上条当麻の右手から。
血の匂いが消えなかった。
何度洗ったのかは覚えていない。
特殊医療及び法医学研究施設の洗面台で。
石鹸を付けて。
爪の間まで擦って。
皮膚が赤くなるまで水を流した。
それでも。
指を曲げるたびに。
御坂美琴の身体から失われていった温度が、掌の奥から滲み出してくる。
「気分は」
隣から声がした。
上条は顔を上げないまま答える。
「分かりません」
「吐き気は」
「ないです」
「頭痛」
「少し」
「眠気は」
「……ない」
加藤則祐は、それ以上を聞かなかった。
白井黒子は。
常盤台から来た職員へ引き渡された。
最後まで施設へ残ると言い張り。
それでも。
自分が上条を見張る余裕すらないことを理解して。
何も言わずに背を向けた。
夜の第七学区を、一台の車が走っている。
窓の外では。
昼間と同じ学園都市が、何事もなかったように光っていた。
自動運転バス。
閉店準備を始めた店。
コンビニの白い看板。
歩道を行き交う学生たち。
御坂美琴が死んでも。
信号は変わる。
店は閉まる。
誰かが笑う。
そのことを不自然だと思う資格が、自分にあるのか分からなかった。
上条も。
美琴が血を流していた時に。
その隣を歩いていたのだから。
「どこに向かってるんですか」
「私の家だ」
上条が、ようやく隣を見た。
「病院じゃなくて?」
「君は今夜、病院にも寮にも一人で帰せない」
「俺は大丈夫です」
「そうか」
否定も。
同意もされなかった。
加藤は前を見たまま続ける。
「なら、大丈夫な人間として、今夜だけ医師の経過観察に付き合ってくれ」
「……それ、言い方がずるくないですか」
「大人は、子供を生かしておくためなら多少ずるくなる」
上条は何も答えなかった。
車は大通りを外れた。
窓に映った自分の顔が。
知らない人間のものに見えた。
◇
加藤の自宅は。
第七学区の外れにある、ごく普通の集合住宅だった。
特殊な医療設備も。
隠された研究室もない。
玄関には大きな運動靴が一足。
廊下の壁には、使い込まれたトレーニングチューブ。
居間の隅には、折り畳まれたエアロバイク。
棚には医学書と心理学の本が並び。
その横に。
黒い缶ビールが何本か置かれていた。
生活している人間の家だった。
白い廊下ではない。
金属の台もない。
扉の向こうで。
誰かが御坂美琴の身体を切り開いている場所でもない。
「靴を脱いで、そこへ座ってくれ」
加藤が台所を指す。
「食べられるか」
「いらないです」
「食べられるか、と聞いた」
上条は少し黙った。
「……分かりません」
「では、少量だけ用意する。食べられなければ残せばいい」
冷蔵庫が開く。
鍋に水が入る。
火が点く。
あまりにも普通の音がした。
上条は椅子へ座った。
両手を膝へ置く。
けれど。
右手だけが、そこに収まらなかった。
指先を見る。
洗い落としたはずの赤がある。
掌の皺に。
爪の間に。
濡れた制服の感触がある。
浅い呼吸。
冷たくなっていく指先。
――もう少し早ければ。
椅子が鳴った。
上条が立ち上がりかけていた。
どこへ行くつもりだったのか。
自分でも分からない。
「上条君」
加藤の声が届く。
大きくも。
強くもない。
「床は何色だ」
上条は答えられなかった。
「見えるものだけでいい」
視線を落とす。
血はない。
白くもない。
「……茶色」
「足の裏は」
「床に、付いてる」
「椅子は」
「後ろです」
「ここはどこだ」
上条は息を吸った。
空気が喉へ引っ掛かる。
それでも。
「加藤先生の、家」
「そうだ」
鍋の中で湯が沸き始めた。
「今は、あの歩道ではない」
加藤はそれだけ言った。
大丈夫とも。
忘れろとも言わなかった。
上条は、もう一度椅子へ座った。
しばらくして。
湯気の立つスープと、小さな茶碗がテーブルへ置かれた。
「熱いから気を付けろ」
上条は箸に触れなかった。
加藤も急かさなかった。
壁の時計だけが。
