ブラック企業で働く28歳の美咲は、謎の青年「煩悩菩薩」に日々のささやかな妄想(煩悩)を奪われる。
完璧な仕事マシーンになった彼女は、感情と生きる意味を取り戻すため、青年を追って桜前線の終着駅へと向かう。


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第1話

「田中さん、お疲れ様です」

 

 午後三時。エレベーターの扉が開く直前、後ろから声をかけられた。

 

 振り返ると、営業部の佐伯くんが立っていた。ネクタイを少し緩めて、疲れたような笑顔を浮かべている。狭い密室に、清潔な柔軟剤の匂いと、微かなムスクの香りが混ざる。

 

「あの、もしよかったら、この後、千鳥ヶ淵まで行きませんか? ちょうど満開だって聞いたので。二人で、ゆっくり見たいんです」

 

「えっ、あ、はい。ぜひ」

 

 頬が熱くなる。人混みの中、はぐれないようにって、彼が私のコートの袖を、壊れ物を扱うみたいに控えめに掴む。夜風は冷たいけれど、触れ合った場所から体温が伝わってくる。街灯に照らされた彼の長い睫毛が、ゆっくりと近づいてきて――。

 

「……田中美咲さん!」

 

 ひび割れた現実の声が、甘い夢を無残に切り裂いた。

 

 顔を上げると、眉間に深いシワを刻んだ課長が、爬虫類みたいな冷たい視線で私を見下ろしていた。

 

「数字、一時間前から一件も進んでないじゃないか? 桜に見惚れるのは勝手だが、会社は君の白昼夢に給料を払ってるわけじゃない。二十八にもなって、学生みたいな浮ついた真似はよしたまえ」

 

「すみません! すぐやります!」

 

 慌ててキーボードを叩く。だけど、震える指が打ち込んでいたのは、売上個数ではなく、意味をなさない「1」の羅列だった。

 

 最低だ。心の中で自分を罵る。

 

 オフィスを支配しているのは、働く人間の生気を少しずつ削り取っていく蛍光灯の青白い光と、天井のエアコンが吐き出す低い唸り声だけだった。デスクに積み上がった終わりのない売上データ。私はその数字の海を漂い、帰るべき港を見失った難破船も同然だった。

 

 ふと、視線を上げる。二十階の窓の外には、残酷なほどの「春」が押し寄せていた。東京の街を埋め尽くすソメイヨシノ。風が吹くたび、数えきれない薄桃色が宙を舞い、重力という呪縛から解き放たれたみたいに自由を謳歌している。

 

 ここでは「感情」はノイズで、「夢」は効率を落とすだけの不純物だった。現実の私は、数字と溜息と「正論」ばかりを積み上げる墓場の住人だ。私をどこか別の場所へ連れて行ってくれる熱量なんて、もう一滴も残っていない。

 

 

 その日の帰り道、私は逃げるようにオフィスを飛び出した。駅へ向かう人波を避け、近所の古い公園を横切ったとき、彼に出会った。

 

 街灯の下、今にも折れそうなほど老いた桜の傍らで、身の丈ほどもある巨大なバックパックを背負ったまま、跪いている青年がいた。白いマウンテンパーカーの肩には、無数の桜の花びらが、行き場を失った雪みたいに分厚く積もっている。

 

「……大丈夫ですか?」

 

 声をかけると、彼はスローモーションみたいにゆっくりと顔を上げた。驚くほど整っているのに、血の通っていない石膏像のような無機質な顔。その瞳は、光を反射しない黒真珠のように、深い静寂を湛えていた。

 

「重いのです。この季節は、特に。空気が膨らみすぎて、私の背中を折ろうとする」

 

 彼の声は、耳というより、脳の奥底にある古びた鐘を鳴らすような、奇妙な響きを持っていた。

 

「桜前線が北上するたび、至る所で『期待』という名の毒が蔓延します。春になれば恋ができる。春になれば人生が変わる。新しい自分、輝く未来。根拠も実体もない煩悩だけが増え続ける。それらはすべて、私のバッグに流れ込んでくる。私はそれらを回収し、北へと運ぶ。それが私の役目です」

 

「煩悩? あなた、一体何を……」

 

「私は、あてのない夢に溺れ、死にかけている魂を救う者。煩悩菩薩、と言えばわかりますか? サキと名乗っています。田中さん、あなたがさっき仕事中に抱いていた『佐伯くん』との甘い残像。それから、先週買った宝くじが当たって南の島で過ごすあの空虚な妄想も、ここに仕舞ってあげましょうか」

 

