首だけ回して隣にあるモニターを覗けば、そこには哀れな被験者のデータが映されている。
名前は三島 八咫(ミシマ・ヤタ)、黄色の瞳、濡羽色の髪と同じ色の羽根を持った、ハイティーンのカラスのシリオン……自分の事だ。
………自分には高いエーテル適性がある。
それを知った時、ヤタは少しだけ、自分の人生が変わるような気がした。
ホロウの内部に満ちる未知の物質──エーテル。
それに対する適性が高い人間は珍しく、しかもその程度が高ければ、普通なら甚大な侵食を受けかねない環境でも長く活動できる。
ならば、ホロウの奥へ潜って資源を持ち帰るホロウレイダーや、危険区域を調査する調査員になればいい。
危険な仕事ではあるけれど、その分だけ報酬も大きい。
上手くいけば、一攫千金だ。
そんなことを考えていた時期が、ヤタにも確かにあった。
実際にはホロウレイダーや調査員になるどころか、気が付けばどこかの企業か、それに類する組織に「買われた」らしい。
あるいは、最初からそのつもりで誘拐されたのかもしれない。そこについては、今となってはもうどうでもよかった。
目を覚ました時には、この部屋にいた。
窓はなく、白い壁と無機質な照明に囲まれ、見たこともない機械がいくつも並んでいる。
何の施設なのかくらいは説明された気もするが、誰が、何のために、自分をここへ連れてきたのかまでは教えてもらえなかった。
何をされるのか、いつ帰れるのか………自分をどうするつもりなのか。
そのような自分の様子は、実験を楽しみにしているヤツら研究者達にとってはどうでも良いことでしかないらしい。
だから、いつからか考えなくなった。
諦めるというのは、思っていたよりずっと簡単だった。
「───では、EL-expの投与を始める──」
そんな声がして、ヤタはぼんやりと視線だけを動かした。
白衣を着た研究員が、透明な薬液の入った注射器を手にしている。
その向こうでは別の人間がモニターを確認し、淡々と数値を読み上げていた。
ヤタはベッドの上に仰向けになったまま、天井を眺めている。
手首と足首は固定されているから、逃げることはできない。
最初の頃なら、なんとか抵抗して逃げ出そうとしたかもしれないが……今はもう、そういう気力もなかった。
針先が、無気力に投げ出された腕へ近付いてくる──その時だった。
外からか、何かが崩れ落ちたような轟音が響いた。
「……何だ?」
研究員が顔を上げた直後、床が僅かに揺れた。
天井の照明が一度だけ明滅し、壁際のモニターに表示されていた数値が一斉に乱れる。
けたたましい警告音が鳴り響き、それまで静かだった部屋に、突然いくつもの声が重なった。
「待て待て、一回鳴ったら反応アリ、二回なら高活性、三回なら強烈………四回なら………」
「これは……移動性空間錯乱が!?」
「そんなはずない、予測コースからは外れていた筈だ!」
「現在位置は!?」
「分かりません! 既に観測機器に許容範囲を超えた誤差が──!!」
何が起きているのかヤタには分からないが、研究員たちが慌てていることだけは理解できた。
その様子を、ベッドに縛られたまま、どこか他人事のように眺めていた。
やがて、誰かが叫ぶ。
「実験中止だ!総員撤収!撤収ー!」
「ですが、被験体は……」
「時間がない!捨て置け!」
それから慌ただしい足音が遠ざかり、扉が開いて、閉じる。
また別の場所ではけたたましい足音が響き渡り、遠ざかっていき……やがて、何も聞こえなくなった。
「……あーあ」
ヤタは天井を見上げたまま、小さく呟いた。
………どうやら、置いていかれたらしい。
別に、今さら驚くことでもなかった。
それから何分経ったのか、ヤタには分からない。
警告音もいつの間にか止み、施設の中には不自然なほど静かな空気だけが残っている。
時折、遠くから何かが壊れるような音が聞こえるたびに、ここがまだホロウの中なのだと思い出す。
……そんな静寂の中、不意に視界へ白いものが入った。
「……?」
誰かが、こちらを覗き込んでいる。
白い髪の見知らぬ少女の顔。
ヤタはしばらく瞬きもせず、その顔を見つめた。
少女の方も、何かを確かめるようにじっとこちらを見ている。
研究員ではない……そもそも、この場所にこんな子がいた覚えはない。
少し考えてから、ヤタはようやく口を開いた。
「……誰?」
拘束具が外されると、ヤタはゆっくりと上体を起こした。