秒針を進めていた。
◇
「上条君」
どれほど時間が経ったのか。
加藤が呼んだ。
白衣は脱いでいる。
黒いシャツの袖を肘までまくり。
その大きな手に。
透明な保管袋を持っていた。
「君に見せたいものがある」
上条は顔を上げる。
袋の中に入っていたのは。
一枚のカードだった。
常盤台中学の校章。
生徒番号。
小さな顔写真。
茶色い髪。
少し不満そうに結ばれた唇。
御坂美琴。
その名前の上を。
乾いた血が横切っていた。
上条の呼吸が止まる。
椅子の脚が床を擦った。
「触らなくていい」
加藤が言う。
「まず、見える範囲だけ見ろ」
上条は。
カードから目を離せなかった。
美琴の写真は。
あの日のように怒っても。
笑っても。
文句を言ってもくれない。
血の下で。
ただ同じ顔をしている。
「……どこにあったんですか」
「彼女の制服の内側だ」
「証拠品、ですよね」
「ああ」
「何で、先生が持ってるんですか」
加藤はすぐには答えなかった。
透明な袋をテーブルへ置く。
「持ち出した」
短く。
そう言った。
「遺体安置所から」
上条の目が細くなる。
「それは」
「やってはいけないことだ」
加藤は先回りして言った。
「証拠保全の手順に反する。発覚すれば、私は解剖への立ち会いから外される。医師としての立場も問われるだろう」
「だったら、どうして」
「誰も、これを証拠として扱えなかった」
上条の言葉が止まる。
加藤は。
学生証の端を指した。
「最初は、制服から回収された。担当者が番号を読み上げ、別の人間が記録し、保管袋へ入れた」
「……普通じゃないですか」
「その三分後、記録から消えていた」
時計の音だけが響く。
「データが削除されたわけではない。担当者は入力した記憶を持っていた。端末にも操作履歴が残っていた。だが、証拠品の一覧には最初から存在しないことになっていた」
加藤は続ける。
「別の担当者が袋を見つけた。未処理だと思って、もう一度登録した。今度は一覧へ表示された」
「今度は?」
「表示を見た全員が、処理済みの私物だと判断した。血が付いているのに。被害者の制服から出てきたのに。誰も疑問を持たなかった」
上条の右手が。
膝の上で握られる。
「三度目は、床へ落ちていた」
加藤の声は穏やかだった。
だからこそ。
その異常さだけが残った。
「職員が何人もその横を通った。全員が見ていた。足をずらして、踏まないように避けてもいた。それでも、拾わなかった」
あの歩道と。
同じだった。
血の中に倒れていた美琴を。
見て。
避けて。
それでも。
意味へ結び付けられなかった。
「俺は」
声が掠れた。
「俺も、同じように」
「今は、その話をしていない」
加藤が遮る。
強くはない。
だが。
逃げ道を与える声でもなかった。
「君を責めるために見せたのではない。この学生証そのものが、まだ同じ異常の中にある」
「だから持ち出した?」
「証拠を証拠として保管できない場所に置いておく方が、危険だと判断した」
「それでも、何で俺に」
加藤の視線が。
上条の右手へ落ちる。
「君の右手なら」
そこで一度。
言葉を切った。
「この異常だけを、壊せるかもしれない」
◇
加藤は。
もう一つ、小さな袋を取り出した。
中には。
薄い検査片が入っている。
透明に近い素材の中央へ。
淡い灰色の線が浮かんでいた。
「解剖の際、創縁の一部から未知の反応が出た」
「未知の、反応」
「既知の物質でも、通常のAIM残留でもない。質量を持つ粒子として回収できないのに、能力反応だけが空間へ残っている」
「空間に?」
「反応そのものは、現場の周囲にも薄く広がっている。だが、創縁の近くだけ波形が二重に折り返していた」
加藤は検査片を学生証の上へ近付ける。
灰色の線が。
わずかに濃くなった。
「同じ反応が、この学生証からも出ている」
「血が付いてるからじゃ」
「血液だけでは出ない。採取して分離した血液では、同じ波形を再現できなかった」