 彼は背負っている岩塊みたいなバックパックを指さした。私は凍りついた。なぜこの人が、私の脳内の最もプライベートな領域を知っているのか。

「それを取り除けば、あなたは『今』という瞬間を、何にも邪魔されずに生きることができる。明日の不安も、昨日の後悔も、届かない恋の痛みも……。すべてを消し去れば、苦しみのない、透明な現実へと辿り着ける。楽になれますよ、田中さん」

 

 サキが私の額に、細く長い指で触れた。ひやりとした、永久凍土みたいな冷たさが脳を貫く。次の瞬間、脳裏にこびりついていた佐伯くんの柔らかな笑顔も、ライトアップされた夜景の色彩も、すべてが巨大な掃除機で吸い取られるみたいに消え去った。

 

「あ……」

 

 視界が晴れる。いや、正確には「世界の彩度が落ちた」のだ。頭の中は、何一つ落書きのない、新品の真っ白なキャンバスになった。驚くほど静かで、驚くほど、何もなかった。

 

 サキは満足そうに微笑み、再びその巨大な重荷を背負って、北の夜闇へと消えていった。

 

 

 翌日からの私は、精密に調整された機械そのものだった。仕事の手は一切止まらない。余計な雑念が湧かないため、集中力は限界を超えて研ぎ澄まされていた。

 

 佐伯くんがコピー機の前で、後輩の女子社員と楽しげに談笑していても、私の心拍数は一度も乱れない。以前なら「誰と話してるの?」と一時間は悶々としていたはずなのに、今は「同僚が発声による情報交換を行っている」という物理現象が、淡々と網膜に記録されるだけだ。

 

「田中さん、最近すごいじゃないか。ミスもないし、スピードも倍以上だ」

 

 あの「ヘビ」課長からも絶賛された。

 

「見違えたよ。君は無駄を削ぎ落とした、我が社にとって最高の戦力になった」

 

「ありがとうございます。業務を遂行しているだけです」

 

 口から出たのは、自分の声とは思えないほど冷淡な響きだった。けれど、何かが致命的に、根本から狂っていた。

 

 昼休みに食べるコンビニの鮭弁当。かつては唯一の楽しみだったその食事が、今は砂を噛んでいるような味がした。塩分、タンパク質、炭水化物。単なる栄養素の摂取。それ以上の意味を、私の舌は感知しない。帰り道、あんなに綺麗だと思っていた夜桜を見上げても、「バラ科サクラ属の植物が特定の波長を反射している物体」としか認識できなかった。

 

 私の世界から、「彩り」と「熱」が完全に消失していた。煩悩という不純物を取り除いた結果、残ったのは「純粋で空っぽな現実」という名の広大な虚無だった。

 

 一週間が過ぎた頃、私は鏡を見て驚愕した。そこに映っていたのは、二十八歳の女性ではなく、ただ「機能するだけの死体」だった。瞳から光は消え、表情筋は完全に死に絶えている。

 

 気づけば、私はスマホで「桜前線」の現在地を狂ったように検索していた。サキは言っていた。「前線とともに北上する」と。

自分が一体何を失ったのか、ようやく理解できた。私は、自分を明日へと突き動かす「嘘」を、生きるための「燃料」を奪われたのだ。たとえそれが叶わない夢だとしても、それこそが私の生命維持装置だった。

 

 

 土曜日、私は無意識のうちに始発の新幹線に飛び乗っていた。向かったのは、宮城県大河原町の白石川堤一目千本桜。残雪を抱いた蔵王連峰を背景にして、狂ったように咲き誇る桜のトンネルがあった。空はどこまでも青く、山は白く、花は一面の桃色だ。

 

 人混みの中に、あの白いマウンテンパーカーを見つけるのは難しくなかった。サキの背負うバックパックは、東京で見た時よりも三回りは大きくなっていて、もはや小さな軽自動車くらいの質量に見えた。彼は地面に足が数センチめり込むような、異様に苦しげな足取りで堤防を歩いていた。不思議なことに、周囲の観光客はその異常な大きさに気づいていない。煩悩を捨てたいと願わない者、あるいは煩悩が見えない者には、その重さもまた見えないのだ。

 

「サキさん!」

 

 人混みをかき分け、彼を呼び止めた。サキは振り返った。その顔は以前よりも透き通っていて、もはやこの世の物質ではないような危うさを帯びていた。

 

「……田中さん。せっかく完全な静寂を与えたのに。あんなに軽やかだったあなたの足で、なぜ、わざわざ不快な重力を求めて追ってきたのですか」

 

「返してほしいんです。あの、バカみたいで、あり得なくて、どうしようもない私の妄想を!」

 

