上条当麻は、街中で血を流して倒れている御坂美琴を発見した。
周囲の人々は、その異常な光景を目にしていながら、誰一人として気づいていなかった。
上条は美琴を助けるため、駆けつけた救急隊とともに病院へ向かう。
サイレンが近づいてくる。
高く、低く。
建物の壁へ反射しながら、夏の街を切り裂いていく。
「来たぞ!」
車道側へ走っていた男子学生が叫んだ。
数秒後、白い救急車が交差点を曲がった。
赤色灯が、商業施設のガラスへ明滅する。
歩道の端で速度を落とし、進路を空けた人々の前へ斜めに停車した。
後部扉が開く。
救急隊員が三人。
担架。
大型の救急鞄。
酸素ボンベ。
それらが一度に歩道へ降りてくる。
「十四歳女性! 腹部開放性損傷、大量出血! 意識反応低下、呼吸浅薄、頸動脈微弱!」
加藤が立ち上がらないまま声を張った。
「受傷機転不明! 発見時から圧迫止血継続中!」
「了解!」
先頭の救急隊員が、血溜まりの手前で膝をつく。
上条の両手。
その下にある破れた制服。
美琴の顔。
胸の動き。
視線が順番に走った。
「君、今から代わる。合図するまで手を離さないで」
「はい」
「圧迫位置はそのまま。こっちのガーゼを上から重ねる」
救急隊員が厚い布を取り出した。
傷そのものを直視しないようにしながら、上条の手の下へ滑り込ませる。
「三、二、一。手を上げて」
上条は両手を浮かせた。
その瞬間、救急隊員が同じ場所へ圧を掛ける。
わずかな空白も作らない。
もう一人が美琴の頭側へ回り、顎を持ち上げた。
「呼吸、弱い。酸素」
透明なマスクが口元へ当てられる。
酸素ボンベの栓が開かれた。
乾いた空気の流れる音がする。
美琴の腕へ血圧計が巻かれる。
指先へ小さな測定器が挟まれる。
胸へ電極が貼り付けられた。
機械音が鳴った。
「血圧測定不能」
「橈骨触れません。頸動脈、微弱」
「静脈路確保します」
救急隊員の手が動く。
迷いがない。
速い。
だが、誰一人として慌ててはいなかった。
上条だけが、その場から取り残されていた。
両手を持ち上げた姿勢のまま。
もう傷を押さえる必要はない。
それでも腕を下ろせなかった。
指の間から血が滴る。
手首を伝い、肘から落ちる。
「少年」
加藤の声だった。
「一度、下がれ」
「でも」
「処置の邪魔になる」
上条は美琴を見た。
酸素マスクに覆われた口。
閉じかけた瞼。
力の抜けた右手。
ついさっきまで、その手が買い物袋を持っていた。
自分の代わりに。
「……御坂」
返事はなかった。
「大丈夫だ」
加藤が言った。
慰めるような声ではない。
事実を保証する声でもない。
「今は、俺たちが引き継ぐ」
上条はようやく腕を下ろした。
膝へ力を入れる。
立ち上がろうとして、足が滑った。
靴底に付いた血が、白い歩道へ赤い線を引く。
加藤が肩を支えた。
「ゆっくりでいい」
「俺も行きます」
「何?」
「病院。俺も一緒に」
「分かった。だが先に、救急隊の質問へ答えろ」
美琴の身体が、担架の上へ移される。
腹部には厚いガーゼが重ねられ、その上から固定具が巻かれていた。
裂けた制服の隙間は覆われている。
もう傷は見えない。
だが、白かった布は見る間に赤く染まっていった。
「患者との関係は?」
救急隊員が上条へ訊いた。
「友達です」
「倒れた瞬間は見た?」
「……見てません」
「発見した時刻は?」
「分からない。さっき、声が聞こえて、それで走ってきて」
「それ以前にこの場所は通った?」
喉が詰まった。
上条は足元を見る。
血に濡れた靴。
割れた卵。
落ちた買い物袋。
道の中央を避けて歩いた、自分の身体。
「通りました」
「そのとき、彼女は?」
「いました」
答えた瞬間、胃の奥が縮んだ。
「ここに倒れてた」
救急隊員の手が止まりかけた。
「見たのか?」
「見てた」
声が震えた。
「見てたはずなんです。俺だけじゃない。みんなここを通ってた。避けてた。血も、御坂も、見てたのに」
周囲が静かになった。
悲鳴も。
泣き声も。
端末を操作する音も。
完全には消えていない。
だが、誰もが上条の言葉を聞いていた。
「なのに、誰も助けなかった」
女が子どもの手を強く握った。
男子学生が、自分の赤い靴底を見た。
店員は自動ドアの前で立ち尽くしていた。
「違う」
誰かが呟いた。
「助けなかったんじゃない」
別の誰かが言った。
「分からなかったんだ」
