最初に気づいたのは、買い物袋だった。
それも、警備員でも、能力解析の人間でもない。
上条当麻だった。
「……そこ、止めてくれ」
再生されていた映像が止まる。
小さな確認室だった。
壁際に並んだ機器と、中央の机。照明は落とされていないが、正面のモニターが明るいせいで部屋全体が薄暗く感じる。
上条は机の向こうにある画面を見ていた。
白井黒子は二席ほど離れた場所に座っている。
警備員が端末から手を離した。
「どこです?」
「今のとこ。御坂が映ってるところ」
数秒だけ戻される。
再生。
画面の端から二人の学生が入ってきた。
一人は上条当麻。
もう一人は御坂美琴。
九月上旬。
まだ暑さの残る午後。
音声はない。
上条が何かを言って、美琴が顔を向ける。
美琴の手にはアイスがある。
そして肩には、白い買い物袋。
「これ」
上条は画面を指した。
「俺のだ」
「買い物袋ですか?」
「ああ」
警備員が手元の記録を確認する。
「事件後に回収されたものと?」
「多分、同じだ」
「多分?」
「中身まで覚えてるわけじゃねえ。でも俺があいつに持たせた」
その感触は覚えていた。
暑い。
片手にアイス。
荷物が邪魔だった。
そんな程度のことだったはずだ。
美琴へ袋を渡した。
そこまでは、もう思い出している。
「その場面は別の映像にもあります」
警備員が切り替える。
コンビニの出入口。
二人が店を出てくる。
上条が袋を持っている。
何かを言う。
美琴がこちらを向く。
上条が袋を差し出す。
美琴が受け取る。
肩へ掛けた。
黒子の視線がそこで止まった。
映像の中の美琴は、ごく普通に歩いている。
死ぬ前の人間には見えない。
当然だ。
あの時はまだ。
何も起きていなかったのだから。
「……続けてくださいまし」
黒子が言った。
声は静かだった。
映像が進む。
二人がカメラの外へ出る。
別の記録へ切り替わる。
少し先の店舗。
やはり二人で歩いている。
美琴の肩には袋。
次。
道路側の監視記録。
街路樹の枝が画面の一部を隠している。
二人が画面の奥を横切る。
まだ美琴が持っている。
「その後は?」
上条が訊く。
「確認できている映像を時系列に並べます」
さらに切り替わった。
今度は上条だけが映っている。
それを見ても。
もう上条は驚かなかった。
御坂と一緒にいた。
その後、自分は一人で歩いていた。
そのこと自体は、すでに知っている。
問題は。
「……袋」
上条が呟いた。
画面の中の自分。
左手に。
買い物袋がある。
「戻してくれ」
戻す。
美琴。
肩に袋。
「進めて」
上条一人。
左手に袋。
「間は?」
「直接連続して撮影しているカメラはありません」
「じゃなくて」
上条は額へ手を当てた。
「俺だよ」
警備員は黙って待った。
上条は目を閉じる。
思い出す。
道路。
暑さ。
足元。
白い袋。
屈んだ。
取っ手を掴んだ。
持ち上げた。
「……拾ってる」
「何を?」
「この袋」
黒子が上条を見る。
「どこでですの?」
「道」
それ以上の場所は、すぐに出てこない。
けれど行動だけは残っていた。
「落ちてたから、拾った」
警備員が記録を取る。
「御坂さんから返却された記憶は?」
上条は答えようとして、
止まった。
探す。
御坂へ渡した。
覚えている。
歩いた。
覚えている。
袋を拾った。
覚えている。
返してもらった。
――それがない。
「……ねえ」
「返却された覚えはない?」
「違う」
上条は首を振った。
「覚えてないって感じじゃねえ」
記憶には、曖昧なところがいくらでもある。
会話だって全部は思い出せない。
どの道を何歩歩いたかなんて覚えているはずもない。
けれど。
袋については違った。
「俺は御坂に渡した」
「ああ」
「その後、道に落ちてるのを俺が拾った」
自分で口にした二つの事実が。
初めて横に並んだ。
上条の眉が寄る。
「……あいつから返してもらってねえ」
黒子が僅かに身を乗り出した。
「本当に?」
「ああ」
「ですが、上条さん。途中の記憶が完全ではないのでしょう?」
「だからって」
言い返しかけて。
止まる。
黒子の言うことは正しい。
記憶だけなら。
自分が忘れている可能性は残る。
警備員も同じ判断だった。
「映像にも空白区間があります。ここだけでは、返却が行われなかったとは断定できません」
「……分かってる」
上条は画面へ目を戻す。
美琴が袋を持っている。
次に確認できる自分は袋を持っている。
その間は映っていない。
だから。
証拠にはならない。
ただ。
気持ちが悪かった。
何かを忘れているからではない。
もっと単純なこと。
渡した。
拾った。
その二つを、事件の直後から自分は別々に覚えていた。
なのに今日まで。
一度も、
その間を考えようとしなかった。
「……何でだ」
上条が呟く。
「何がですの?」
「俺、これ思い出してたんだぞ」
黒子を見る。
「御坂に袋渡したのも、後で拾ったのも」
「ええ」
「なのに」
上条は再び画面を見る。
「おかしいって、今まで思わなかった」
