とある学園都市の未解決事件簿   作:コーヒータグ

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【前回までのあらすじ】

重傷を負った御坂美琴は、上条当麻とともに病院へ搬送された。

処置を待つ上条は白井黒子へ連絡し、駆けつけた黒子とともに、手術室の前で美琴の無事を待つ。

やがて、二人の前に医師が現れた。


第3話、死亡確認

 

加藤則祐は、一秒だけ言葉を選んだ。

 

その一秒が。

 

何よりも残酷だった。

 

「……助けられなかった」

 

処置室の前に、低い声が落ちた。

 

白井黒子は、すぐには反応しなかった。

 

加藤の口が動いたことは分かった。声も確かに聞こえた。聞き間違えるほど遠くにいたわけでも、周囲が騒がしかったわけでもない。

 

むしろ廊下は、異様なほど静かだった。

 

少し前まで扉の向こうから聞こえていた足音も、器具の触れ合う音も、医療者の短い指示も止まっている。処置中を示していた赤い表示灯も消えていた。

 

だからこそ、聞こえた。

 

ただ。

 

意味だけが届かなかった。

 

「……何を」

 

黒子の唇から、息のような声が漏れた。

 

加藤は目を逸らさなかった。

 

額には汗が残り、白衣の袖には血が付いている。処置室から出てきたばかりの医師の顔だった。

 

疲労も。

 

悔しさも。

 

隠し切れてはいない。

 

それでも、言わなければならないことを他人へ押し付けることはしなかった。

 

「御坂美琴さんは、先ほど死亡が確認された」

 

死亡。

 

確認。

 

御坂美琴。

 

黒子は、その三つの言葉を知っている。

 

風紀委員として、死亡事故の報告書を読んだこともあった。ニュースで聞いたこともある。どういう状態を指す言葉なのかも理解している。

 

けれど、それらを一つの文章へ並べて、その中央に御坂美琴の名前を置くことだけはできなかった。

 

「確認、とは?」

 

聞き返した声は、不自然なほど整っていた。

 

「どういった意味ですの」

 

加藤の眉がわずかに動く。

 

「心拍と呼吸が戻らなかった。蘇生処置を続けたが、再開させることができなかった」

 

「でしたら、もう一度」

 

「白井さん」

 

「もう一度、お願いしますの」

 

黒子は、加藤の声を遮った。

 

「投薬でも電気刺激でも、まだ試せる方法が残っているのではありませんの? お姉様は一般的な能力者ではありません。生体電気を自力で操作できる可能性もございますし、能力によって心拍が正確に検出できていない可能性も――」

 

「能力による測定異常の可能性も確認した」

 

「では、別の施設へ移してくださいまし」

 

「搬送できる状態ではない」

 

「設備が足りないのでしたら、こちらへ運ばせればよろしいでしょう。常盤台へ連絡すれば、能力開発機関にも――」

 

「白井さん」

 

加藤は声を荒らげなかった。

 

ただ、黒子が言葉の先へ逃げ続けるのを止めるために、もう一度名前を呼んだ。

 

黒子の口が閉じる。

 

「心臓を、もう一度動かすことができなかった」

 

その言葉で。

 

黒子の視線が、加藤から外れた。

 

閉じた処置室の扉へ向かう。

 

扉の向こうには御坂美琴がいる。

 

ほんの数時間前まで、歩き、喋り、怒り、笑っていた少女がいる。

 

けれど。

 

その心臓はもう動いていない。

 

「そんな……」

 

黒子の口から、初めて情報確認ではない言葉が落ちた。

 

「そんなはず、ありませんの」

 

加藤は否定しなかった。

 

慰めるための嘘も言わなかった。

 

その沈黙だけで、黒子には十分だった。

 

黒子は扉へ近づいた。

 

一歩。

 

さらに一歩。

 

空間移動は使わなかった。

 

使うという発想そのものが、今は浮かばなかった。

 

取っ手へ手を伸ばす。

 

指先が触れる寸前で止まる。

 

開ければいい。

 

中へ入って、顔を見ればいい。

 

名前を呼べば、いつものように返事をするかもしれない。

 

何を勝手に殺しているのよ、と怒るかもしれない。

 

大げさなんだから、と呆れた顔で笑うかもしれない。

 

「お姉様」

 

黒子が呼んだ。

 

返事はない。

 