「何が?」
「分からない」
「見えてたのに」
「見えてたから、避けたのに」
「じゃあ、どうして――」
「全員、下がってください!」
駆けつけた警備員が声を上げた。
制服姿の成人が数人。
現場を囲むように規制用テープを伸ばしていく。
「これより現場を封鎖します! 通行人はその場を離れず、係員の指示に従ってください! 負傷者に接触した者、現場付近を通過した者は、個別に事情を確認します!」
「救急、搬送します!」
担架の車輪が鳴った。
美琴が救急車へ運ばれていく。
上条はその後を追った。
後部扉へ手を掛けたところで、救急隊員に止められる。
「同乗者は一人までだ。君は血液へ直接触れている。まず手を洗浄する」
「そんなの後でいい!」
「後じゃ駄目だ」
「俺は御坂のそばに――」
「上条君」
加藤が名を呼んだ。
いつ教えたのか、と一瞬思った。
先ほど、自分で上条だと名乗っていた。
そんなことすら頭から抜け落ちている。
「俺が同乗する」
「でも」
「彼女の状態を搬送先へ引き継げる医師が必要だ」
正しい。
上条より、加藤が乗るべきだ。
考えるまでもない。
それでも、足が救急車から離れなかった。
「置いていけない」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「御坂を一人にできない」
加藤は上条を見た。
救急車の中では処置が続いている。
測定機器の警告音。
救急隊員の短い指示。
酸素の流れる音。
「君も乗れ」
加藤が言った。
「端へ座って、何にも触るな。質問されたら答えろ。処置中は声を掛けられるまで口を挟むな」
「……はい」
上条は救急車へ乗り込んだ。
壁際の狭い座席へ身体を押し込む。
目の前に美琴がいる。
担架へ固定されている。
制服。
茶色い髪。
酸素マスク。
赤く染まった腹部。
見慣れたものと、見たことのないものが、一人の少女の身体へ同時に存在していた。
「出します!」
扉が閉まった。
外の光が遮られる。
車体が大きく揺れ、走り出す。
「血圧、依然測定不能」
「頸動脈さらに弱い」
「意識レベル低下」
「御坂さん、聞こえますか。目を開けてください」
美琴は動かない。
「御坂」
上条が呼んだ。
救急隊員は止めなかった。
「白井には連絡する。絶対にするから」
約束した。
美琴から返事はない。
救急車が曲がる。
遠心力で身体が傾く。
上条は壁の手すりを握った。
右手だった。
何かを思い出す。
血に濡れた右手。
美琴へ触れた右手。
異能なら何でも打ち消すはずの右手。
傷へ触れる直前まで、確かに使っていた。
それなのに何も変わらなかった。
美琴は見えるようになった。
だが、傷は消えなかった。
流れた血も戻らなかった。
能力の影響を受けていたとしても。
どれだけ異常な力が関わっていたとしても。
起きてしまった結果まで、幻想ではなかった。
「心拍低下!」
機械音の間隔が変わった。
救急隊員の一人が、美琴の首へ指を当てる。
「頸動脈――触れない」
空気が切り替わった。
「心停止確認。胸骨圧迫開始」
救急隊員が美琴の胸へ両手を重ねた。
身体が一定の間隔で沈む。
「換気継続」
「アドレナリン準備」
「搬送先まで何分!」
「四分!」
胸が押される。
戻る。
押される。
戻る。
美琴の頭が、僅かに揺れた。
「何して……」
上条の口から声が漏れた。
分かっている。
心臓が止まった。
だから動かしている。
分かっているのに、理解したくなかった。
「御坂」
返事はない。
「御坂!」
「上条君」
加藤が視線を向けた。
「座っていろ」
「でも、心臓が」
「蘇生している」
「止まったんですか」
加藤は答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
「さっきまで動いてた」
上条の声だけが、場違いなほど遅かった。
「俺が押さえてた時は、まだ」
「分かっている」
「まだ生きてたんだ」
「分かっている!」
初めて、加藤の声が強くなった。
上条は口を閉じた。
加藤はすぐに美琴へ向き直る。
「胸骨圧迫交代。俺がやる」
救急隊員と位置を入れ替える。
大きな身体を担架の横へ寄せ、両腕を垂直に伸ばした。
押す。
戻す。
一定の速度で。
体重を掛けても、美琴の身体が担架からずれないよう正確に。
車内には、機械音と圧迫の音しかなかった。
