重傷を負った御坂美琴は、上条当麻とともに病院へ搬送された。
処置を待つ上条は白井黒子へ連絡し、駆けつけた黒子とともに、手術室の前で美琴の無事を待つ。
やがて、二人の前に医師が現れた。
加藤則祐は、一秒だけ言葉を選んだ。
その一秒が。
何よりも残酷だった。
「……助けられなかった」
処置室の前に、低い声が落ちた。
白井黒子は、すぐには反応しなかった。
加藤の口が動いたことは分かった。声も確かに聞こえた。聞き間違えるほど遠くにいたわけでも、周囲が騒がしかったわけでもない。
むしろ廊下は、異様なほど静かだった。
少し前まで扉の向こうから聞こえていた足音も、器具の触れ合う音も、医療者の短い指示も止まっている。処置中を示していた赤い表示灯も消えていた。
だからこそ、聞こえた。
ただ。
意味だけが届かなかった。
「……何を」
黒子の唇から、息のような声が漏れた。
加藤は目を逸らさなかった。
額には汗が残り、白衣の袖には血が付いている。処置室から出てきたばかりの医師の顔だった。
疲労も。
悔しさも。
隠し切れてはいない。
それでも、言わなければならないことを他人へ押し付けることはしなかった。
「御坂美琴さんは、先ほど死亡が確認された」
死亡。
確認。
御坂美琴。
黒子は、その三つの言葉を知っている。
風紀委員として、死亡事故の報告書を読んだこともあった。ニュースで聞いたこともある。どういう状態を指す言葉なのかも理解している。
けれど、それらを一つの文章へ並べて、その中央に御坂美琴の名前を置くことだけはできなかった。
「確認、とは?」
聞き返した声は、不自然なほど整っていた。
「どういった意味ですの」
加藤の眉がわずかに動く。
「心拍と呼吸が戻らなかった。蘇生処置を続けたが、再開させることができなかった」
「でしたら、もう一度」
「白井さん」
「もう一度、お願いしますの」
黒子は、加藤の声を遮った。
「投薬でも電気刺激でも、まだ試せる方法が残っているのではありませんの? お姉様は一般的な能力者ではありません。生体電気を自力で操作できる可能性もございますし、能力によって心拍が正確に検出できていない可能性も――」
「能力による測定異常の可能性も確認した」
「では、別の施設へ移してくださいまし」
「搬送できる状態ではない」
「設備が足りないのでしたら、こちらへ運ばせればよろしいでしょう。常盤台へ連絡すれば、能力開発機関にも――」
「白井さん」
加藤は声を荒らげなかった。
ただ、黒子が言葉の先へ逃げ続けるのを止めるために、もう一度名前を呼んだ。
黒子の口が閉じる。
「心臓を、もう一度動かすことができなかった」
その言葉で。
黒子の視線が、加藤から外れた。
閉じた処置室の扉へ向かう。
扉の向こうには御坂美琴がいる。
ほんの数時間前まで、歩き、喋り、怒り、笑っていた少女がいる。
けれど。
その心臓はもう動いていない。
「そんな……」
黒子の口から、初めて情報確認ではない言葉が落ちた。
「そんなはず、ありませんの」
加藤は否定しなかった。
慰めるための嘘も言わなかった。
その沈黙だけで、黒子には十分だった。
黒子は扉へ近づいた。
一歩。
さらに一歩。
空間移動は使わなかった。
使うという発想そのものが、今は浮かばなかった。
取っ手へ手を伸ばす。
指先が触れる寸前で止まる。
開ければいい。
中へ入って、顔を見ればいい。
名前を呼べば、いつものように返事をするかもしれない。
何を勝手に殺しているのよ、と怒るかもしれない。
大げさなんだから、と呆れた顔で笑うかもしれない。
「お姉様」
黒子が呼んだ。
返事はない。
「お姉様……?」
もう一度。
先ほどより少しだけ大きく呼んだ。
扉の向こうは静かなままだった。
黒子の指先が震えた。
取っ手を掴むことができない。
今なら、まだ言葉の間違いだと思える。
加藤が別人の結果を取り違えただけだと。
機械が誤作動を起こしただけだと。
何かの能力が医療者の判断を狂わせているだけだと。
けれど扉を開ければ。
その向こうにあるものは、言葉ではなくなる。
「明日の朝には……」
黒子の声が掠れた。
「お姉様は、寮へ戻って……」
それ以上は続かなかった。
明日の朝。
目覚まし時計。
カーテンの隙間から差し込む光。
制服へ着替える時間。
食堂の席。
寮監に見つからないよう声を潜める瞬間。
