数日後の日曜日。高校生活にも少しずつ慣れてきた翔大だったが、中身は50代サラリーマン。17歳の有り余る体力と、ン年ぶりの因数分解や古文の授業に、脳も身体もすっかりお疲れ気味だった。
「ふぅ……。やっぱり、高校生の日常ってのはエネルギーがいるなぁ。営業回りの方がまだマシやわ……」
幸い、厳格な父・文司郎と弟の彰宏は車の展示会へ出かけ、母・佳子は近所のスーパーで買い物中。一階の居間からは、モナがテレビのアニメの再放送や歌番組に夢中になっている賑やかな声が聞こえてくる。
(今がチャンスや!)
翔大は二階の子供部屋で、そっと学習机の引き出しの奥の奥に手を伸ばした。
指先に触れたのは、土のひんやりとした手触り。50代の自分が唯一、誰にも言わずに細々と続けていた趣味の道具――素朴なオカリナだった。時空を超えて17歳の高校生に戻った際、なぜか愛用のオカリナだけは、最初からそこにあったかのように引き出しに収まっていたのだ。
「久しぶりに、ちょっとだけ吹いてみるか……」
近所迷惑にならないよう窓を細めに開けると、網戸越しに初夏の瑞々しい青葉の香りが部屋に入ってきた。
翔大はオカリナを口元に当てた。楽譜は読めない。指使いもめちゃくちゃな、教本を見ながら覚えた完全な自己流。それでも、50代の退屈で孤独な日常のなかで、不思議と心を落ち着かせてくれた懐かしい昭和のメロディを、不器用ながらもそっと奏でてみる。
ピリリ、ピピ、プー……。
案の定、最初はかすれた音が鳴り、少しトボけた哀愁が部屋に漂う。しかし、何回か息を吹き込むうちに、徐々に音が優しく伸びていく。
その時、階段を「トトトトッ」と小気味よく駆け上がる足音が聞こえた。
バタン! と勢いよくドアが開く。
「ダーリン! 今の不思議な音は何だっちゃ!?」
目をこれ以上ないほどキラキラ輝かせたモナが突入してきた。
「うわっ、びっくりした……。これな、オカリナっていう地球の楽器やねん。って、モナ、ドアはノックしてや(笑)」
「おかりな……? 粘土の塊なのに、ダーリンが息を吹き込むと、すっごく優しくて懐かしい音がするっちゃ! うち、この音、大好き!」
モナは部屋の真ん中にあるローテーブルの横にちょこんと正座し、翔大の手元を宝物でも見るように下から覗き込んだ。
「大好きって、そんな大層なもんちゃうよ。おかんにもいっつも『近所迷惑やから静かにしぃ!』って怒られてたわ。しかも自己流やしな」
「ううん、違うっちゃ。音楽っていうのは、技術じゃなくて『心音(こころ)』を響かせるものだって、うちの星の学者も言ってたっちゃ。ダーリンが奏でる音を聞くと、心がポカポカになるっちゃ」
そう言って、モナは慈しむような、純粋な笑顔を翔大に向けた。50代の、何一つ誇れるもののなかった「冴えない自分」を、この少女は全肯定してくれる。
(……柄にもなく、照れるやんけ)
翔大は耳が熱くなるのを隠すように、モナの頭のリボンの隙間から覗く、不思議な軟膏の力でヘア飾りのようにカチカチ感を消した、ぷにぷにの角を人差し指でツンと突っついた。
「あ、ダーリン、今ツノ触ったっちゃ? エッチだっちゃ!」
「なんでやねん! 挨拶代わりや!」
そんな凸凹なやり取りをしながらも、二人の間には、嵐の夜にはなかった確かな温かさが通い始めていた。
「あ、そうだ。ダーリン、お返しにうちの星の『ひみつの指輪』のすごい機能、もっと見せてあげるっちゃ!」
モナは自慢げに、いつもはめているトパーズ色の指輪をかざした。
「これ、重力を変えるだけじゃないっちゃ。ほら、見ててね」
モナが指輪に向かって短く念じると、指輪から放たれた淡い光が、翔大の机の上にある鉛筆や消しゴム、そして飲みかけの麦茶のマグカップを包み込んだ。
すると、それらがフワフワと宙に浮き、まるで無重力空間のように空中をプカプカと漂い始めたのだ。
「うおっ!? 凄いなモナ、手品みたいやん! あ、でもマグカップはこぼれるから危な――」
「大丈夫だっちゃ! これを使えば、ダーリンのオカリナの音を、もっと綺麗に響かせることも……あ、あれ? 待って、出力が……!」
