是非見ていってくださいね!
上条当麻は、御坂美琴と歩いていた。
九月に入ったというのに、学園都市の午後はまだ夏を手放していなかった。
白く焼けた歩道。街路樹の葉を透かして落ちる強い日差し。頭上では風力発電用のプロペラが、暑さなど知らないような一定の速度で回っている。
コンビニの自動ドアが閉じると、それまで背中を冷やしていた店内の空気は、数歩も進まないうちに残暑へ押し潰された。
「あっつ……」
上条は買い物袋を左手に提げ、右手でシャツの胸元をあおいだ。
「九月だぞ。そろそろ季節というものを思い出してもいいんじゃないのか」
「季節に文句言ってどうすんのよ」
隣を歩く美琴が呆れたように言う。
常盤台中学の夏服。肩まで届く茶色い髪。手には、さっき買ったばかりの水色の氷菓子。
しゃり、と涼しげな音を立てて、美琴がその端をかじった。
「学園都市なら、街全体を冷房で包むくらいできそうなものですが」
「できてもやらないわよ。外へ捨てる熱はどうするの」
「そこを何とかするのが科学の力では?」
「科学を、困った時に唱える呪文みたいに使うな」
「では御坂さんの電撃で、あのプロペラを高速回転させて巨大扇風機に――」
「アンタを先に回してあげようか」
美琴の前髪で青白い火花が弾けた。
「待て待て待て! 会話の流れから人間を回転させるな!」
「効かないんだからいいでしょ」
「それは電撃を撃っていい理由にはならないと、上条さんは何度説明すればよろしいのでしょうか!」
反射的に上げた右手へ小さな電撃が触れ、乾いた音を残して消えた。
美琴は悪びれもせず、もう一口アイスをかじる。
「ほら。やっぱり何ともない」
「何ともないかどうかを確認するために撃つんじゃない!」
「はいはい」
「その返事、絶対に反省してないだろ」
上条は溜息をつき、買い物袋へ目を落とした。
安売りの卵。特売のもやし。食パン。夕食に使う一番安い麺。インデックスに見つかれば一瞬で消える甘い菓子。そして、自分用に一つだけ買ったカップアイス。
財布の中身を考えれば、これでも十分な贅沢だった。
「それ、溶けるわよ」
美琴が袋の中を覗き込む。
「分かってる。だが袋を持ったままでは食いづらい」
「右手が空いてるじゃない」
「この右手は上条さんの生命線ですので、アイス程度のために塞ぐわけにはいかんのです」
「街を歩くだけで何と戦うつもりよ」
「不幸」
「敵の範囲が広すぎるわ」
美琴は小さく息を吐いた。
「貸しなさい」
「何を?」
「袋。持ってあげるから、溶ける前に食べなさいよ」
上条は少しだけ目を丸くした。
「……御坂が、俺に親切だと?」
「やっぱりいい。勝手に液体にしてなさい」
「申し訳ありませんでした! 御坂さんの尊い善意に深い感謝を!」
「言い方がいちいち腹立つのよ、アンタは」
顔を背けながらも、美琴は差し出された袋を受け取った。
細い持ち手を肩へ掛け、空いた手でアイスを食べ続ける。袋の重みで、サマーベストの肩が少しだけ引かれた。
上条はカップアイスを取り出した。蓋を剥がすと、表面はもう柔らかい。木のスプーンが抵抗もなく沈んだ。
「ありがとな」
「別に。道へ垂らされたら迷惑だから」
「あくまで街の美化活動であって、上条さんを気遣ったわけではないと」
「当然でしょ」
「では、このご厚意は第七学区の環境保全事業として――」
「一口で全部食べさせるわよ」
「それは普通に喉へ詰まる!」
美琴が笑った。
大きな声ではない。口元を少し緩め、肩を揺らしただけだった。
その歩調は上条と合っていた。
早すぎず、遅すぎず。
二人はコンビニ前の広い歩道を抜け、低い商業施設と並木の間を進んだ。
学生たちが行き交っている。部活動帰りらしい集団。買い物を終えた親子。携帯端末を見ながら歩く男子学生。小型の清掃ロボットを追い越していく子ども。
何も特別ではなかった。
「そういや御坂。お前、何でこの辺にいたんだ?」
「買い物。常盤台の生徒だってコンビニくらい来るわよ」
「値札を見ずに高級百貨店で買うものかと」
「偏見」
「でも常盤台だろ?」
「常盤台の全員が大金持ちなわけじゃないわよ。そういう子が多いのは否定しないけど」
