端麗な転校生に、女子生徒たちも黙っていられなかったのだ。クラスの女子の中心人物である早苗が、腕を組んでモナに近寄ってきた。
「ねえ、モナさん。男子たちが騒ぐのはいいとして……その髪型、ちょっと校則違反じゃない? その大きなリボンみたいな飾り、目立ちすぎると思うんだけど」
女子特有の少し刺のあるチェック。周囲の男子たちがゴクリと息をのむ中、モナは悪気ゼロの無邪気な笑顔で、自分の頭の髪飾り(軟膏でプニプニになった角)を指さした。
「これだっちゃか? これはね、うちの頭から生えてる『ツノ』に『やわらかくなる軟膏』を塗ってカモフラージュしてるんだっちゃ! 触るとグミみたいで気持ちいいっちゃよ、触ってみるっちゃ?」
「……は? ツ、ツノ……!?」
あまりにも堂々とした、意味不明すぎる天然の返し。早苗は毒気を抜かれたように目を丸くした。おずおずとモナの角飾り(軟膏グミ状態)に指で触れてみる。
「……本当だ、プニプニしてる……。えっ、ツノって……ジョークだよね……?」
「ううん、本物のツノだっちゃ!」
けろりと答えるモナの屈託のない可愛らしさに、早苗たち女子グループもすっかり調子を狂わされてしまった。
「……まあ、よく分かんないけど可愛いからいっか。校則のことは内緒にしといてあげる」
「ありがとだっちゃ!日本の女の子は優しいっちゃね!」
モナの超天然な魅力は、瞬く間に女子たちの警戒心までをも溶かしてしまったのだった。
しかし、そんな和やかな空気も束の間、諦めきれない男子の一人が、往生際悪く翔大の学ランの胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。その瞬間――。
「うちのダーリンに、何するっちゃ!」
モナの瞳が鋭く光り、再び指輪に触れる。次の瞬間、見えない重力制御の波動が走り、絡もうとした男子の身体がフワリと宙に浮いたかと思うと、そのまま床へ綺麗に一回転して、すてーんとひっくり返った。
「ぶふぇっ!?」
「うおっ!? な、何が起きたんだ!?」
触れてもいないのに一瞬で転がされたクラスメイトを見て、周囲の生徒たちが飛び上がって驚く。翔大はみぞおちの痛みを堪えながら、光速で脳細胞を回転させた。
「あ、あはは! ビビったか? 実はな……モナのお父さん、合気道のめちゃくちゃ凄い師範やってんねん! モナも小さな頃から仕込まれてて達人級やから、ヘタに手ぇ出すと勝手に身体が投げ飛ばされてまうぞ!」
翔大は冷や汗をダラダラ流しながら即興の嘘をまくしたてた。当のモナは「やってしまったっちゃ……」と両手で口を抑えていたが、翔大のアイコンタクトを察すると、すぐにキリッとポーズを決めた。
「そうだっちゃ! 悪いことする人は、うちが『あいきどー』でお仕置きしちゃうっちゃ!」
モナが可愛らしく小さな拳を握ると、男子たちは完全に気圧された。壁際に転がっているクラスメートの惨状を見て、誰もそれ以上深く追究する勇気はなかった。とにかく、モナには絶対に逆らわない方が身のためだということだけは、全員の脳裏に深く刻み込まれた。
翔大は頭を掻きながら、怯える男子たちを振り返ってニヤリと笑った。
「みんな、モナには逆らわん方がええでぇ〜」
放課後。夕暮れ時の帰り道。
二人は並んで、オレンジ色に染まる坂道を歩いていた。
「モナ、さっきはありがとうな。あのクラゲの話、とっさにようあんな話思いついたな。助かったわ。……まあ、途中で俺のお腹に重力波打ってきたのは焦ったけどな!」
「ふふっ、ダーリンが他の人たちの前で鼻の下伸ばしてドヤ顔してるからだっちゃ!」
翔大とモナはお互いに顔を見合わせ、楽しそうに笑い合った。モナは指輪を愛おしそうにいじりながら、少しだけ恥ずかしそうに微笑む。
「でもね……うちの話はとっさのエピソードだったけど、実際に、嵐の夜にうちの命を必死で助けてくれたのは、ダーリンだっちゃ。だから、まんざら嘘でもないっちゃよね?」
「まぁ、そう言われればそうやな……」
筋の通ったモナの言葉に、翔大は一本取られたように頭を掻いた。
「あのね、ダーリン……学校って、すっごく賑やかで楽しかったっちゃ。でもね、みんながダーリンに怒った時、うち、胸がすごくキューって痛くなったっちゃ。うちのせいで、ダーリンが嫌われるのは嫌だっちゃ……」
いつも無邪気なモナが見せた、初めての「地球の人間関係」に対する不安と、翔大を思いやる健気な言葉。そのトパーズの瞳に宿る本物の感情を見た瞬間、翔大の中の「おっさんの保護欲」と「少年の恋心」が完全にシンクロした。
翔大は歩みを止め、モナの頭にそっと手を置いた。角を隠すために巻き付けられた、お気に入りのヘアアクセサリーを崩さないよう、優しく撫でる。
「大丈夫や。俺がついてる。地球の学校は、これからもっと楽しくなる。モナが困った時は、いつでも俺が『現場』に駆けつけるからな」
「……ダーリン」
モナの顔が、夕焼けの赤さよりももっと深く、ぽうっとラム色に染まっていく。 彼女は嬉しそうに目を細めると、今度は遠慮がちに、しかしギュッと、翔大の右腕にしがみつくようにして自分の両腕を絡ませてきた。セーラー服越しに伝わる、柔らかくて確かな女の子の体温。不意打ちの腕組みに、翔大の心臓は今日一番の爆発的なビートを刻み始めた。
「じゃあ、このままお家まで一緒に帰るっちゃ、しょうたくん!」
さっきは「他人のフリみたいで寂しい」なんて言ったけれど、いざ口にしてみると、特別な名前を呼んでいるようで胸の奥がキュンと甘く疼く。モナは内心でニヤリと笑いながら、さらに一歩翔大との距離を詰め、その逞しい二の腕をごきげんに抱きしめた。
「お、おう……。でも腕組むのは反則やろ、モナ……」
2400光年の距離を超えて繋がった、二人の距離。カサカサと鳴る落ち葉の音を聞きながら、翔大は、自分の新しい青春が、この甘酸っぱくて賑やかな世界の中で、一歩ずつ、確かに進み始めているのを実感していた。