調子に乗ったモナが指輪を大きく動かしたその時、指輪から予想以上の強い光が放たれ、部屋の空気が一瞬だけぐにゃりと波打った。
「わわっ!? モナ、なんかヤバい光が出とるで!?」
「ひゃあ! 空間のチューニングが狂っちゃったっちゃ! 止まれ、止まれっちゃー!」
モナが慌てて指輪を自分の胸に抱きしめるようにすると、ボフッという奇妙な破裂音とともに、浮いていた文房具やマグカップが一斉にローテーブルの上へ落下した。幸い、麦茶は数滴こぼれただけで、大きなトラブルにはならずに済んだ。
「お、おいおい……勘弁してくれよ。SF映画の撮影やないんやから、六畳の部屋でそんな大技出されたら寿命が縮まるわ」
翔大がやれやれと首を振ると、モナは落ちた文房具を慌てて片付けながら、べーっと可愛らしく舌を出した。
「もう、ダーリンは心配性だっちゃね~。これはちょっと出力のコントロールを間違えちゃっただけだっちゃよ。この指輪にはね、まだ信じられないような凄い力がいっぱい隠されてるんだっちゃ!」
「まだあるんか……。次は一体何が浮き上がるんや?」
「浮かすだけじゃないっちゃ。ほら、これを見てほしいっちゃ」
モナは胸元で指輪をきゅっと握りしめ、少し真剣な、どこか愛おしそうな瞳で翔大を見つめた。
「ピンチを切り抜けたり言葉を覚えるだけじゃなくて、実は『心の絆を形にする力』もあるんだっちゃ」
「心の絆?」
翔大が首を傾げたその時、モナが指輪の表面をそっとなぞった。
すると、指輪の中心から淡いラム色の光が溢れ出し、オレンジ色の夕暮れに染まる六畳の部屋を包み込んでいく。
「うおっ!? なんだこれ!」
「びっくりしないで、ダーリン。じっとしてるっちゃ」
光は二人の周りをゆっくりと旋回し、やがて翔大の胸元と、モナの胸元へと吸い込まれていった。
その瞬間、翔大の頭の中に、言葉ではない「感情」が直接流れ込んできた。
――ダーリン、大好き。ずっと一緒にいたいっちゃ。私のダーリン、世界で一番かっこいいっちゃ。
(えっ……これ、モナの気持ち……!?)
言葉よりも鮮烈に、モナの純粋で圧倒的な愛情が、翔大の心に直接流れ込んでくる。それと同時に、モナの耳にも、翔大の心の声が届いていた。
――モナ、いつも助けてもらってばかりでごめんな。俺はただの50代のオッサンなのに、こうして君ともう一度青春をやり直せて、本当は毎日、夢みたいに嬉しいんだ。
「……ダーリン」
モナの瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく
。
「ダーリン、そんな風に思ってくれてたっちゃ? オッサンなんてことないっちゃ! うちの自慢のダーリンだっちゃ!」
モナは感極まったように、翔大のシャツの胸元に飛び込んできた。
指輪の光が収まっても、二人の心に灯った温かい温度は消えなかった。翔大は少し照れながらも、不器用にオカリナをもう一度口に当てた。今度は不思議と、いつもより少しだけ、優しく澄んだ音が夕暮れの部屋に響き渡る。
モナは翔大の胸元で、幸せそうにその音色に耳を傾けていた。異星の秘密の力は、時空を超えた二人の距離を、また一歩、確かに縮めてくれたようだった。
その時、一階からガラガラと玄関が開く音がした。
「ただいまー! 翔大、モナちゃん、おやつに三色団子買ってきたわよぉ」
母・佳子のんびりとした、どこまでも平和な声が響き、二人は弾かれたように離れた。
「さんしょくだんご……? ダーリン、それ、美味しいものっちゃ?」
モナが不思議そうに首を傾げる。
「おう、ピンクと白と緑の、甘くてモチモチした最高のおやつや。おかん、今行くわー!」
「あ、お母様! うちもその、もちもちの『さんしょくだんご』、食べてみたいっちゃー!」
新しい地球の味覚に興味津々のモナは、涙を拭って満面の笑みで部屋を飛び出していった。階段をスリッパでドタドタと下りていく音が響く。
「……ほんま、嵐みたいな奴やな」
苦笑しながら、翔大は引き出しの奥へとオカリナを仕舞い込んだ。明日からはまた、17歳の高校生としての日常が始まる。あの愛らしくもハチャメチャな異星人の少女が隣にいる限り、普通とは程遠い、ワンダーな日々になることは間違いなかった。