鏡の前で髪を整える美琴の横顔。
何でもない顔で、今日の予定を話す声。
明日になれば、そこにいるはずだった。
黒子の頬を涙が落ちた。
本人は気づかなかった。
「わたくしは……」
息を吸おうとする。
胸の途中で止まった。
「今日も、お姉様と……」
膝から力が抜ける。
加藤がすぐに身体を支えた。
黒子はその腕を振り払わなかった。
振り払えるだけの力もなかった。
「間に合いませんでしたの……?」
加藤の腕に支えられたまま、黒子は尋ねた。
風紀委員でも。
空間移動能力者でも。
常盤台中学の生徒でもない。
ただの十三歳の少女の声だった。
「わたくしが、もっと早く連絡に気づいていれば」
加藤はすぐには答えなかった。
黒子が欲しがっているのは、事実ではない。
自分には何もできなかったのだと断言されることでも。
もし早ければ救えたと、永遠に自分を責めるための可能性を渡されることでもない。
「君がいなかったから、彼女が死んだわけじゃない」
加藤は言った。
「ですが」
「ここへ着く前から、俺たちは処置を始めていた」
「それでも、わたくしが――」
「白井さん」
加藤は黒子を床へ崩れさせないよう支えたまま、ゆっくりと言った。
「今、答えの出ていないことまで、自分の責任にするな」
黒子の唇が震えた。
何かを言おうとしたが、声にはならなかった。
加藤の白衣を掴む。
やがて、小さく息が漏れた。
それが一度。
二度。
三度と続き。
声を殺した泣き方に変わった。
上条当麻は、その姿を見ていた。
声をかけることができなかった。
慰める資格がないと思ったからではない。
少なくとも、それだけではなかった。
何を言えばいいのか、本当に分からなかった。
白井黒子は、御坂美琴を失った。
そして。
御坂美琴が最後に倒れていた場所にいたのは、自分だった。
上条は、自分の両手を見た。
何度も洗った。
指の間へ入り込んでいた血は、もうない。
爪の際まで赤かったはずなのに、元の肌の色に戻っている。
そのことが。
今になって、ひどく気持ち悪かった。
水で洗えば落ちた。
石鹸を使えば、匂いも薄くなった。
自分の手だけが、何事もなかったように元へ戻った。
御坂は戻らなかった。
視界の端で。
何かが動いた。
黒子ではない。
加藤でもない。
廊下を通り過ぎた職員の足だった。
白い床を避けるように、ほんの少し進路を変えた。
それを見た瞬間。
上条の足首に、奇妙な感覚が戻った。
自分も。
同じように足を動かした。
いつ。
どこで。
すぐには分からなかった。
記憶というより。
身体の方が先に覚えていた。
片足を横へずらした。
歩幅を狭めた。
何かを踏まないために。
上条の呼吸が止まる。
夏の日差し。
白く照らされた歩道。
無人清掃機。
開いた自動ドアから漏れていた冷気。
そして。
足元にあった赤。
「……血」
声が漏れた。
黒子が泣き止んだわけではない。
ただ、上条の声に顔を上げた。
加藤も視線を向ける。
上条は床を見ていた。
病院の白い床ではない。
記憶の中にある、夏の歩道を。
「俺……避けた」
「上条?」
加藤が呼ぶ。
「最初に通った時」
上条の言葉は、途切れ途切れだった。
自分でも、何を思い出しているのか確信が持てない。
「何かを踏まないように、横へ……」
上条は自分の足を見る。
「避けたんです」
一度、あの場所を通っている。
その時には御坂がいなかったと思っていた。
少なくとも。
少し前までは、そう記憶していた。
だが違う。
何もなかったのなら。
なぜ、足をずらした。
黒子が加藤の白衣から手を離した。
涙を拭うことも忘れ、上条を見る。
「何を、避けたんですの」
「分からない」
「ですが、今、血と」
「見た気がするんだ」
言葉にした瞬間。
さらに輪郭が戻る。
血は、急に現れたわけではない。
赤い色は最初からあった。
視界の中へ入っていた。
けれど。
その時の自分は、それを血だと思っていなかった。
汚れ。
水。
影。
何か説明できる、どうでもいいもの。
そういうものとして通り過ぎた。
「違う」
上条は呟いた。
「血だと思わなかったんじゃない」
何だったのか。
分からない。
思い出そうとすると。
記憶の中で、意味だけが滑る。
赤いものは見えている。
自分の足は避けている。
だが、その二つが結びつかない。
「俺は、あれを見てた」