上条は自分の膝を握った。
血の付いた指が、制服のズボンへ赤い跡を残す。
何もできない。
呼ぶことも。
押さえることも。
右手で触れることも。
今は、何一つ役に立たない。
救急車が急停止した。
「到着!」
後部扉が開く。
白い照明。
待機していた医療者たち。
担架が外へ引き出される。
「十四歳女性、腹部開放性損傷による大量出血! 搬送中に心停止、蘇生開始から三分!」
「処置室一番!」
「輸血準備! 緊急開腹の可能性あり!」
人の声が飛び交う。
美琴が遠ざかる。
上条も降りようとした。
足がもつれ、車体の縁へ肩をぶつけた。
「待ってくれ!」
担架の周囲を囲んだ医療者は振り返らない。
自動扉が開く。
美琴が、その向こうへ運ばれていく。
「御坂!」
扉が閉じた。
白い板が二枚。
中央で重なった。
上条は閉ざされた扉の前に立っていた。
血に染まった両手を下げたまま。
中から、短い指示が聞こえる。
蘇生。
輸血。
気道。
開胸。
聞いたことのある言葉もあった。
意味を知らない言葉もあった。
そのすべてが、扉一枚の向こうで美琴の身体に行われている。
「上条君」
後ろから加藤が来た。
「手を洗おう」
「ここにいます」
「そのままでは感染の危険がある」
「ここにいます」
同じ言葉を繰り返した。
加藤は数秒黙った。
「では、ここで洗う」
看護師から洗浄液とタオルを受け取る。
加藤は上条の右手を取った。
透明な液体を掛ける。
乾き始めた血が溶け、赤い筋になって床へ落ちた。
指の間。
爪の奥。
手首。
何度洗っても、赤い色が残っているように見えた。
「自分でできます」
「そうか」
上条は洗浄液を受け取った。
左手へ掛ける。
こする。
右手へ掛ける。
こする。
美琴の血が薄くなる。
皮膚の色が戻る。
それが、ひどく間違ったことに思えた。
自分だけが元へ戻っていく。
歩道を歩いていた時と同じ手になる。
美琴は扉の向こうで、元へ戻れないかもしれないのに。
「白井」
上条は顔を上げた。
「連絡しないと」
血の近くへ落とした携帯端末は、現場に残したままだ。
「端末を貸してください」
「警備員から常盤台へ連絡は入っているはずだ」
「俺から言うって約束した」
「今の君が説明できるか?」
「できます」
即答した。
声は震えていた。
「しないといけない」
加藤は自分の端末を差し出した。
「番号は分かるか?」
「……分かりません」
上条は画面を見た。
白井黒子の番号を登録した記憶はない。
普段なら、美琴を通して連絡すれば済む。
美琴。
その名前だけで、また息が詰まった。
「風紀委員の第一七七支部へ繋いでもらう」
加藤が端末を操作した。
数回の呼び出し音。
『はい。こちら風紀委員第一七七支部です』
少女の声だった。
少し幼く、柔らかい。
「救急外科医の加藤則祐です。白井黒子さんへ取り次いでください。御坂美琴さんの件です」
『御坂さんの?』
声の調子が変わった。
『少々お待ちください』
保留音。
上条は扉を見つめる。
中から聞こえる声。
「波形確認!」
「胸骨圧迫継続!」
「反応なし!」
数秒後。
『もしもし。白井黒子ですの』
聞き慣れた声だった。
いつもの丁寧な口調。
少しだけ警戒している。
『お姉様の件と伺いましたが、どのような――』
加藤が端末を上条へ渡した。
画面を耳へ近づける。
「白井」
沈黙。
『……類人猿?』
いつもなら、そこで何か返した。
誰が類人猿だ。
お前こそ何だ。
そんな軽口が、勝手に口から出るはずだった。
何も出なかった。
『どうしてあなたが、その方の端末から』
「御坂が」
声が裏返った。
喉を押さえる。
言い直す。
「御坂が、怪我した」
『怪我?』
「腹を切られて」
言葉にすると、あの傷が見えた。
白いブラウス。
開いた腹部。
指の間から溢れる血。
「今、病院で」
『お待ちなさい』
白井の声が低くなる。
『どちらの病院ですの』
加藤から施設名を聞き、そのまま伝える。
『お姉様の容体は?』
「今、処置してる」
『容体を聞いておりますの』
「心臓が止まった」
電話の向こうから、音が消えた。
「救急車の中で止まって、今、蘇生してる」
『……嘘』
「白井」
『そのような冗談を今すぐおやめなさい』
「冗談じゃない」
『お姉様が、腹部を切られた? 心停止? あなたは何を――』
「俺も分からない!」