加藤は。
血の付いていない裏面を示した。
「反応は、こちらにもある」
「じゃあ」
上条はカードを見る。
「こいつが、犯人の能力に触った」
「その可能性がある」
加藤は断定しない。
ただ。
確認できた事実だけを置く。
「道路からは?」
「反応はある。だが、同じ重なり方をしていない」
「御坂の下にあった血は」
「創部へ近い血液の一部を除けば、時間とともに急速に薄れている。路面、壁、周囲の衣服、通行人の靴からも、犯行過程を説明できる重なりは見つかっていない」
「監視カメラには」
「君も見ただろう」
見た。
美琴へ袋を渡した。
その後。
返してもらっていない。
それなのに。
自分は袋を持っていた。
美琴がいない時間だけ。
因果が切れていた。
そして。
次の映像では。
傷付いた美琴が。
最初からそこに倒れていた。
その間に。
犯人はいない。
凶器もない。
攻撃もない。
何も存在しないのに。
傷だけが存在した。
「右手の、人差し指だけで触れてくれ」
加藤が言う。
「端の、血が付いていない部分へ」
「消えたら」
「触れた範囲の反応は失われる」
「証拠を壊すことになる」
「その前に位置と反応強度は記録した。残りの部分には触れない。君が嫌なら、ここで止める」
上条は右手を見た。
この手は。
御坂美琴を助けられなかった。
血を止めることも。
裂けた身体を元へ戻すこともできなかった。
けれど。
あいつを殺した何かへ。
この手だけが触れられるかもしれない。
「やります」
答えは。
考えるより先に出ていた。
加藤が保管袋を開く。
金属製のピンセットで。
学生証の端だけを外へ出す。
上条は右手を伸ばした。
指先が。
カードへ触れる。
その瞬間。
ぱきん。
小さな音がした。
光はない。
カードが壊れたわけでもない。
乾いた血も。
美琴の写真も。
そこに残っている。
ただ。
検査片に浮かんでいた灰色の線が。
上条の指先が触れた角だけ。
鋭く欠けた。
加藤は数秒。
その部分を見つめていた。
「異能だ」
初めて。
そう断定した。
「この学生証には、確かに何かが残っていた」
上条は指を離した。
触れた感触は。
ただの硬いカードだった。
それでも。
幻想殺しは。
そこに何かがあったことを否定しなかった。
否定したのは。
そこに残っていた異能だけだった。
◇
上条は。
長い間、学生証を見ていた。
「こいつは、御坂の制服の中にあった」
「ああ」
「俺の袋は、御坂が持ってた。でも、映像の途中で地面に落ちて、俺が拾った」
「そうだ」
「制服は御坂と一緒に戻ってきた。学生証も」
加藤は答えない。
上条の言葉を。
最後まで待っている。
「でも、袋は置いていかれた」
身体に付いていたもの。
置いていかれたもの。
戻ってきたもの。
戻らなかった過程。
何が違う。
どこで分かれた。
「御坂は、あの場所からいなくなったんじゃない」
上条が呟く。
「どういう意味だ」
「移動したなら、どこかへ出て、どこかから戻る。テレポートなら、消える前と現れた後の間に距離がある。でも御坂は、同じ場所へ戻ってきた」
映像の中で。
歩道の位置は変わっていない。
上条が通り過ぎた、その場所へ。
美琴の身体だけが戻っている。
「あいつがいなかった間も」
上条の声が低くなる。
「本当は、同じ場所にいた」
「同じ場所にいた人間を、誰も見られなかった?」
「見えなくしたんじゃない」
上条は首を振る。
透明化では。
傷が生まれる過程までは消えない。
凶器が触れれば。
血が飛べば。
音が出れば。
何かが通常世界へ残る。
だが。
何もない。
存在していない。
その不在だけが。
あまりにも完全だった。
「御坂だけじゃない」
上条は言った。
「御坂を傷つけたヤツも。凶器も。血が出た瞬間も。あの時間だけ、全部こっちにはなかった」
加藤の目が細くなる。
「犯行の瞬間だけ、別の場所にあったと?」
「違う」
