医師から、御坂美琴の死亡を告げられた上条当麻と白井黒子。
その直後、上条は自分が一度、事件現場を通り過ぎていたことを思い出す。
美琴も血も見えていたはずなのに、そのときは何も異常だと思わなかった。
やがて同じような記憶を取り戻す通行人が現れ始め、警備員は上条と黒子を分けて事情聴取を開始した。
白い布が、御坂美琴の身体から外された。
照明の下に現れた肌は、病院で上条当麻が最後に見たときよりも、さらに色を失っていた。
腹部には救命処置の痕跡が残っている。胸には電極の跡があり、腕には点滴のために確保された静脈路が残されていた。その一つ一つが、彼女を助けるために行われたものだった。
そして、そのすべてが失敗した。
「始めます」
法医学者の声に応じて、壁際の端末へ記録が入力される。
室内には数人の人間がいた。
執刀を担当する法医学者。記録係。警備員の捜査責任者。能力犯罪を専門とする解析担当者。
加藤則祐は、少し離れた場所に立っていた。
彼は法医学者ではない。ここにいるのは、御坂美琴が搬送されてから死亡を確認されるまでの経過を知る臨床側の証人としてだった。
いつもなら、患者の身体へ向けられる刃を黙って見ているような立場ではない。
だが今は、何もできなかった結果を見届けるしかなかった。
法医学者が腹部の傷を確認する。
「創は一か所。腹部正中よりやや左側から入り、深部へ達しています」
記録係の指が動く。
「刃物ですか」
警備員の男が尋ねた。
「形状だけを見れば、その可能性はあります。ただし、現時点では断定できません」
「理由は?」
「創縁が一定していない。単純な刺創とも、一般的な切創とも一致しません。途中で力の方向が変化しています」
法医学者は傷の周囲を指で示した。
「通常なら、これだけ深い損傷を与えるには、加害者と被害者の位置関係が痕跡として残ります。防御創、衣服の乱れ、接触時の皮下出血。あるいは身体を固定された痕跡です」
「それがない?」
「少なくとも、目立ったものはありません」
室内の視線が、御坂美琴の両手へ移った。
指にも、手のひらにも、刃を受け止めた傷はない。
相手を殴った痕跡も、何かへしがみついた痕跡も見つからなかった。
御坂美琴ほどの能力者が、何の抵抗もせずに致命傷を負った。
その事実だけでも異常だった。
「失血が直接の死因と考えていいですか」
「現段階では」
法医学者は断定を避けた。
「主要血管と複数の臓器が損傷しています。搬送時点で極めて危険な状態だったことに疑いはありません」
加藤は、そこで初めて口を開いた。
「即死ではありません」
全員の視線が集まった。
加藤は一度、口を閉じた。
言葉を選んでいるのではない。選ぼうとして、何を選んでも同じだと気づいたような間だった。
「現場で傷を負った直後に死亡したわけではない。血圧を維持できなくなるまでには時間があったはずです。正確な長さは、出血速度や本人の状態を見なければ出せません。ただ――」
御坂美琴の顔を見ないまま、加藤は続けた。
「倒れてから、誰かが異常に気づく時間はあった」
警備員の男は手元の資料へ目を落とした。
「目撃者はいました」
「一人や二人じゃないでしょう」
「現在確認できているだけで三十二人。現場周辺の店舗利用者や通行人を含めれば、さらに増えます」
加藤の右手が、白衣のポケットの中で動いた。
握ったのか、何かを探したのかは分からない。
「それだけいたのに、最初の通報まで誰も何もしなかった」
「はい」
「全員が見落とした?」
警備員の男は答えなかった。
代わりに、能力解析担当者が卓上端末を操作した。
「見落とした、という表現は正確ではありません」
壁面の大型モニターへ、現場付近の監視映像が表示された。
夏の日差しに照らされた歩道。
買い物袋を下げた学生。清掃用ロボット。停車した配送車。自動ドアから出入りする人々。
その中央付近に、御坂美琴がいた。