 私は彼の前に立ちはだかり、肩で息をしながら叫んだ。

 

「今の私は、壊れた機械と同じです。仕事は早いし、ミスもしない。誰からも文句は言われない。でも、生きてる感じが全然しない! 佐伯くんを見て、胸が痛くならない私は、もう私じゃない。明日が来るのが怖い。何の期待も裏切りもない明日なんて、ただ死刑執行を待つ時間と同じじゃないですか!」

 

 サキは悲しげに、あるいは憐れむように、その無機質な唇を歪めた。

 

「見てください、このバッグを。ここには東北に入ってから吸い取った数万人分の『春への執着』が凝縮されています。誰もが今の自分を否定し、ここではないどこかへ行こうと足掻いている。その重みが、私の存在を消滅させようとしているんです。私はこれを、桜前線の終着地で捨てなければならない。そうしなければ、私は菩薩としての輪廻から外れ、永遠の虚無に沈んでしまう。あなたの小さな妄想も、もうこの濁流の中に混ざってしまって、見分けることは不可能です」

 

 彼の背後の空気が、どろりとした黒い霧みたいに揺らめいた。それは、彼が飲み込み続けてきた人々の欲望、身勝手な祈り、そして叶わないと知りながら捨てられない願いの澱だった。桜の花びらがその霧に触れると、一瞬で黒く変色し、朽ち果てていくのが見えた。

 

「それでも……それでも、返して! 私の重荷を返してよ!」

 

 私の声は、風に散る数万の花びらの中に消えていった。サキは答えず、再び歩き出した。その一歩ごとに、堤防の土が悲鳴を上げていた。

 

 

 桜前線は、さらに北へと加速した。私は会社に無期限の休暇届をメール一本で出した。事実上の退職勧告に近い冷たい返信が届いたけれど、今の私にはそんな「現実」なんてどうでもよかった。

 

 私はサキを追った。新幹線を乗り継ぎ、バスに揺られ、最後はレンタカーを走らせて、青森県の弘前公園へと辿り着いた。そこは、桜の死に場所だった。

 

 外堀を埋め尽くす「花筏」。水面が見えないほど敷き詰められた花びらたちは、美しい絨毯というより、散っていった数多の期待と絶望の墓標みたいに見えた。弘前の夜は、凛として冷たい。その冷気が、私の空っぽの胸を突き刺してくる。

 

 公園の最奥、古い枝垂れ桜の影に、サキは座り込んでいた。彼のバックパックは、もはや一つの巨大な心臓みたいに脈動し、どす黒く波打つ肉塊へと変貌していた。サキ自身の輪郭も陽炎のように揺れ、背景の桜の木が透けて見えている。彼はもはや、自身の抱える重力そのものに食い尽くされようとしていた。

 

「もう、限界です……。重すぎて、一歩も動けない」

 

 サキの声は、消え入りそうな羽音みたいだった。

 

「今から、このバッグを解放します。すべての煩悩は、この日本最北の地で塵となって消える。あなたの妄想も、他の誰かの醜い願いも、すべては

 無に帰る。それが、あなたたちが救われる唯一の道。この世から『苦しみ』という名の重力を取り除くのです」

 

「待って! そんなの救いじゃない! それはただの忘却よ! 人間から、人間であることを奪うだけじゃない!」

 

 私は叫び、彼に駆け寄った。そして、その巨大な、禍々しいほどに重いバックパックに素手で触れた。触れた瞬間、脳内に数万本のナイフを突き立てられたような衝撃が走った。数万人分の意識が、決壊した濁流となって私の中に流れ込んでくる。

 

 もっと愛されたい

 あいつを見返したい

 あの子を振り向かせたい

 宝くじを当てて人生をやり直したい

 もう一度だけ、死んだ母に会いたい

 奇跡よ、一度だけでいいから起これ

 

 それは、春という季節が人々に強制的に抱かせる、暴力的なほどの「生への執着」だった。あまりの重圧に膝が砕け、鼻の奥がツンとして、涙が止まらなくなった。なんて人間臭くて、無様で、滑稽で、それでいて愛おしい熱量なんだろう。みんな、こんなに重いものを背負いながら、平気な顔をして歩いていたのだ。

 

「サキさん、これを消さないで! これは、みんなが明日、目を開けるための燃料なんだから! これがなきゃ、みんなただの動く肉の塊になっちゃう! 絶望できるのは、期待があったから。痛いのは、そこに心が生きている証拠なのよ!」

 

「しかし、抱えていれば苦しみ続ける。期待は絶望の種子でしかない。人間は、この重みに耐えられるほど強くはない」

 