「お姉様……?」

 

もう一度。

 

先ほどより少しだけ大きく呼んだ。

 

扉の向こうは静かなままだった。

 

黒子の指先が震えた。

 

取っ手を掴むことができない。

 

今なら、まだ言葉の間違いだと思える。

 

加藤が別人の結果を取り違えただけだと。

 

機械が誤作動を起こしただけだと。

 

何かの能力が医療者の判断を狂わせているだけだと。

 

けれど扉を開ければ。

 

その向こうにあるものは、言葉ではなくなる。

 

「明日の朝には……」

 

黒子の声が掠れた。

 

「お姉様は、寮へ戻って……」

 

それ以上は続かなかった。

 

明日の朝。

 

目覚まし時計。

 

カーテンの隙間から差し込む光。

 

制服へ着替える時間。

 

食堂の席。

 

寮監に見つからないよう声を潜める瞬間。

 

鏡の前で髪を整える美琴の横顔。

 

何でもない顔で、今日の予定を話す声。

 

明日になれば、そこにいるはずだった。

 

黒子の頬を涙が落ちた。

 

本人は気づかなかった。

 

「わたくしは……」

 

息を吸おうとする。

 

胸の途中で止まった。

 

「今日も、お姉様と……」

 

膝から力が抜ける。

 

加藤がすぐに身体を支えた。

 

黒子はその腕を振り払わなかった。

 

振り払えるだけの力もなかった。

 

「間に合いませんでしたの……?」

 

加藤の腕に支えられたまま、黒子は尋ねた。

 

風紀委員でも。

 

空間移動能力者でも。

 

常盤台中学の生徒でもない。

 

ただの十三歳の少女の声だった。

 

「わたくしが、もっと早く連絡に気づいていれば」

 

加藤はすぐには答えなかった。

 

黒子が欲しがっているのは、事実ではない。

 

自分には何もできなかったのだと断言されることでも。

 

もし早ければ救えたと、永遠に自分を責めるための可能性を渡されることでもない。

 

「君がいなかったから、彼女が死んだわけじゃない」

 

加藤は言った。

 

「ですが」

 

「ここへ着く前から、俺たちは処置を始めていた」

 

「それでも、わたくしが――」

 

「白井さん」

 

加藤は黒子を床へ崩れさせないよう支えたまま、ゆっくりと言った。

 

「今、答えの出ていないことまで、自分の責任にするな」

 

黒子の唇が震えた。

 

何かを言おうとしたが、声にはならなかった。

 

加藤の白衣を掴む。

 

やがて、小さく息が漏れた。

 

それが一度。

 

二度。

 

三度と続き。

 

声を殺した泣き方に変わった。

 

上条当麻は、その姿を見ていた。

 

声をかけることができなかった。

 

慰める資格がないと思ったからではない。

 

少なくとも、それだけではなかった。

 

何を言えばいいのか、本当に分からなかった。

 

白井黒子は、御坂美琴を失った。

 

そして。

 

御坂美琴が最後に倒れていた場所にいたのは、自分だった。

 

上条は、自分の両手を見た。

 

何度も洗った。

 

指の間へ入り込んでいた血は、もうない。

 

爪の際まで赤かったはずなのに、元の肌の色に戻っている。

 

そのことが。

 

今になって、ひどく気持ち悪かった。

 

水で洗えば落ちた。

 

石鹸を使えば、匂いも薄くなった。

 

自分の手だけが、何事もなかったように元へ戻った。

 

御坂は戻らなかった。

 

視界の端で。

 

何かが動いた。

 

黒子ではない。

 

加藤でもない。

 

廊下を通り過ぎた職員の足だった。

 

白い床を避けるように、ほんの少し進路を変えた。

 

それを見た瞬間。

 

上条の足首に、奇妙な感覚が戻った。

 

自分も。

 

同じように足を動かした。

 

いつ。

 

どこで。

 

すぐには分からなかった。

 

記憶というより。

 

身体の方が先に覚えていた。

 

片足を横へずらした。

 

歩幅を狭めた。

 

何かを踏まないために。

 

上条の呼吸が止まる。

 

夏の日差し。

 

白く照らされた歩道。

 

無人清掃機。

 

開いた自動ドアから漏れていた冷気。

 

そして。

 

足元にあった赤。

 

「……血」

 