長い間、同じ姿勢で固定されていたせいか身体のあちこちが妙に重い。
まず手首を回し、それから指を一本ずつ曲げ伸ばしし、最後にベッドから足を下ろして、慎重に足首を回してみる。
痺れは残っているものの、立てないほどではないらしい。
「……よし、大丈夫そう」
呟きながら顔を上げると、すぐ目の前に先ほどの少女がいた。
白い髪の隙間から覗く瞳が、じっとヤタを見ている。
改めて見ると、本当に自分とそう歳は変わらなさそうだった。
服装は見慣れないし、そもそもこんな場所に似合う格好ではない……にもかかわらず本人はあまり気にしていないらしく、ヤタの拘束を外した後は部屋の中を忙しなく見回し、棚を開けたり、机の上に置かれた器具を手に取ったりしている。
「………ねぇ、ホントなの?その、何も覚えてないってやつ」
「うん。自分のことについては、よく覚えてない」
あまりにもあっさりと言うので、ヤタは少しだけ眉を寄せた。
「ここが何処かも、分からない。気が付いたら街の中にいて、そこから彷徨ってた」
「……ふうん」
現時点ではあくまでも本人がそう言っているだけなのだが、嘘をついているようにも見えなかった。
むしろ、嘘をつくために必要な知識そのものがないように見える。
少女は棚から何かの容器を取り出すと、ラベルを眺め、首を傾げた。
今度は壁際の端末を覗き込み、画面に表示された文字を指でなぞっている。
「………もしかして、文字読めてない?」
「……うん」
少女は少し気まずそうに視線を逸らした。
「こんなヘブライ文字とフェニキア文字の合の子みたいなのは……読めない」
「そっか」
そう返事を返してみるものの、奇妙な事にこっちは逆にその二つを知らない。
ヤタは少女の様子を眺めながら、頭の中でいくつかの可能性を並べてみる。
おそらく、この子も自分と同じような被験者なのだろう。
何らかの実験を受けて、その結果として記憶を失った。
確証は無いが、状況からすればその可能性は十分にある。
…………まあ、本人が何も覚えていない以上、確かめようもないけれど。
「ところで……」
ヤタはベッドの縁に腰を下ろした。
「キミ、キャロットは……いや、外に出る方法は知ってる?」
「…………外?外あるの??」
そこまでもか、と少しばかり苦笑する。
「そもそも、ここはホロウの中だし………まぁ、だとしたら外に出るのは難しいかな」
「……そうなの?」
「うん、まぁね」
さっきまでの騒ぎを思い出す。
研究員たちが口にしていた、移動性空間錯乱。
ホロウの内部で発生する空間異常は多数あるが、警報器の反応からして強烈なものには違いないだろう。
しかも、あの態度を見れば、今この施設そのものが巻き込まれたと考えてもいい。
腕の立つプロキシがいればまだ話は違う。
ホロウの空間構造を読み取り、変化を予測しながら進路を組み立てる専門家。
プロキシの助けも無く、当てずっぽうで抜け出すには天文学的な運の良さが必要になる迷宮こそがホロウなのだ。
そして今の自分たちには、そのプロキシがいない。
「……詰んでるなあ」
他人事のように呟き、ヤタはベッドの縁へ身体を預けた。
なんにせよ、今この瞬間は助かったことには違いない。
けれど、助かった場所がよりによって零号ホロウの中で、尚且つ錯乱空間のど真ん中だというのなら、結局は同じことなのかもしれない。
そう考えていると、例の少女がまた部屋の中を歩き回り始めた。
棚を開け、机を覗き、何か使えそうなものがないか探しているらしい。その姿をぼんやり眺めながら、ヤタは小さく息を吐く……………その時、廊下の向こうから、何かを引き裂くような音が響いた。
「……え?」
少女が振り返ると同時にヤタも反射的に立ち上がり、次の瞬間、扉が内側へ吹き飛んだ。
砕けた金属片と粉塵の向こうから、異形が姿を現す。
人間に似ているが、人間ではない。
結晶化した凶器を引きずりながら、複数のエーテリアスが室内へ雪崩れ込んできた。
「来た……!」
ヤタは咄嗟に壁際へ手を伸ばした。
警備員用の電磁警棒……昔、ストリートで揉め事を起こした連中から身を守るために、似たようなものを使った経験がある。
まともに戦えるわけではないが、逃げる時間くらいは稼げるはずだ。
警棒を握り、腰を落とす。
「下がって!」
薬のケースを両手に呑気に見比べている少女へ叫ぶ。