「ほら見ろ」
「何でアンタが勝ち誇るのよ」
美琴は残ったアイスをかじり、包みを小さく畳んだ。歩道脇のごみ箱へ軽く投げると、薄い袋は細い投入口へ吸い込まれた。
「それより、補習は終わったの?」
「終わりましたとも」
「本当に?」
「教師から『今日はもう帰れ』という、ありがたいお言葉をいただきました」
「追い出されたんじゃない」
「なぜそう思う」
「アンタだから」
「人を根拠にするな!」
「で、何を壊したの」
「何も壊してません。隣の席で倒れた試験管が別の器具へ当たり、そこから連鎖的に悲劇が発生しただけです」
「十分。聞いた私が悪かった」
「待て。最後まで聞けば、上条さんの無実が――」
「アンタが直接触ってないことだけは分かったわよ」
「そこが最重要なんですけど!?」
また、美琴が笑った。
「何だよ」
「相変わらずだなって」
「御坂さんの言葉には、時々悪意が包装もされずに入っている気がする」
「日頃の行いじゃない?」
「それで全部片付けるのやめない?」
歩道の上で、薄いビニールが擦れる音がした。
上条は足を止めた。
自分の買い物袋が、白い路面へ落ちている。
持ち手を拾い、左手へ掛け直した。中身が大きく崩れていないことだけ確かめる。
自分の買った物だった。
だから、自分が持つ。
それ以上に考えることは何もなかった。
上条は柔らかくなったアイスを急いで口へ運びながら、歩道を進んだ。
通り過ぎた自動運転バスが、熱を含んだ風を押し出した。
「うわ、熱っ」
口から言葉が漏れる。
誰へ向けたものでもない。
道の中央では、何人かの通行人が緩やかに進路を変えていた。
制服姿の男子学生が、端末から顔を上げないまま右へ膨らむ。子どもの手を引いた女は、足元の何かをまたぐように片脚を高く上げた。清掃ロボットは一度停止し、短い電子音を鳴らしてから迂回する。
上条も半歩だけ外へ寄った。
左足をいつもより高く上げる。
買い物袋を身体へ引き寄せ、何かへ触れないよう歩幅を変えた。
理由を考える必要はなかった。
すぐ近くで、湿った空気が細く引っ掛かるような音がした。
自動ドアか、清掃機の吸気音だろう。
そういう意味だけを受け取り、上条は通り過ぎた。
カップの底に残ったアイスは、もうほとんど液体だった。
「……負けた」
何に、と返す声はない。
「残暑に」
上条は一人で結論を出し、少し先のごみ箱へ空のカップと木のスプーンを捨てた。
買い物袋を持ち直す。
「それでさ、美琴――」
左へ顔を向けかけた。
動作が途中で止まった。
「……美琴?」
自分の口から出た名前に、自分で引っ掛かった。
御坂美琴。
知っている名前だ。当然だ。
だが、なぜ今、その名を呼ぼうとした。
誰かへ話を返そうとしていたような気がする。左へ顔を向ける準備だけが、身体に残っている。
そこに誰かがいた、という考えまでは形にならない。
代わりに、左手の買い物袋が妙に重く感じられた。
いつから自分が持っていたのか。
疑問が言葉になる、その直前だった。
「大量出血だ! 誰か、救急へ連絡してくれ!」
男の声が飛び込んできた。
開いた自動ドアの前で、半袖のシャツを着た大柄な男が立ち尽くしている。
男の視線は路面の一点へ固定されていた。
次の瞬間には、手にしていた端末を取り出しながら走り出していた。
上条の足も、もう動いていた。
名前への疑問も、袋の重さも、その場へ置き去りにして走る。
「通してくれ!」
立ち止まりかけた人々の間へ身体を滑り込ませる。
誰が倒れた。
何が起きた。
考えるより先に、声のした方へ向かった。
最初に見えたのは、路面へ広がる赤だった。
白く焼けた歩道の上を、粘ついた液体が不規則に這っている。日差しを反射する場所だけが黒く光っていた。
その周囲を、人が歩いている。
全員が赤いものを避けている。
けれど、誰もその中心を見ていない。
「どいてくれ!」
上条は人の間を押し分けた。
靴底が滑る。
生温かいものが靴の側面へ跳ねた。
鼻の奥へ、鉄に似た臭いが入る。
血だ。
男が叫んだ言葉と、赤い色と、臭いが一つにつながる。