上条は額を押さえた。
右手ではなく、左手で。
「見て、避けた。なのに、それが何なのか考えなかった」
黒子の表情から、泣いていた少女の色が少しだけ引いた。
代わりに。
風紀委員としての思考が戻ってくる。
完全に立ち直ったわけではない。
立ち直れるはずもない。
ただ、目の前にある異常を放置することができない。
「先ほどのお話では」
黒子が言った。
声はまだ震えている。
「あなたは、お姉様の姿そのものを見ていなかったと」
「そう思ってた」
「では、今は?」
上条は答えられなかった。
記憶の中には。
人がいた。
ような気がする。
歩道の端。
人々の足の間。
茶色い髪。
白い半袖。
倒れた身体。
そこまで浮かび。
また曖昧になる。
顔が見えないわけではない。
思い出せないのとも違う。
見えていたものを、人として扱っていなかった。
「いた」
上条の喉が鳴る。
「多分、御坂は……最初から、そこにいた」
黒子の顔が強張った。
「多分とは何ですの」
「全部は戻ってこないんだよ!」
上条の声が強くなる。
黒子へ怒鳴ったのではない。
自分の頭の中へ向けた声だった。
「見たはずなのに、分からねえんだ。足は避けた。赤いものも見た。人がいた気もする。でも、その時の俺は何もおかしいと思わなかった!」
黒子が言葉を失う。
上条自身も。
息を荒くしたまま、何も続けられなかった。
加藤は二人の間へ入らなかった。
ただ、上条の様子を観察していた。
視線。
呼吸。
姿勢。
記憶を掘り返そうとするたびに増す混乱。
能力の専門家ではない。
それでも。
単なる物忘れや、強いショックによる記憶混乱とは違うことだけは分かる。
「思い出そうとするな」
加藤が言った。
上条が顔を上げる。
「でも」
「今、無理に一つの話へまとめるな」
「まとめないと、何があったか」
「順番が変わる」
上条の言葉が止まる。
加藤は続けた。
「人間は、足りない記憶を後から埋めることがある。今ここで白井さんの話を聞いて、それをお前が自分の記憶や体験と勘違いしてしまったら、それこそ元から覚えていたことと、後から考えたことの区別がつかなくなる」
黒子が加藤を見る。
「証言を分けるおつもりですの?」
「ああ」
加藤は短く答えた。
「少なくとも、これ以上二人で現場の話を整理しない方がいい」
「ですが」
「調べるなとは言っていない」
黒子の反論を先に止める。
「今は、混ぜるなと言っている」
黒子は唇を噛んだ。
正しい。
風紀委員として考えれば。
証言者同士が、先に記憶を擦り合わせるべきではない。
まして。
何らかの能力干渉が疑われる。
自分の知っている美琴の姿を、上条の曖昧な記憶へ押し込めば。
上条が本当に見たものを変えてしまうかもしれない。
それでも。
「待っている間に、犯人が逃げますの」
黒子が言った。
「お姉様へこのようなことをした者がいるのでしょう? 能力を使った者が。今も、どこかに」
「可能性は高い」
加藤は答えた。
「ならば!」
「だからこそ、間違った相手を追うわけにはいかない」
黒子は黙った。
加藤の言葉は穏やかだった。
けれど。
逃げ道はなかった。
「君は今、見つけた名前へ飛びつく」
「そのようなことは」
「しないと言い切れるか」
黒子の拳が震えた。
言い切れない。
美琴を殺した可能性がある人物の名前を聞けば。
証拠が足りないと分かっていても。
そこへ転移する自分を止められる自信がない。
加藤は、黒子を責めなかった。
「それが悪いと言っているんじゃない」
低く言う。
「大事な人を失った直後に、冷静でいろという方が無理だ」
黒子の目から、また涙が落ちた。
今度は袖で拭った。
「……では、わたくしは何をすればよろしいんですの」
かすかな声だった。
「何もせず、ここにいろと?」
加藤は少し考えた。
そして。
しゃがんだ。
大柄な身体を低くして、黒子と目の高さを合わせる。
「御坂さんが今日、何をする予定だったか」
黒子の瞳が動く。
「誰と連絡を取っていたか。今朝は何を話したか。最近、普段と違うことがなかったか」
加藤は一つずつ言った。
「それを思い出した順番のまま、覚えていてくれ」
「覚えて……」
「誰かの話を聞いて、後から付け足す前に」
黒子は処置室の扉を見た。
今朝の美琴。
昨日の夜の美琴。
不機嫌そうに端末を見ていた顔。
買ってきた飲み物。