声が漏れた。

 

黒子が泣き止んだわけではない。

 

ただ、上条の声に顔を上げた。

 

加藤も視線を向ける。

 

上条は床を見ていた。

 

病院の白い床ではない。

 

記憶の中にある、夏の歩道を。

 

「俺……避けた」

 

「上条?」

 

加藤が呼ぶ。

 

「最初に通った時」

 

上条の言葉は、途切れ途切れだった。

 

自分でも、何を思い出しているのか確信が持てない。

 

「何かを踏まないように、横へ……」

 

上条は自分の足を見る。

 

「避けたんです」

 

一度、あの場所を通っている。

 

その時には御坂がいなかったと思っていた。

 

少なくとも。

 

少し前までは、そう記憶していた。

 

だが違う。

 

何もなかったのなら。

 

なぜ、足をずらした。

 

黒子が加藤の白衣から手を離した。

 

涙を拭うことも忘れ、上条を見る。

 

「何を、避けたんですの」

 

「分からない」

 

「ですが、今、血と」

 

「見た気がするんだ」

 

言葉にした瞬間。

 

さらに輪郭が戻る。

 

血は、急に現れたわけではない。

 

赤い色は最初からあった。

 

視界の中へ入っていた。

 

けれど。

 

その時の自分は、それを血だと思っていなかった。

 

汚れ。

 

水。

 

影。

 

何か説明できる、どうでもいいもの。

 

そういうものとして通り過ぎた。

 

「違う」

 

上条は呟いた。

 

「血だと思わなかったんじゃない」

 

何だったのか。

 

分からない。

 

思い出そうとすると。

 

記憶の中で、意味だけが滑る。

 

赤いものは見えている。

 

自分の足は避けている。

 

だが、その二つが結びつかない。

 

「俺は、あれを見てた」

 

上条は額を押さえた。

 

右手ではなく、左手で。

 

「見て、避けた。なのに、それが何なのか考えなかった」

 

黒子の表情から、泣いていた少女の色が少しだけ引いた。

 

代わりに。

 

風紀委員としての思考が戻ってくる。

 

完全に立ち直ったわけではない。

 

立ち直れるはずもない。

 

ただ、目の前にある異常を放置することができない。

 

「先ほどのお話では」

 

黒子が言った。

 

声はまだ震えている。

 

「あなたは、お姉様の姿そのものを見ていなかったと」

 

「そう思ってた」

 

「では、今は?」

 

上条は答えられなかった。

 

記憶の中には。

 

人がいた。

 

ような気がする。

 

歩道の端。

 

人々の足の間。

 

茶色い髪。

 

白い半袖。

 

倒れた身体。

 

そこまで浮かび。

 

また曖昧になる。

 

顔が見えないわけではない。

 

思い出せないのとも違う。

 

見えていたものを、人として扱っていなかった。

 

「いた」

 

上条の喉が鳴る。

 

「多分、御坂は……最初から、そこにいた」

 

黒子の顔が強張った。

 

「多分とは何ですの」

 

「全部は戻ってこないんだよ!」

 

上条の声が強くなる。

 

黒子へ怒鳴ったのではない。

 

自分の頭の中へ向けた声だった。

 

「見たはずなのに、分からねえんだ。足は避けた。赤いものも見た。人がいた気もする。でも、その時の俺は何もおかしいと思わなかった!」

 

黒子が言葉を失う。

 

上条自身も。

 

息を荒くしたまま、何も続けられなかった。

 

加藤は二人の間へ入らなかった。

 

ただ、上条の様子を観察していた。

 

視線。

 

呼吸。

 

姿勢。

 

記憶を掘り返そうとするたびに増す混乱。

 

能力の専門家ではない。

 

それでも。

 

単なる物忘れや、強いショックによる記憶混乱とは違うことだけは分かる。

 

「思い出そうとするな」

 

加藤が言った。

 

上条が顔を上げる。

 

「でも」

 

「今、無理に一つの話へまとめるな」

 

「まとめないと、何があったか」

 

「順番が変わる」

 

上条の言葉が止まる。

 

加藤は続けた。

 

「人間は、足りない記憶を後から埋めることがある。今ここで白井さんの話を聞いて、それをお前が自分の記憶や体験と勘違いしてしまったら、それこそ元から覚えていたことと、後から考えたことの区別がつかなくなる」