その瞬間、赤の中心にあったものへ意味が戻った。
人が倒れている。
少女だった。
仰向けに近い姿勢で、下半身だけがわずかに捻れている。片脚は力なく外へ投げ出され、左腕は身体から離れて伸びていた。
白い半袖のブラウス。
薄い茶色のサマーベスト。
灰色のプリーツスカート。
常盤台中学の制服。
腹部の布地が斜めに大きく裂けていた。
傷は深く、本来なら身体の内側にあるはずの赤黒い組織が露出している。血は制服を濡らし、脇腹から背中の下へ回り、そこから歩道へ広がっていた。
肩の周りへ散った茶色い髪。
色を失った頬。
閉じかけた瞼。
顔。
「――御坂?」
上条の声が、喉の奥で潰れた。
少女の瞼がわずかに動いた。
胸が、浅く上下している。
生きている。
まだ。
上条の手から買い物袋が落ちた。
卵のパックが路面へぶつかり、薄い殻の割れる音がした。
その音で、最初の記憶が戻った。
――貸しなさいよ。
美琴の声。
袋を渡した時、左手から重みが抜けた感覚。
細い持ち手を肩へ掛ける美琴の動作。
袋の重みで少しだけ引かれたサマーベスト。
美琴が持っていた。
自分の代わりに。
ついさっきまで。
上条は足元の袋を見る。
美琴が持っていた袋を、さっきまで自分が持って歩いていた。
その間を考えるより先に、路面へ屈んだ自分の動作が戻った。
袋が落ちていた。
自分の物だから拾った。
なぜ落ちたのかも、誰が持っていたのかも考えなかった。
その時は、それで何一つおかしくなかった。
袋がどうして路面にあったのか。その問いは形になり切らないまま、目の前の美琴の呼吸に押し流された。
「違う」
上条の呼吸が震える。
袋より前の記憶がつながる。
美琴がアイスを食べていた。
補習の話をした。
美琴が笑った。
同じ歩調で、左側を歩いていた。
そこまでは、はっきりしている。
その先を追おうとすると、記憶は何の抵抗もなく、袋を拾った自分へ続いてしまう。
美琴が消えた場面はない。
誰かが連れ去る姿もない。
叫びも、攻撃も、凶器もない。
暗転したような空白ですらなかった。
会話の次に、自分が袋を持って歩いている。
本来つながらない二つの場面が、それまで当たり前の一続きとして収まっていた。
そして、もう一つ。
上条の右脚が、勝手に半歩外へずれた感覚を思い出す。
何かを避けた。
買い物袋を身体へ引き寄せた。
足元に伸びていた腕へ当たらないように。
倒れていた人を踏まないように。
茶色い髪を見た。
灰色のスカートを見た。
赤い水溜まりを見た。
裂けた腹部も、浅く動く胸も、視界へ入っていた。
湿った呼吸音まで聞いていた。
それを自動ドアか清掃機の音だと思い、歩き去った。
今、目の前にある傷がどう作られたのかは分からない。
けれど、傷ついた後の美琴を見たことだけは分かる。
「俺は……」
上条の膝から力が抜けた。
血の手前へ落ちるようにしゃがみ込む。
「御坂!」
肩へ右手を伸ばす。
触れた。
何かが弾ける音はしなかった。
傷は閉じない。流れた血も戻らない。
ただ、冷え始めた皮膚の感触だけが手のひらへ伝わった。
「聞こえるか! 御坂、俺だ!」
瞼がかすかに震える。
焦点の合わない目が、ほんの少しだけ開いた。
上条を見たのかどうかは分からない。
唇が動く。
音にならない息が漏れた。
「喋るな。いい、喋らなくていい!」
「少年、身体を起こすな!」
先ほど叫んだ男が、上条の隣へ膝をついた。
血の量。傷。顔色。胸の動き。
視線が短く、正確に走る。
「医師の加藤だ。君、彼女の名前は」
「御坂美琴! 十四歳、中学生です!」
「意識は?」
「今、目が……でも返事がなくて」
加藤は美琴の首へ指を当て、呼吸を確かめた。瞼を持ち上げ、瞳孔を見る。
「頸動脈、微弱。呼吸浅い。出血性ショック」
低く言ってから、周囲へ顔を上げる。
「そこの青い端末を持っている君! 救急へ通報! 第七学区、商業施設脇の歩道。十四歳女性、腹部に重い開放性損傷、大量出血。位置情報も送れ!」
指名された男子学生が、自分を指差した。
「ぼ、僕ですか」
「君だ。今すぐ!」
男子学生の指が端末へ触れる。
けれど画面の上で止まった。