机の上に置かれていた物。
誰に腹を立て。
何を楽しみにし。
どんな言葉を言い残したか。
事件の記録には、まだ残っていないこと。
御坂美琴が。
事件の被害者になる前に、生きていた日常。
「それが」
黒子の声が震える。
「役に立ちますの?」
「ああ」
加藤は迷わず答えた。
「彼女が何をしていた人間なのか。それを知っているのは、機械じゃない」
黒子の唇が歪んだ。
また泣きそうになる。
それでも。
今度は声を崩さなかった。
「……分かりましたの」
小さく答える。
加藤は立ち上がった。
「上条」
呼ばれた上条は顔を上げた。
「お前もだ」
「俺は」
「思い出したことを、正しい順番へ並べようとするな」
「でも、時間が経ったら消えるかもしれない」
「だから記録する」
加藤は廊下の壁に取り付けられた端末へ手を伸ばした。
だが、操作を始める前に止める。
「俺が聞くべきじゃないな」
「どうして」
「俺も現場にいた」
加藤は言った。
「見たものを共有している。俺が質問すれば、質問の形に合わせてお前の記憶が変わる可能性がある」
加藤自身も。
偶然現場へ居合わせたわけではない。
この施設と連携する救急医として移動中に通報を受け、最寄りの医療者として初動へ加わった。
現場を見た。
群衆を見た。
上条を見た。
美琴を見た。
今や自分も、完全に事件の外側ではなかった。
「別の担当者に、一つずつ聞いてもらう」
上条は処置室の扉を見る。
「御坂は?」
「ここにいる」
「一人にしないでください」
加藤の表情が、わずかに変わった。
「一人にはしない」
短い答えだった。
余計な慰めはなかった。
けれど。
上条が今、唯一求めていた約束だった。
廊下の奥から、複数の足音が聞こえてきた。
灰色を基調とした制服。
警備員。
先頭の女性が、加藤へ身分証を示した。
その後ろには、施設職員と記録用端末を持った担当者がいる。
「現場班から連絡を受けました」
女性警備員が言った。
「御坂美琴さんの状態は」
加藤は一度だけ処置室を見た。
「先ほど、死亡を確認しました」
担当者の指が端末へ触れる。
短い操作音。
その瞬間。
御坂美琴の死は、廊下にいた三人だけの現実ではなくなった。
記録になる。
報告になる。
事件になる。
「処置記録と搬送記録を保全します」
女性警備員は続けた。
「現場側では、目撃者の記憶に異常が報告されています。証言者同士を分離して聴取します」
黒子が反応する。
「異常とは?」
「複数の通行人が、倒れていた人物や血液を見ていた可能性を口にし始めています」
上条の呼吸が止まった。
「始めている?」
「現場到着直後には、明確な証言がありませんでした」
女性警備員は端末を確認しながら言う。
「その後、足を避けた、赤いものを見た、人が倒れていた気がする、と断片的な申告が増えている」
上条は自分の足を見る。
同じだ。
最初に戻ったのは。
事件の全体ではない。
足を動かした感覚。
何かを避けた身体の記憶。
次に。
赤い色。
倒れていたものの輪郭。
そして今。
それが御坂美琴だったという意味が、遅れて追いつこうとしている。
偶然。
自分だけに起きたことではない。
「能力が解除された……?」
黒子が呟いた。
女性警備員は顔を上げる。
「何か心当たりが?」
「断定はできませんの」
黒子はすぐに答えた。
涙の跡が残る顔で。
それでも、言葉だけは慎重に選ぶ。
「精神干渉、知覚干渉、認識への干渉。いずれにせよ、現在も同じ強度で作用しているなら、複数人が時間差で同様の記憶を取り戻すとは考えにくい」
「白井さん」
加藤が名前を呼ぶ。
黒子は小さく息を吐いた。
「……申し訳ございません。推測ですの」
女性警備員は端末へ短く記録した。
「推測として残します。ただし、ここではこれ以上擦り合わせないでください」
視線が黒子から上条へ移る。
「上条当麻君ですね」
上条は少し遅れて頷いた。
「はい」
「第一発見者で、救命処置を行った」
「……はい」
「白井黒子さん」
「第177支部所属の風紀委員ですの」
「身分は確認済みです。ただし、今は被害者の近しい関係者であり、重要参考人として扱います」
黒子の眉が動いた。
「捜査への参加は」
「認められません」
即答だった。
「何を」
「あなたは被害者と極めて近い関係にあります。証言者であり、保護対象でもある。現在の状態で捜査権限を使用することはできません」
