いじめられっ子にとりついたのは、異世界帰りの経済ヤクザ。理想の未来はヒラ公務員だったのに、裏社会での成り上がりが止まらない―蝉原勇吾は怖すぎる― 作:閃幽零
8話 こんなのはじめて。
愛羅に腕を掴まれたまま、僕は体育館まで連れていかれた。
当然のように、後ろには大量の生徒たちがついてきている。
体育館の中に入りきれなかった連中は、入り口や窓の外からこちらを覗き込んでいた。
完全に見世物。
ちなみに、もちろん、セフィアさんも僕をガン見している。
彼女は瞬きというものを知らない。
――体育館の中央まで来ると、愛羅はようやく僕の腕を離した。
壁際では、滝本が腕を組んでこちらを見ている。
「それじゃあ、始めようか」
愛羅が軽く首を鳴らす。
その姿には、無駄な力みが全くなかった。
素人の僕でも分かる。
目の前にいる女は、滅茶苦茶強い。
まともに向き合うだけで、足がすくみそうになる。
今すぐ帰りたい。
そんなことを考えていると、壁際から滝本の声が飛んだ。
「蝉原! そのデカくてキモい人、殺しちゃえ!」
体育館の空気が、一瞬で凍りついた。
愛羅の眉がぴくりと動く。
ゆっくりと振り返った彼女は、滝本を鋭く睨みつけた。
言葉は交わさない。
瞳だけで雄弁に罵り合っている。
愛羅は一度大きな舌打ちをすると、再びこちらへ向き直る。
「さて」
そう言って、愛羅が一歩前に出た。
目の前に猛獣がいる、と思った。
「構えもしないの? ナメられたものね」
愛羅が踏み込んだ。
次の瞬間には、もう目の前にいた。
「え?」
速い。
そう思った時には、すでに遅かった。
愛羅の拳が、僕の腹に吸い込まれるように突き刺さる。
衝撃で息が止まった。
肺の中の空気が、無理やり全部吐き出される。
膝から力が抜け、視界がぐにゃりと歪んだ。
痛いというより、苦しい。
何が起きたのか理解する前に、僕はその場に崩れ落ちた。
遠くで、誰かの声が聞こえる。
「え?」
「終わった?」
「今ので?」
「え? 総長ってむちゃくちゃ強いよな?」
「あ、でも、女の子を殴っているところは見たことないかも……」
愛羅も驚いたような顔をしていた。
「ちょっと……蝉原? 冗談はその辺にしてくれる? こんな、軽く殴っただけで気絶するわけな――蝉原?」
それが記憶に残る最後。
僕の意識は、そのまま暗闇へ沈んでいった。
★
――気づくと、天井が白かった。
保健室。
鼻をつく消毒液の匂い。
ぼんやりとした意識のまま瞬きを繰り返し、
ようやく自分がベッドに寝かされていることを理解する。
「ぁ、起きた」
すぐ近くから声がした。
顔を向けると、愛羅が椅子に座っていた。
反対側には滝本がいる。
で、壁際にセフィアさんがいた。
滝本と愛羅の二人は腕を組みながら、じっとこちらを見下ろしており、
セフィアさんは、両手をフリーにして、ジっと僕をガン見している。
「なんで、ちゃんと戦わない? まさか、女だから、とでもいうつもり?」
愛羅が静かに言った。
怒っているようにも見えるし、不満そうにも見える。
たぶん、どちらも正解なのだろう。
僕は言葉に詰まった。
ケンカの一つもしたことがない僕が、まともに戦えるわけがない。
けれど、それを正直に言えば、余計に面倒なことになりそうだった。
なめるな、とか、嘘をつくな、とか、そういう話になるのは分かり切っている。
だから僕は、必死に考える。
蝉原なら、なんて言うだろう。
蝉原っぽい言葉。
強そうで、意味深で、なんとなくそれらしく聞こえるメッセージ。
「……あなたは既に、僕のナイフで首を刺された……だから、その……ケジメ? みたいなやつは、とってもらっている。だから……もう、手は出さない……基本的には、ね」
愛羅は黙って僕を見ている。
僕はあせって、あわあわしながら、続けて、
「あなたは強いから、ちゃんとやると、殺してしまうかもしれない。そ、それは……個人的に無し……だから」
「……」
保健室が静まり返った。
僕の心臓だけが、やけにうるさい。
数秒後、滝本が呆れたように口を開いた。
「蝉原さぁ……女に甘すぎない? こんなイカれた女に配慮する必要ないって」
君も大概イカれた女で、蝉原に配慮されているけどね。
そこで、愛羅がゆっくりと立ち上がった。
愛羅はベッドのそばまで近づいてくると、僕の顔を両手で挟んだ。
「え?」
次の瞬間、唇が重なった。
「――っ!?」
頭が真っ白になる。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
言うまでもなく、もちろん、ファーストキス。
なんで、こんなわけのわからない状況で、大事な初めてを失わないといけないんだ……
愛羅は数秒だけ僕にキスをして、それからゆっくりと顔を離した。
「あたしはもっと強くなる。あなたがあたしを殺してしまう不安がなくなるくらい。……その時は、もう一度手合わせしてくれる?」
「え、いやー、それは……どうなんでしょう……」
狼狽していると、そこで、滝本が、
「負けるの嫌だから」
真剣な目で、そう言いながら、
そのまま、僕にキスをした。
「――――」
脳が完全に停止した。
愛羅の眉がぴくりと動く。
滝本は敵意むき出しの顔で愛羅を睨んでいる。
二人の視線が、空中でぶつかる。
バチバチと燃えるような……とても保健室とは思えない空気。
先生がいないのをいいことに、二人ともまったく遠慮がない。
僕はベッドの上で固まったまま、その光景を眺めるしかなかった。
もう帰りたい。
本当に帰りたい。
(蝉原……交代して……もう嫌だよ……)
完全に無視された。
あの野郎、絶対に聞こえている。
そして、絶対に面白がっている。
なんて最低な野郎なんだ……
まるでヤクザじゃないか……
僕は泣きそうになりながら、再び睨み合いを始めた二人を見つめるしかなかった。
ちなみに、二人にキスされている間も、セフィアさんはずっと僕を見てた。
微動だにせず、表情を変えず、瞳孔も一定のまま。
こわいよぉ……