彼の視線が、美琴の身体へ落ちる。
「……血?」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いたようだった。
右脚が一歩後ろへ下がる。
何かを避ける動作。
その姿勢のまま、男子学生は自分の靴底を見た。
赤い跡が付いている。
「俺、さっき……ここを通った?」
「今は電話だ!」
加藤の声で身体が跳ねた。
男子学生は震える手で救急回線を開く。
「繋がりました!」
「スピーカーにしろ」
機械音声が位置情報を確認する。
加藤は応答を続けながら、上条へ向き直った。
「傷から出ているものを押し戻すな。彼女を動かさない。出血している周囲を、制服の上から両手で面として押さえられるか」
上条は自分の手を見た。
震えている。
「できます」
「俺の指す位置だ。そこからずらすな。強く一点へ指を入れるな」
加藤の指示に従い、破れた制服の上から傷の周囲へ両手を当てる。
温かい血が、すぐに指の間へ滲んだ。
「っ……」
美琴の身体が小さく跳ねる。
「悪い! 御坂、悪い。でも、もう少しだけ耐えてくれ!」
「圧はそのまま。手を離すな」
「はい!」
押さえても、血は止まらなかった。
手のひらの下から、温度が流れ続ける。
それでも脈はある。
まだ生きている。
「御坂。聞こえるか」
上条は呼び続けた。
「俺だ。上条だ。さっきまで一緒に歩いてただろ。コンビニを出て、アイス食って、俺の補習の話して」
言葉にするたび、失われていたのではない記憶が意味を取り戻す。
美琴の笑い方。
肩へ掛かった買い物袋。
隣の足音。
その後に、袋を拾う自分。
負傷した美琴を避ける自分。
攻撃の場面だけは、どこにもない。
「袋、落としたぞ。卵も割れた。お前が持つって言ったんだから、責任取れよ」
何を言っているのか、自分でも分からなかった。
いつもの美琴なら、そんな責任まで押しつけるなと怒るだろう。
怒ってくれればいい。
美琴の唇が、ほんの少し動いた。
上条は顔を近づける。
「何だ?」
「……くろ……」
細い空気音。
「黒?」
「……こ」
そこで声が途切れた。
白井黒子。
「分かった。白井には俺が連絡する。絶対にする。だから今は喋るな」
美琴の瞼が震えた。
返事の代わりだったのかは分からない。
周囲では、別の記憶も遅れて形を取り始めていた。
子どもの手を引いた女が、自分の足元を見下ろす。
「私、この子の手を……またいだ?」
美琴の伸びた左腕を見る。
女は息を呑み、子どもを胸元へ抱き寄せた。
店員が自動ドアの前で立ち尽くしている。
「外を見た。女の子が倒れてた。見たのに、俺……店へ戻った」
老人は杖の先に付いた赤いものを見つめた。
「避けた。わしは、あれを避けて歩いた」
一人ずつだった。
足の動き。
視線の向き。
聞こえていた呼吸。
見えていた血。
ばらばらの事実が戻り、最後に意味が追いつく。
「ずっと、ここにいたの?」
「見えてた」
「じゃあ、何で誰も――」
「分からない」
「俺も横を通った」
「救急車はまだなの!?」
悲鳴と泣き声が、遅れて歩道へ広がっていく。
「下がってくれ!」
加藤が声を張った。
「人垣を作るな! 救急車の導線を空けろ! そこの二人は車道側へ出て誘導! 店員さん、清潔なタオルと使い捨て手袋があれば持ってきてくれ!」
指示を与えられた人間から動き始める。
上条は美琴の腹部から手を離さなかった。
血は止まらない。
両手は赤く染まり、手首を越えて腕へ流れた。
それでも美琴の胸は、かすかに上下している。
「御坂」
呼ぶ。
「寝るな」
呼ぶ。
「白井には自分で説明しろ。俺にやらせたら、絶対どこか間違えるからな」
呼ぶ。
返事はない。
「だから、起きろよ」
遠くからサイレンが聞こえた。
高く、低く。
建物の壁へ反射しながら、九月の残暑を切り裂くように近づいてくる。
上条の足元には、割れた卵と、口の開いた買い物袋が残っていた。
美琴が肩へ掛けていた袋。
上条が路面から拾った袋。
けれど今は、問いを追う時間ではない。
「御坂」
上条は、もう一度だけ名前を呼んだ。
サイレンが、すぐそこまで来ていた。