「わたくしは風紀委員ですの!」
「ですから、手順は理解できるはずです」
黒子の拳が握られる。
能力があっても。
風紀委員であっても。
今は何もできない。
第177支部へ戻れば。
初春なら。
映像を調べられる。
端末の記録も。
周囲の通信も。
そう考えるだけで、今すぐ転移したくなる。
だが。
それをすれば。
自分が最初に疑ったものだけを探す。
都合のいい記録だけを拾う。
証拠を見つけるためではなく。
怒りを向ける相手を見つけるために。
加藤の言葉が正しいことを。
黒子自身が一番よく分かっていた。
「……いつまでですの」
「初動聴取と、能力干渉の有無が確認されるまで」
「その間に逃げられたら」
「現場はすでに封鎖されています」
女性警備員は淡々と答えた。
「ただし、犯人が現場に残っているという前提も置きません。既知の能力分類へ早急に当てはめることもしません」
黒子は歯を食いしばった。
反論はしなかった。
女性警備員は、上条へ向き直る。
「二人の証言は別々に確認します」
「待ってください」
上条は処置室を見る。
「御坂は、どうなるんですか」
「事件性が明らかです」
その言葉で。
上条の顔が硬くなる。
「法医学的な確認が終わるまで、御坂美琴さんの身体はこちらで保全します」
身体。
遺体とは言わなかった。
それでも。
意味は同じだった。
「まだ、そこにいるんだ」
上条の声が低くなる。
「さっきまで生きてたんだぞ」
「上条」
加藤が呼ぶ。
「息だってしてた。身体だって温かかった。それを、もう調べるものみたいに」
「彼女を物として扱うわけじゃない」
加藤が上条の左肩へ手を置いた。
「じゃあ何で」
「何をされたのか、残さなければならないからだ」
上条の動きが止まる。
加藤の手に、わずかに力が入る。
「助けられなかった」
静かな声だった。
医師として。
自分自身へ言っているような声でもあった。
「だから、起きたことまで失うわけにはいかない」
上条は扉を見た。
名前を呼んでも。
手を握っても。
右手で触れても。
もう何も戻らない。
その現実だけは。
どんな能力にも補正されず、そこに残っていた。
「……一人にしないでください」
「約束する」
加藤は答えた。
上条の肩から力が抜ける。
女性警備員が担当者へ合図した。
廊下の左右にある二つの部屋が開く。
黒子は右側。
上条は左側。
数メートルしか離れていない。
それでも。
今はひどく遠く見えた。
黒子は処置室を振り返った。
次に。
上条を見る。
先ほどの、
なぜ助けなかったのか。
という問いが。
まだ二人の間に残っていた。
謝るべきなのは黒子なのか。
上条なのか。
どちらでもないのか。
今は誰にも分からない。
黒子は小さく頭を下げた。
謝罪と呼べるほど明確な動作ではなかった。
それでも。
上条には伝わった。
上条も、わずかに頷く。
黒子は案内された部屋へ入った。
扉が閉じる。
上条も反対側の部屋へ案内された。
中には机と椅子が二つ。
壁際に記録用の端末。
窓はない。
病院の廊下よりも静かだった。
上条は椅子へ座る。
担当者が正面に座った。
端末が起動する。
画面へ文字が表示された。
氏名。
上条当麻。
立場。
第一発見者。
救命実施者。
重要参考人。
そして。
被害者。
御坂美琴。
上条は、その名前から目を離せなかった。
「無理に一つの話へまとめなくて構いません」
担当者が言った。
「確信があることと、今になって思い出したことを分けてください」
上条は小さく頷いた。
「最初に、現在まで一度も変わっていない記憶から確認します」
端末の記録表示が動き始める。
「御坂美琴さんと別れた後、あなたはどこを通りましたか」
上条は答えようとした。
夏の日差し。
白い歩道。
無人清掃機。
店から漏れていた冷気。
人々の足。
足元にあった赤。
横へずらした自分の足。
倒れていた誰か。
思い出せるものと。
まだ意味が追いつかないものが。
頭の中で、ばらばらに浮かんでいた。
その中で。
一つだけ。
最初から変わっていないものがあった。
事件とは関係のない。
何の証拠にもならない。
少し前の記憶。
上条の唇が震えた。
「御坂は」
声が掠れる。
「さっきまで、笑ってたんです」
端末の画面へ。
最初の記録が刻まれた。