 

黒子が加藤を見る。

 

「証言を分けるおつもりですの?」

 

「ああ」

 

加藤は短く答えた。

 

「少なくとも、これ以上二人で現場の話を整理しない方がいい」

 

「ですが」

 

「調べるなとは言っていない」

 

黒子の反論を先に止める。

 

「今は、混ぜるなと言っている」

 

黒子は唇を噛んだ。

 

正しい。

 

風紀委員として考えれば。

 

証言者同士が、先に記憶を擦り合わせるべきではない。

 

まして。

 

何らかの能力干渉が疑われる。

 

自分の知っている美琴の姿を、上条の曖昧な記憶へ押し込めば。

 

上条が本当に見たものを変えてしまうかもしれない。

 

それでも。

 

「待っている間に、犯人が逃げますの」

 

黒子が言った。

 

「お姉様へこのようなことをした者がいるのでしょう? 能力を使った者が。今も、どこかに」

 

「可能性は高い」

 

加藤は答えた。

 

「ならば!」

 

「だからこそ、間違った相手を追うわけにはいかない」

 

黒子は黙った。

 

加藤の言葉は穏やかだった。

 

けれど。

 

逃げ道はなかった。

 

「君は今、見つけた名前へ飛びつく」

 

「そのようなことは」

 

「しないと言い切れるか」

 

黒子の拳が震えた。

 

言い切れない。

 

美琴を殺した可能性がある人物の名前を聞けば。

 

証拠が足りないと分かっていても。

 

そこへ転移する自分を止められる自信がない。

 

加藤は、黒子を責めなかった。

 

「それが悪いと言っているんじゃない」

 

低く言う。

 

「大事な人を失った直後に、冷静でいろという方が無理だ」

 

黒子の目から、また涙が落ちた。

 

今度は袖で拭った。

 

「……では、わたくしは何をすればよろしいんですの」

 

かすかな声だった。

 

「何もせず、ここにいろと?」

 

加藤は少し考えた。

 

そして。

 

しゃがんだ。

 

大柄な身体を低くして、黒子と目の高さを合わせる。

 

「御坂さんが今日、何をする予定だったか」

 

黒子の瞳が動く。

 

「誰と連絡を取っていたか。今朝は何を話したか。最近、普段と違うことがなかったか」

 

加藤は一つずつ言った。

 

「それを思い出した順番のまま、覚えていてくれ」

 

「覚えて……」

 

「誰かの話を聞いて、後から付け足す前に」

 

黒子は処置室の扉を見た。

 

今朝の美琴。

 

昨日の夜の美琴。

 

不機嫌そうに端末を見ていた顔。

 

買ってきた飲み物。

 

机の上に置かれていた物。

 

誰に腹を立て。

 

何を楽しみにし。

 

どんな言葉を言い残したか。

 

事件の記録には、まだ残っていないこと。

 

御坂美琴が。

 

事件の被害者になる前に、生きていた日常。

 

「それが」

 

黒子の声が震える。

 

「役に立ちますの?」

 

「ああ」

 

加藤は迷わず答えた。

 

「彼女が何をしていた人間なのか。それを知っているのは、機械じゃない」

 

黒子の唇が歪んだ。

 

また泣きそうになる。

 

それでも。

 

今度は声を崩さなかった。

 

「……分かりましたの」

 

小さく答える。

 

加藤は立ち上がった。

 

「上条」

 

呼ばれた上条は顔を上げた。

 

「お前もだ」

 

「俺は」

 

「思い出したことを、正しい順番へ並べようとするな」

 

「でも、時間が経ったら消えるかもしれない」

 

「だから記録する」

 

加藤は廊下の壁に取り付けられた端末へ手を伸ばした。

 

だが、操作を始める前に止める。

 

「俺が聞くべきじゃないな」

 

「どうして」

 

「俺も現場にいた」

 

加藤は言った。

 

「見たものを共有している。俺が質問すれば、質問の形に合わせてお前の記憶が変わる可能性がある」

 

加藤自身も。

 

偶然現場へ居合わせたわけではない。

 

この施設と連携する救急医として移動中に通報を受け、最寄りの医療者として初動へ加わった。

 

現場を見た。

 

群衆を見た。

 

上条を見た。

 

美琴を見た。

 

今や自分も、完全に事件の外側ではなかった。

 