上条は。
学生証へ視線を落とす。
血の付いたカード。
美琴と一緒に戻ってきた。
向こう側に触れた。
最初の物証。
「別の場所じゃない」
同じ道路。
同じ歩道。
同じ座標。
それでも。
こちらからは存在しない場所。
「同じ場所の、向こう側です」
部屋が静まり返った。
時計の秒針。
冷め始めたスープ。
窓の外を通り過ぎる車の音。
それら全てが。
今までと同じ世界にある。
そのすぐ隣に。
誰にも見えず。
誰にも触れず。
人一人を殺せる場所が重なっているかもしれない。
「……今すぐ、現場へ戻ります」
上条が立ち上がる。
加藤の手が。
透明な袋の上へ置かれた。
学生証を守るように。
「戻って、何をする」
「探します」
「何を」
「境目を」
「見えるのか」
上条は答えられなかった。
「触れられるのか」
それも。
まだ分からない。
「犯人が待っている可能性は」
「それでも」
「殺すつもりか」
言葉が。
そこで止まった。
ほんの少し前。
上条は。
自分の中に生まれたものへ、既に名前を付けていた。
殺意。
御坂美琴を殺した人間を。
自分の手で。
二度と戻れないところまで壊したいという感情。
上条は。
否定できなかった。
加藤も。
否定しろとは言わなかった。
「今、答えられないことを責めるつもりはない」
静かな声だった。
「だが、答えられないまま君を現場へ行かせることもできない」
「先生には関係ない」
「ある」
初めて。
加藤の声が強くなった。
「私は今日、君の手から患者を引き継いだ」
上条の肩が揺れる。
「そして、救えなかった」
加藤の手が。
わずかに握られる。
その声は落ち着いている。
落ち着いているからこそ。
その下に押し込められたものが見えた。
「君が、あの子を救えなかった責任を一人で背負うのなら。私にも、救えなかった医師として背負う責任がある」
上条は何も言えない。
「君の右手が必要だと言う人間は、これからいくらでも現れるだろう」
加藤は続ける。
「君にしかできない。次の犠牲者を防ぐためだ。そう言えば、君が断れないことを知った上で」
上条の右手を見る。
「だが、君は観測装置ではない」
一言ずつ。
確かめるように言う。
「武器でもない」
「先生」
「少なくとも、私の前では患者だ」
上条の身体から。
少しだけ力が抜けた。
「今夜は行かせない」
「犯人が動いたら」
「今の君が倒れても、犯人は止まらない」
「でも」
「食べろ」
加藤は。
冷めたスープを指した。
「全部でなくていい。三口だ」
あまりにも。
場違いな言葉だった。
だから。
上条は反論できなかった。
ゆっくりと椅子へ座る。
スプーンを持つ。
一口。
味は分からない。
二口。
喉が拒んだ。
それでも。
三口目を飲み込んだ。
加藤は。
よくやったとも。
大丈夫とも言わなかった。
ただ。
学生証を新しい保管袋へ戻した。
◇
その夜。
上条当麻は眠れなかった。
居間のソファへ横になり。
暗い天井を見上げていた。
加藤は隣室にいる。
扉は閉じられていない。
眠れと言われても。
目を閉じるたびに。
御坂美琴が血の中へ戻ってくる。
それでも。
上条は立ち上がらなかった。
テーブルの上には。
透明な袋に入った学生証がある。
犯人の顔は映っていない。
名前もない。
指紋もない。
凶器もない。
ただ。
本来なら存在するはずのものが。
何一つ存在していない。
その不在だけが。
犯人が作った境界の形を示していた。
犯人は。
現場から逃げたのではない。
犯行の瞬間だけ。
この世界の現場に存在していなかった。
ならば。
探すべきものは、最初から人影ではない。
人が消えた境目だ。
上条は。
暗闇の中で。
自分の右手を握った。
この手は。
御坂美琴を救えなかった。
けれど。
あいつを奪った世界の継ぎ目へ。
届くかもしれない。
その可能性だけが。
眠れない夜の底で。
初めて見つけた。
犯人へ続く道だった。