どうも。
ではどうぞ。
夏の北海道シリーズの熱気もそのままに、季節は秋へと移り変わろうとしていた10月上旬。
サクラアルドールは美浦の厩舎へ戻らず、デビューを迎えた札幌の地で未だ留まっていた。理由は1つ。
新馬戦と同条件の札幌芝1800m右回りの重賞があるのだ。
札幌の芝1800mでデビューを迎えたならばこのレースに出走しない手はないと言ってもいい。その重賞とは、GIII札幌2歳ステークスだ。
しかし少し前年とは変更点があった。通常の年であれば9月に行われるはずの札幌2歳ステークスはこの年、番組改編の都合により異例の10月1週目という珍しい日程で施行されることになっていた。
新馬戦後のアルドールの体調はすこぶる健全であり、カイ食いも全く落ちなかった。そのため大島は、この涼しい北の大地に留まる滞在競馬を敢行し、同条件の重賞に出走することを提案したのだ。
全内はもちろん許可。
この札幌2歳ステークスはもしアルドールが出走するとサクラ軍団2連覇となるのも許可した一因だろう。
前年、札幌芝1200mの新馬戦を勝利したサクラプレジデントはアルドールと同じ様に滞在競馬を敢行し見事勝利。
大島厩舎の関係者共に滞在競馬の経験は十分にある。
何も心配することはないのだ。
「馬体は新馬戦のデキくらいには仕上がったし、あとは当日の馬場状態だけだな」
札幌の天気は前走と同じ、曇り空。
しかし札幌は前日からの雨の影響が残っており、芝コースの発表は稍重。水分を含み、ただでさえタフな札幌の洋芝がさらにパワーとスタミナを要求する過酷なコンディションへと変化していた。
「豊も最終追い切りで『このバネなら稍重の洋芝でも他馬との差が広がるだけです』と言ってくれた。アルドール、ここで最初のタイトルを獲りに行くぞ」
大島の力強い言葉に背中を押されたように、美しい鹿毛の馬体は静かに、そして闘志を燃やして脚を進める。
『第38回を迎えました、札幌2歳ステークスGⅢ。異例の10月開催となりましたが、例年と変わらず未来のクラシック候補たちの一挙手一投足を見守るファンで埋め尽くされております札幌競馬場』
1.7倍という圧倒的な1番人気に支持されたのは母が重賞2勝を誇ったキョウワホウセキである良血馬キョウワスプレンダ、佐東哲三。2番人気にはのちにクラシック戦線を大きく賑わすことになる素質馬ヤマニンシュクル、志位洋文。3番人気はマイネル軍団の期待馬マイネルブルック、藤島慎二。4番人気に推されたのは大器晩成スズカマンボ、蛇名正義。
サクラアルドールと竹豊は新馬戦でファンに与えた衝撃は大きかったものの、血統的な懐疑論からこれらの実績馬たちの次点に控える5番人気でレースを迎えた。
パドックでのアルドールは、夏の滞在調整の恩恵を最大限に受けていた。本州の酷暑を経験していないその馬体は無駄な脂肪が削ぎ落とされ、素晴らしい毛艶を見せていた。
2歳馬特有の浮ついた様子は微塵もなく、まるで何戦も修羅場をくぐり抜けてきた古馬のような威風堂々とした足取りで周回を重ねていた。
そしてパドックを終え、本馬場入場を迎えた14頭の若駒。
3枠4番に入ったサクラアルドールはこのレースでは1番馬格が良く、入場時には少しの歓声が上がった。
『——ゲート入りが始まっています。稍重のコンディションの中、2歳の若駒14頭が今後に繋げるための大事なタイトルを目指して戦います』
ファンファーレが鳴り終わり、ゲート入りが始まった。5枠7番に入った地方・ホッカイドウ競馬所属の10番人気モエレエスポワールなども次々とゲートに吸い込まれていく。
『スタートしました! ほぼ揃った綺麗なスタート!先行争いは7番のモエレエスポワールが行きました、地方のモエレエスポワール』
サクラアルドールは絶好のスタートを切る。
直後、アルドールの2つぐらい外からモエレエスポワールが果敢にダッシュを効かせ、迷いなくハナを奪いに行った。