映像の中の彼女は、まだ立っている。
隣には上条当麻がいた。
二人は何かを話していた。音声は記録されていない。けれど、御坂の口元が動き、上条が顔をしかめていることは分かる。
数秒後、二人は画面の外へ進んだ。
映像が切り替わる。
別の監視カメラ。
路上には、血を流して倒れた御坂美琴が映っていた。
そのすぐ横を、一人の学生が歩いていく。
学生は彼女を避けた。
倒れている身体を踏まないよう、進路をわずかに変えている。
続いて自転車が通った。乗っていた少年も、路面の血だまりを避けてハンドルを切った。
店舗から出てきた女性は、御坂の身体へ一瞬だけ顔を向けたあと、何事もなかったように端末を操作しながら歩き去った。
見えていない者の動きではなかった。
全員が、そこに人が倒れていると分かっていた。
「映像解析では、対象を視覚的に認識したと推定できる行動が複数確認されています」
解析担当者の声だけが、室内に響いた。
「進路変更、視線移動、歩幅の調整。血液への接触回避。少なくとも、御坂美琴の身体も血痕も、知覚そのものから消えてはいません」
「なら、なぜ通報しなかった」
「それを調べています」
警備員の男が映像を止めた。
画面には、倒れた御坂美琴と、その横を通り過ぎようとしている上条当麻が映っていた。
上条もまた、彼女を避けていた。
足元を見て、身体を横へずらしている。
その時点では、美琴だと気づいていない。
倒れている少女を見ていながら、助けるべき人間だと理解していなかった。
「本人の証言は?」
「映像と一致しています」
捜査員は資料をめくった。
「倒れている人間を見た記憶がある。血を見た記憶もある。避けて通った身体感覚も残っている。しかし、その時は何もおかしいと思わなかった」
「ほかの目撃者も?」
「表現には差がありますが、内容はほぼ同じです」
映像が再生される。
上条が数歩進む。
画面の端で立ち止まり、振り返る。
そこから先は、ほかの通行人とは違っていた。
倒れている少女へ駆け寄り、膝をつく。周囲へ声を上げ、救急要請を求める。
「上条当麻だけは途中で気づいた」
「きっかけは?」
「御坂美琴の声を聞いたと証言しています」
「音声による解除?」
解析担当者はすぐには答えなかった。
「解除と断定するのは早いでしょう。能力の停止、作用範囲からの離脱、条件の変化、対象側の抵抗。候補はいくつもあります」
「しかし、上条当麻が気づいた直後から、周囲の人間も騒ぎ始めている」
「正確には同時ではありません」
別の画面に時系列が表示された。
上条が振り返った時刻。
美琴へ駆け寄った時刻。
周囲の人間が足を止めた時刻。
最初の通報が行われた時刻。
数秒ずつ、ずれていた。
「上条当麻の行動を見て異常だと判断した可能性は?」
「それだけでは説明できません。現場から離れていた人間も、後になって自分が見たものの意味を思い出しています」
「思い出した?」
「記憶が戻った、と表現する者が多い。しかし実際には、記憶そのものが消えていたわけではないと考えられます」
解析担当者は、証言記録の一つを表示した。
通行人の女子生徒。
彼女は、赤い水たまりを避けた感覚を覚えていた。制服姿の少女が地面に横たわっていたことも覚えていた。
ただし、その二つを結びつけていなかった。
血だまりと、倒れた人間。
本来なら即座につながるはずの情報が、彼女の中では別々の、気に留める必要のないものとして処理されていた。
「認識へ介入する能力」
警備員の男が言った。
「その可能性が高いと考えています」
「精神系能力者の照合は」
「既知の能力者については進めています。ただし、現在確認できている現象は、一般的な記憶操作や心理誘導とは一致しません」
「どこが違う」
「対象者の行動です」
映像の中で、人々は御坂美琴を避け続けていた。