声が廊下へ響いた。
「分からないんだよ! 誰がやったのかも、どうやったのかも! 俺は御坂と歩いてた。さっきまで隣にいたのに、気づいたらいなくて、でも本当はずっとそこに倒れてて!」
言葉が止まらない。
「俺も見てたんだ。御坂が倒れてるのを見ながら横を通った。血も踏んだ。息も聞いてた。それなのに気づかなかった!」
『何を、言って』
「助けられたかもしれないのに」
扉の向こうで、機械音が続く。
「もっと早く気づいてたら」
『黙りなさい』
白井の声だった。
小さい。
だが、鋭かった。
『それ以上、今ここで勝手なことを言わないでくださいまし』
「白井」
『そこにいなさい』
呼吸音が聞こえる。
乱れている。
それでも、白井は一語ずつ区切った。
『わたくしが行きます』
通話が切れた。
上条は端末を耳へ当てたまま動かなかった。
加藤が手を伸ばす。
端末を受け取る。
「座ろう」
廊下の壁際に、硬い長椅子があった。
上条はそこへ座った。
背中を預けることはできなかった。
両肘を膝へ乗せる。
洗ったはずの手を見つめる。
まだ赤い。
そう見える。
時間が流れた。
何分か。
何十分か。
時計を見る発想すらなかった。
扉の向こうから、人が出入りする。
血液製剤を持った看護師。
器具を運ぶ技師。
無言で入っていく医師。
誰も上条を見ない。
それでよかった。
自分へ言葉を掛ける時間があるなら、美琴へ使ってほしかった。
廊下の向こうで、空気が鳴った。
音ではない。
一瞬だけ空間が歪んだような感覚。
次の瞬間、白井黒子が立っていた。
常盤台中学の制服。
腕には風紀委員の腕章。
呼吸が荒い。
転移を繰り返してきたのか、額に汗が浮いている。
白井は上条を見た。
血の付いた服。
濡れた両手。
閉ざされた処置室の扉。
順番に見る。
「お姉様は」
上条は立ち上がった。
「中だ」
「いつから」
「分からない」
「何時に発見しましたの」
「分からない」
「最後に正常な状態を確認したのは」
「一緒に歩いてた」
「ですから、何時ですの!」
「分からねえんだよ!」
白井の肩が跳ねた。
上条はすぐに口を閉じる。
「……悪い」
白井は何も言わなかった。
扉へ近づく。
手を伸ばす。
触れる直前で止めた。
風紀委員だ。
現場へ勝手に入ってはいけないことは理解している。
何より、中では美琴を生かすための処置が続いている。
自分が入れば邪魔になる。
分かっている。
分かっているからこそ、白井の右手は行き場をなくした。
「どうして」
扉へ向けたまま、白井が言った。
「お姉様が、このような場所に」
上条は答えられない。
「あなたと一緒だったのでしょう」
「……ああ」
「では、なぜ」
白井が振り返る。
赤い瞳が、上条を捉えた。
「なぜ、あなたは無事なんですの」
言葉が刺さった。
白井自身も、口にした直後に表情を変えた。
「……違います」
首を振る。
「今のは」
「その通りだ」
「違うと申し上げていますの!」
「俺が隣にいた」
上条は逃げなかった。
「俺がいたのに、御坂はああなった」
「黙りなさい!」
「俺は一回、御坂の横を通り過ぎた!」
白井の目が見開かれる。
「倒れてるのを見て、避けて、そのまま歩いた。周りのヤツらも同じだった。全員見てた。なのに誰も、御坂が怪我してるって分からなかった」
「認識干渉……?」
「分からない」
「精神系能力者ですの?」
「分からない」
「能力を使われた痕跡は」
「分からない!」
上条の声が廊下へ響く。
白井は唇を噛んだ。
「何も分からない」
上条は繰り返した。
「誰がやったかも。どうやって御坂を傷つけたかも。どうして俺たちが気づけなかったかも」
それだけが、確かな事実だった。
目の前に結果だけがある。
御坂美琴が傷つけられたという結果。
その前にあるはずの原因が、どこにもない。
足音が近づいた。
加藤が処置室から出てきた。
上条と白井が同時に顔を上げる。
白衣の胸元に血が付いていた。
手袋は外されている。
加藤は二人を見た。
その顔を見た瞬間。
上条には分かってしまった。
医師が口を開くより早く。
扉の向こうから、もう機械音が聞こえていなかった。
白井が一歩前へ出た。
「お姉様は」
加藤は答えなかった。
ほんの一秒。
言葉を選ぶための時間だった。
だが、その一秒が。
何よりも残酷だった。
もしよければコメントや評価をもらえたら嬉しいな