 サキが静かに叫んだ。その瞳に、初めて「苦悩」の色が浮かんでいた。

 

「苦しくてもいい! 空っぽでいるより、絶望している方がずっとマシよ! 私は、自分の重みを自分で背負いたい。たとえ背骨が折れたって、誰にも代わってもらいたくない! それが、私の人生なんだから!」

 

 私は狂ったようにバッグのジッパーに指をかけ、剥がれかけた爪を立てて力任せに引き開けた。

 

 その瞬間、天地がひっくり返るような轟音とともに、凄まじい突風が吹き荒れた。バッグの中から溢れ出したのは、黒い霧じゃなかった。それは、まばゆいばかりの、眼を焼くような黄金の光の粒だった。数万人の妄想、数万人の期待、数万人の「もしも」。弘前の夜空に、死んだはずの花筏が、重力に逆らうように一斉に舞い上がっていく。

 

 空を埋め尽くす光の花びらの渦。その中で、私は見つけた。佐伯くんとエレベーターで会う、あのささやかな、手に負えない妄想。宝くじが当たってカフェを開き、香ばしいコーヒーの匂いに包まれる、あの青臭い夢。私はそれらを二度と逃がさないように、両手でしっかりと、強く捕まえた。

 

「これは、私のもの……私の、大切な、重たい荷物よ!」

 

 胸の奥に、あの心地よい、火照るような微熱が戻ってくる。視界に色が、匂いが、音が戻る。世界が再び、残酷で美しい多面体として、私の前に立ち上がった。

 

 ふと見ると、サキの姿が淡い光に包まれて、空へと昇っていくのが見えた。バックパックは消え、彼の表情は、初めて人間みたいに和らいでいた。彼は羽のように軽い足取りで、光り輝く花びらの中に溶けていく。

 

 ……田中さん。あなたは、私よりもずっと強い。煩悩という名の地獄を、笑って歩けるほどに。その重みが、いつかあなたの翼になることを祈っています

 最後に、そんな声が聞こえた気がした。

 

 

 連休明けの月曜日。東京の桜はすっかり散り、木々は力強くて、少し厚かましいほどの鮮やかな緑の葉を茂らせていた。

 

 午後三時。私は新しい職場で、PCの画面に向かっている。前の会社は結局辞めた。あんな課長の下で、効率という名の死を待つ時間は、私の人生にはもう一秒たりとも必要なかったから。新しい仕事は、小さなデザイン事務所の事務だ。給料は少し下がったけれど、窓からは街路樹の緑が見え、ラジオからは誰かが選んだ少し古臭いラブソングが流れている。

 

 指先は軽やかに動くけれど、時折、ぴたりと止まる。

 

 もし、来年の花見に、私から佐伯くんを誘えたら。いや、まずは今度の週末、偶然を装って彼が通っているジムの近くを歩いてみるのはどうだろう。それとも、新しい靴を買って、彼に似合うような服を選んで……

 

 新しい妄想が次々と頭をもたげる。彼は驚くかもしれない。あるいは、もう彼女がいるかもしれない。最悪の場合、完全に不審者扱いされるかもしれない。けれど、その「最悪」を想像することすら、今の私にはたまらなく愛おしい。退屈な伝票入力の作業が、その可能性の影を含んで、万華鏡みたいに輝き始める。

 

 ふと、オフィスの窓から一筋の風が吹き込んだ。葉桜が五月の乾いた風に、誇らしげに揺れている。

 

 カバンの中には、弘前からの帰りに買った新しい宝くじが眠っている。当たるはずなんてない。数学的確率を見れば、紙屑に等しいのはわかってる。でも、もし当たったら、青森に小さな家を買って、毎年あの花筏を見に行こうか。いや、それとも……。

 

 私は静かに微笑み、再びキーボードに指を置いた。

 

 私の煩悩は、私だけのもの。誰にも預けず、誰にも消させず、私はこの愛すべき「重み」を一生背負って、次の季節へと歩いていく。

 

 世界は、どうしようもなく美しくて、そして重たい。私は今、その重さを噛み締めながら、確かに「私」として呼吸をしている。

 




最後までお読みいただき、ありがとうございました。

※本作は、人間と生成AIが共同で執筆した短編小説です。

制作工程は以下の通りです。

①原案・あらすじ:人間
②プロット作成:AI
③プロット修正:人間
④プロットから本文作成:AI
⑤本文修正:人間
④〜⑤を繰り返しながら、作品を完成させています。


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皆様からいただく一つひとつの反応が、次の短編を執筆するモチベーションになります。

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