札幌の1800mはスタート直後にすぐ第1コーナーを迎えるため、先行ポジションの奪い合いが激しくなりやすい。
そこへ8番人気のアズマサンダースが2番手でぴたりとつける。
竹豊は無理に押し出すことはせず、アルドールの天性の行き脚に任せた。馬とは思えない抜群のレースセンスを持つサクラアルドールは自ら馬群の隙間を見つけ、インコースの好位5番手、ヤマニンシュクルらを見据える絶好のポケットに収まった。
先頭のモエレエスポワールが刻んだペースは、前半1000m通過が1分5秒9という、稍重の馬場を考慮しても異例の超スローペースだった。
終始先頭で気持ちよく走る地方馬に対し、中央の馬たちはこの展開に戸惑い、折り合いを欠いて急き込む馬が続出する。だが、アルドールだけは完全に手応えを残したまま鞍上と呼吸を合わせていた。
最内の泥が最も深い進路を走りながらも、その走りの軸は全くブレない。鍛え上げられたそのバネが、根性が、水分を含んだ洋芝の重さを推進力へと変換していく。
スローペースゆえに前残りが絶対的に有利な展開。それを百戦錬磨の竹豊も、そしてアルドール自身も静かに見極めているかのようだった。
3コーナーから4コーナー。2番手のアズマサンダースがモエレエスポワールに並びかけ、1番人気のキョウワスプレンダも外から位置を押し上げていく。
内からは2番人気のヤマニンシュクルも手応え良く進出を開始する。馬群が一気に凝縮し、アルドールの前方は完全に他馬の壁で塞がれた。
『先頭は地方のモエレエスポワール! 並びかけるアズマサンダース中々差が縮まらない!サクラアルドールは動けないか、ちょっと進路がない!』
しかし、竹豊は恐ろしいほどに冷静だった。
慌てて外へ持ち出すような無駄な動きはしない。
ただひたすらに、アルドールの爆発力を信じ、前が開く一瞬の隙間を待っていた。
そして、運命の直線。残り200mを切ったところで逃げるモエレエスポワールと、食い下がるアズマサンダースの間、馬1頭分ほどの隙間が生まれた。
「行くよ、アルドール」
その瞬間、アルドールが別次元の推進力を見せた。
他馬が水分を含んだ洋芝の重さに足を取られ、もがくように必死に脚を動かす中、まるで良馬場のような加速力を発揮したのだ。
『2頭の間から!間からサクラアルドールが抜け出した!先頭は変わってサクラアルドール!』
その加速力は、まさに一瞬だった。
粘るモエレエスポワールも、食い下がるアズマサンダースも、外から飛んできたヤマニンシュクルも、まるでその場に静止しているかのように置き去りにされた。
残り100m。アルドールと後続との差はまたたく間に1馬身、2馬身、3馬身と広がっていく。竹豊騎手は周囲を一瞥し、鞭を入れることなく、手綱を抑えて愛馬の首を優しく叩いた。
サクラアルドールは、完全に手綱を抑えられた馬なりの状態のまま悠々と、そして圧倒的な独走で札幌2歳ステークスのゴール板を駆け抜けた。
『サクラアルドールだ!サクラアルドール今ゴールイン!なんという馬!なんという竹豊!』
ゴールした瞬間、満員のスタンドは歓声よりも先に一瞬の奇妙な静寂に包まれた。前残りのスローペースを、しかも稍重の馬場で内から一瞬で抜き去った非現実的な勝ちっぷりに観客の脳の理解が追いつかなかったのだ。
しかしその直後、割れんばかりの拍手と地鳴りのような大どよめきが札幌競馬場を包み込んだ。馬主席の最前列では、全内の手が震えていた。
「……化け物だ。スローペースの前残りをあんなところから一瞬で捕らえるなんて!」
サクラロータリー産駒、サクラアルドール。
夏の滞在競馬で完璧に磨き上げられたその馬は、デビューの地、札幌にて最初の重賞タイトルを確かにその手に掴んだのだった。
入院中の作者です。
明日手術がありまして、全身麻酔をするのでたぶん執筆できません。次話は点滴が外れた日だと思ってください(´・_・`)