「別の担当者に、一つずつ聞いてもらう」

 

上条は処置室の扉を見る。

 

「御坂は?」

 

「ここにいる」

 

「一人にしないでください」

 

加藤の表情が、わずかに変わった。

 

「一人にはしない」

 

短い答えだった。

 

余計な慰めはなかった。

 

けれど。

 

上条が今、唯一求めていた約束だった。

 

廊下の奥から、複数の足音が聞こえてきた。

 

灰色を基調とした制服。

 

警備員。

 

先頭の女性が、加藤へ身分証を示した。

 

その後ろには、施設職員と記録用端末を持った担当者がいる。

 

「現場班から連絡を受けました」

 

女性警備員が言った。

 

「御坂美琴さんの状態は」

 

加藤は一度だけ処置室を見た。

 

「先ほど、死亡を確認しました」

 

担当者の指が端末へ触れる。

 

短い操作音。

 

その瞬間。

 

御坂美琴の死は、廊下にいた三人だけの現実ではなくなった。

 

記録になる。

 

報告になる。

 

事件になる。

 

「処置記録と搬送記録を保全します」

 

女性警備員は続けた。

 

「現場側では、目撃者の記憶に異常が報告されています。証言者同士を分離して聴取します」

 

黒子が反応する。

 

「異常とは?」

 

「複数の通行人が、倒れていた人物や血液を見ていた可能性を口にし始めています」

 

上条の呼吸が止まった。

 

「始めている?」

 

「現場到着直後には、明確な証言がありませんでした」

 

女性警備員は端末を確認しながら言う。

 

「その後、足を避けた、赤いものを見た、人が倒れていた気がする、と断片的な申告が増えている」

 

上条は自分の足を見る。

 

同じだ。

 

最初に戻ったのは。

 

事件の全体ではない。

 

足を動かした感覚。

 

何かを避けた身体の記憶。

 

次に。

 

赤い色。

 

倒れていたものの輪郭。

 

そして今。

 

それが御坂美琴だったという意味が、遅れて追いつこうとしている。

 

偶然。

 

自分だけに起きたことではない。

 

「能力が解除された……?」

 

黒子が呟いた。

 

女性警備員は顔を上げる。

 

「何か心当たりが?」

 

「断定はできませんの」

 

黒子はすぐに答えた。

 

涙の跡が残る顔で。

 

それでも、言葉だけは慎重に選ぶ。

 

「精神干渉、知覚干渉、認識への干渉。いずれにせよ、現在も同じ強度で作用しているなら、複数人が時間差で同様の記憶を取り戻すとは考えにくい」

 

「白井さん」

 

加藤が名前を呼ぶ。

 

黒子は小さく息を吐いた。

 

「……申し訳ございません。推測ですの」

 

女性警備員は端末へ短く記録した。

 

「推測として残します。ただし、ここではこれ以上擦り合わせないでください」

 

視線が黒子から上条へ移る。

 

「上条当麻君ですね」

 

上条は少し遅れて頷いた。

 

「はい」

 

「第一発見者で、救命処置を行った」

 

「……はい」

 

「白井黒子さん」

 

「第177支部所属の風紀委員ですの」

 

「身分は確認済みです。ただし、今は被害者の近しい関係者であり、重要参考人として扱います」

 

黒子の眉が動いた。

 

「捜査への参加は」

 

「認められません」

 

即答だった。

 

「何を」

 

「あなたは被害者と極めて近い関係にあります。証言者であり、保護対象でもある。現在の状態で捜査権限を使用することはできません」

 

「わたくしは風紀委員ですの!」

 

「ですから、手順は理解できるはずです」

 

黒子の拳が握られる。

 

能力があっても。

 

風紀委員であっても。

 

今は何もできない。

 

第177支部へ戻れば。

 

初春なら。

 

映像を調べられる。

 

端末の記録も。

 

周囲の通信も。

 

そう考えるだけで、今すぐ転移したくなる。

 

だが。

 

それをすれば。

 

自分が最初に疑ったものだけを探す。

 

都合のいい記録だけを拾う。

 

証拠を見つけるためではなく。

 

怒りを向ける相手を見つけるために。

 

加藤の言葉が正しいことを。

 

黒子自身が一番よく分かっていた。

 

「……いつまでですの」

 

「初動聴取と、能力干渉の有無が確認されるまで」

 