「対象を見えなくするだけなら、衝突や踏みつけが起きるはずです。存在を忘れさせたなら、血液まで避ける理由がない。恐怖心を抑制しただけなら、倒れている人物を確認する行動は残るでしょう」
「見えていた。理解もしていた。しかし、それを異常だと判断する部分だけが抜け落ちた」
「現時点では、その表現が最も近い」
加藤がモニターを見た。
そこには、三十二人分の証言が並んでいた。
誰も嘘をついていない。
誰も、御坂美琴の存在を忘れていない。
全員が見た。
全員が避けた。
全員が、何もしなかった。
「機械はどうなんです」
加藤が尋ねた。
「人間だけに作用したなら、監視システムが異常を検知しているはずでしょう」
解析担当者は次の資料を表示した。
歩行者監視。交通管制。店舗防犯。清掃ロボットの走行記録。道路上の障害物を判定する複数のセンサー。
「記録は残っています」
「警報は?」
「出ていません」
「故障ですか」
「いずれの機器にも、故障記録はありません」
加藤の眉間に皺が寄った。
「人間と機械が、同じものを見て、同じように問題なしと判断した?」
「そうなります」
「そんな能力があるんですか」
解析担当者は答えなかった。
知らないのではなく、断定できない者の沈黙だった。
その沈黙を、法医学者が破った。
「こちらも確認を進めます」
法医学者は御坂美琴の傷へ視線を戻した。
「ただし、認識への介入があったとしても、それは救助が行われなかった理由です。傷が生じた理由ではありません」
室内の空気が変わった。
「どういう意味です」
「この傷を負わせた方法が、まだ説明されていないという意味です」
法医学者は保存されていた衣服の画像を表示した。
制服には大きな損傷がある。血液も付着している。
しかし、傷口と衣服の裂け方は完全には重ならなかった。
「身体の損傷に対して、衣服側の変形が不自然です。また、創の方向をそのまま現場へ当てはめると、加害者は被害者の極めて近くにいなければならない」
「映像には?」
「それらしい人物はいません」
「死角は」
「あります。ただし、攻撃の前後に被害者へ接近し、離脱できる経路が現場記録と一致しません」
警備員の男が映像を巻き戻した。
御坂美琴が画面の外へ出る。
次のカメラには、すでに倒れた状態で映る。
その間に何が起きたのかは記録されていない。
だが、死角の周囲を映すほかのカメラには、彼女へ近づく人物も、逃げていく人物も残っていなかった。
解析担当者が、監視映像と目撃証言を別々の画面へ並べた。
「認識への介入があれば、犯人が映っていても見落としている可能性があります」
「なら、映像を機械的に抽出すればいい」
「すでに実行しています。人物検出、動体抽出、温度分布、重量センサー、通信端末の移動記録。現場へ入った人物と出た人物の数も照合中です」
「結果は」
「現時点では、犯行を成立させる人物を特定できていません」
認識へ干渉する能力だけでは、傷は生まれない。
誰にも異常だと思わせずに御坂美琴を倒すことができても、その身体へ致命傷を与えた何かは必要になる。
凶器。
接触。
攻撃した位置。
現場へ入った犯人と、そこから離れた犯人。
本来なら残るはずのものが、どこにもなかった。
警備員の男は端末へ新しい指示を入力した。
目撃証言の再整理。
現場映像の全系統解析。
傷口と現場位置の再現。
AIM拡散力場の記録照合。
既知の精神系能力者だけでなく、空間移動系、遠隔攻撃系、物質生成系まで対象を広げる。
認識への干渉は、すでに疑う段階を過ぎていた。
次に調べるべきなのは、その干渉によって何が隠されたのかだった。
法医学者は再び、御坂美琴の身体へ向き直った。
加藤も視線を戻した。
倒れてから、助けられるまでの時間。
誰もが彼女を見ていた時間。
そして、誰もいない場所から傷だけが現れたように見える、その瞬間。
解剖室では、記録装置の作動音だけが続いていた。