部屋が静かになった。
警備員がメモを取る音だけが聞こえる。
黒子はすぐには答えなかった。
「……それは」
言いかける。
だが続けない。
能力。
記憶操作。
精神干渉。
そういう名前を置くのは簡単だった。
けれど。
名前を置いたところで、分かったことにはならない。
「次の映像へ進めます」
警備員が言った。
上条は頷く。
現場付近。
事件当時の記録。
歩道を人が行き交っている。
何人もの学生。
自転車。
配送用の小型ロボット。
無人清掃機。
その中に。
御坂美琴がいた。
倒れている。
黒子の呼吸が止まったのが分かった。
上条の胃が縮む。
画像で見る。
それだけで。
あの時の匂いまで戻りそうになる。
血。
熱い路面。
自分の手。
それでも目は逸らさなかった。
学生が一人歩いてくる。
美琴へ近づく。
少し横へずれる。
そのまま通り過ぎる。
次の人間も。
同じだった。
足を止めない。
だが。
美琴の身体にはぶつからない。
血の濃い場所を踏まない。
「…………」
黒子が何も言わず見ている。
次。
自転車。
少し膨らむ。
通る。
次。
無人清掃機。
直進。
接近。
軌道修正。
通過。
「止めてくださいまし」
黒子が言った。
映像が止まる。
「今の機械は」
「清掃用の自律機です」
「何故、曲がりましたの?」
「走行ログを確認します」
端末を操作する。
数秒。
「経路補正が入っています」
「理由は?」
「当時の記録では通常補正」
「通常?」
「歩行者、路面状態、既定ルートとの差分などを含めた自動調整です」
「では、何を避けたかまでは?」
「現時点では特定できません」
黒子は少し黙った。
「もう一度」
再生。
清掃機が曲がる。
今度は、その先にある美琴を見る。
「……人だけではありませんのね」
「白井」
上条が呼んだ。
黒子はそれ以上言わなかった。
警備員も結論は出さない。
映像を進める。
そして。
上条自身が現れる。
普通に歩いている。
前を見る。
一歩。
もう一歩。
進路が僅かにずれる。
美琴の横を通る。
止まらない。
映像の中の上条は。
何もせずに歩いていった。
上条は机の端を握った。
指に力が入る。
それでも。
声は出さなかった。
前なら。
きっと言っていた。
俺が。
もっと早く。
あの時。
何度考えたか分からない。
だが今見ている映像は。
別のものを突きつけていた。
自分の前を歩いた学生も。
後から来た人間も。
自転車も。
機械さえも。
そこにあるものへ反応している。
「……見えてた」
上条が言った。
黒子が顔を向ける。
「俺は見てた」
画面の中の自分を見る。
「御坂を」
少し置いて。
「多分、みんなも」
避けている。
なら。
少なくとも何かは認識していた。
何も見えていなかったわけではない。
誰もそこにいないと思って、身体の上を踏んで歩いたわけではない。
それなのに。
誰も助けなかった。
黒子が目を伏せる。
「……あの場にいた方々を責めることは、できませんわね」
声は硬かった。
「お姉様を避けたということは、何かを見ていた。ですが誰一人として、それを救助の必要な人間として扱えなかった」
「…………」
「わたくしだったとしても」
そこで。
黒子の声が止まった。
拳が膝の上で震えている。
それ以上は言わなかった。
もし自分がそこにいたら。
助けられただろうか。
そんな問いには。
まだ誰も答えられない。
映像が進む。
一人の男が足を止めた。
加藤則祐。
振り返る。
駆け寄る。
その直後。
映像の中の上条が反応した。
走り出す。
ここからは覚えている。
嫌というほど。
「ここでいい」
上条が言った。
映像が止まる。
しばらく。
誰も動かなかった。
警備員が端末を閉じる。
「今日確認した内容は、改めて解析側へ回します」
上条は頷いた。
「袋のことも?」
「供述として記録します」
「証拠には?」
「現状では」
警備員は少し言葉を選んだ。
「御坂さんが持っていたこと。後の映像では上条君が所持していること。上条君には路上から拾った記憶があること。それぞれは事実として扱えます」
「でも」
「それ以上はまだです」
上条は。
「……そっか」
とだけ答えた。
それでよかった。
分からないものを。
分かったことにする必要はない。
黒子が立ち上がる。
けれど出口へは向かわなかった。
「最初の映像を」
「白井?」
「もう一度だけ、お願いできます?」
警備員が映像を戻す。
コンビニの前。
上条。
美琴。
上条が袋を差し出す。
美琴が受け取る。
肩へ掛ける。
そのまま二人で歩き出す。
黒子は黙って見ていた。
「……本当に」
ぽつり。
「普通ですのね」
上条は答えなかった。
普通だった。
何の前触れもない。
御坂美琴は歩いている。
話している。
上条の荷物を持っている。
その映像自体には。
何一つおかしいところがない。
だからこそ。
上条は思う。
事件が起きた瞬間を探すより前に。
自分たちはまだ。
あの日、
何を見ていたのかさえ、
ちゃんと分かっていない。