「その間に逃げられたら」

 

「現場はすでに封鎖されています」

 

女性警備員は淡々と答えた。

 

「ただし、犯人が現場に残っているという前提も置きません。既知の能力分類へ早急に当てはめることもしません」

 

黒子は歯を食いしばった。

 

反論はしなかった。

 

女性警備員は、上条へ向き直る。

 

「二人の証言は別々に確認します」

 

「待ってください」

 

上条は処置室を見る。

 

「御坂は、どうなるんですか」

 

「事件性が明らかです」

 

その言葉で。

 

上条の顔が硬くなる。

 

「法医学的な確認が終わるまで、御坂美琴さんの身体はこちらで保全します」

 

身体。

 

遺体とは言わなかった。

 

それでも。

 

意味は同じだった。

 

「まだ、そこにいるんだ」

 

上条の声が低くなる。

 

「さっきまで生きてたんだぞ」

 

「上条」

 

加藤が呼ぶ。

 

「息だってしてた。身体だって温かかった。それを、もう調べるものみたいに」

 

「彼女を物として扱うわけじゃない」

 

加藤が上条の左肩へ手を置いた。

 

「じゃあ何で」

 

「何をされたのか、残さなければならないからだ」

 

上条の動きが止まる。

 

加藤の手に、わずかに力が入る。

 

「助けられなかった」

 

静かな声だった。

 

医師として。

 

自分自身へ言っているような声でもあった。

 

「だから、起きたことまで失うわけにはいかない」

 

上条は扉を見た。

 

名前を呼んでも。

 

手を握っても。

 

右手で触れても。

 

もう何も戻らない。

 

その現実だけは。

 

どんな能力にも補正されず、そこに残っていた。

 

「……一人にしないでください」

 

「約束する」

 

加藤は答えた。

 

上条の肩から力が抜ける。

 

女性警備員が担当者へ合図した。

 

廊下の左右にある二つの部屋が開く。

 

黒子は右側。

 

上条は左側。

 

数メートルしか離れていない。

 

それでも。

 

今はひどく遠く見えた。

 

黒子は処置室を振り返った。

 

次に。

 

上条を見る。

 

先ほどの、

 

なぜ助けなかったのか。

 

という問いが。

 

まだ二人の間に残っていた。

 

謝るべきなのは黒子なのか。

 

上条なのか。

 

どちらでもないのか。

 

今は誰にも分からない。

 

黒子は小さく頭を下げた。

 

謝罪と呼べるほど明確な動作ではなかった。

 

それでも。

 

上条には伝わった。

 

上条も、わずかに頷く。

 

黒子は案内された部屋へ入った。

 

扉が閉じる。

 

上条も反対側の部屋へ案内された。

 

中には机と椅子が二つ。

 

壁際に記録用の端末。

 

窓はない。

 

病院の廊下よりも静かだった。

 

上条は椅子へ座る。

 

担当者が正面に座った。

 

端末が起動する。

 

画面へ文字が表示された。

 

氏名。

 

上条当麻。

 

立場。

 

第一発見者。

 

救命実施者。

 

重要参考人。

 

そして。

 

被害者。

 

御坂美琴。

 

上条は、その名前から目を離せなかった。

 

「無理に一つの話へまとめなくて構いません」

 

担当者が言った。

 

「確信があることと、今になって思い出したことを分けてください」

 

上条は小さく頷いた。

 

「最初に、現在まで一度も変わっていない記憶から確認します」

 

端末の記録表示が動き始める。

 

「御坂美琴さんと別れた後、あなたはどこを通りましたか」

 

上条は答えようとした。

 

夏の日差し。

 

白い歩道。

 

無人清掃機。

 

店から漏れていた冷気。

 

人々の足。

 

足元にあった赤。

 

横へずらした自分の足。

 

倒れていた誰か。

 

思い出せるものと。

 

まだ意味が追いつかないものが。

 

頭の中で、ばらばらに浮かんでいた。

 

その中で。

 

一つだけ。

 

最初から変わっていないものがあった。

 

事件とは関係のない。

 

何の証拠にもならない。

 

少し前の記憶。

 

上条の唇が震えた。

 

「御坂は」

 

声が掠れる。

 

「さっきまで、笑ってたんです」

 

端末の画面へ。

 

最初の記録が刻まれた。

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