しかしその直後、少女の姿に巨大なシルエットが重なった。
「え?」
何かが、空間から引き抜かれるような金属音。
次の瞬きの後には、少女の手に巨大な機関銃が握られていた。
「……は?」
ヤタの口から、間の抜けた声が漏れる。
少女はそんなヤタの反応を気にする様子もなく、迫ってくるエーテリアスへ銃口を向けた。
轟音、狭い室内が震えた。
機関銃から吐き出された弾丸が、まるで嵐のように異形へ叩き込まれていく。
結晶質の身体が次々と砕け、壁や床へ飛び散った破片が淡い光を残して消えていった。
わずか数秒弱。
室内に侵入してきたエーテリアスは、一体残らず消滅していた。
「…………」
ヤタは警棒を構えたまま、完全に固まっていた。
自分がこれから殴りかかろうとしていた相手を、目の前の少女は巨大な銃で一瞬のうちに吹き飛ばしてしまった。
しかも、その銃をどこから出したのかすら分からない。
少女は銃を消すと、何事もなかったようにヤタへ振り返った。
そして、少し困ったように首を傾げる。
「えっと……」
何かを考えるように数秒黙ってから、
「……とりあえず、外、出る?」
・・・・・・・・・・・・・・・・
その少女………どうやら名前はヤタというらしい。
話を聞く限り、新エリー都とやらで活動してた時に何らかの経緯でこの場所へ連れてこられ、エーテルへの適性を利用した実験を受けていたらしい。
本人も詳しい経緯までは知らないようで、売られたのか、誘拐されたのか、その辺りは曖昧なままだった。
ともあれ、最初に出会った人間は研究施設に閉じ込められていた同年代くらいの少女だったということだ。
そして、その少女から聞いた話を頭の中で整理する。
ここは「ホロウ」と呼ばれている異常空間で、地理的には、かつて存在した「旧エリー都」という都市の内部らしい。
エリー都……アルファベットの綴りからすると、メソポタミア周辺の地名にありそうな響きではあるのだけれど、自分の知っている地理には該当する都市がない。
そもそも、ここが本当に自分の知っている世界なのかも怪しい。
もしかすると未来なのかもしれないし、似ているだけで全く別の世界なのかもしれない。
……まあ、今の自分には確かめようがないので頭の片隅に追いやっておく。
「で、さっきの化け物がエーテリアス」
廊下を歩きながら、ヤタが説明してくれる。
「ホロウの中にあるエーテルに侵食された生物とか機械が、ああなる」
「侵食……って、それ大丈夫なやつなの?」
「ウチはエーテル適性ってのが高いから、暫くはヘーキ」
ヤタは自分の腕を軽く叩いてみせる。
「キミは……まあ、話聞いてる限り、まだ大丈夫そじゃない?」
「まだ?」
「普通の人なら、あんまり長く居ない方がいいんだけど……結構長く居てまだ何ともないんでしょ?」
その言葉に、少しだけ自分の身体を見下ろした。
今のところ、特に変化はない……手も、足も、依然として人の形のものだ。
「それなら……早く出た方がいい?」
「それが可能なら、ね」
ヤタが苦笑する。
……どうやらホロウの中は、普通の空間とはかなり勝手が違うらしい。
空間そのものが入り組み、場所によっては距離や方向の感覚すら信用できない。来た道をそのまま戻ったつもりでも、別の場所へ出ることがある………まぁ、ここら辺は、経験済みだ。
特に、ここは零号ホロウとか呼ばれている曰く付きの「難所」らしい。
それで、脱出には事前の準備が必要かつ、ホロウ地図たる「キャロット」もしくは「プロキシ」と呼ばれる特殊な案内人が必要になるとのこと。
………現状、自分達にはそのどちらもない。
「……それ、出られないんじゃない?」
「まあ、ね。遭難だよ、ホロウじゃよくあること」
あー、まぁ、Backroomsの親戚だねこりゃ。
そう考えると、今まで経験したことのない状況なのに妙な納得感があった。
まあ、納得したところで脱出方法が分かるわけではないのだけれど。
そんなことを考えながら歩いていると、廊下の先に開きっぱなしの扉が見えた。
その向こうには、いくつかの机と端末が並んでいる。
「……事務室かな?」
ヤタが覗き込もうとするより先に、自分の武器を構えた。
虚空から引き出したのは、レンジャー兵科用のガトリングライフル……M9レイヴン。
ずしりとした重量が腕へ収まり、六本の銃身が未だ見ぬ敵に威圧感を漂わせる。
この世界で目覚めてから、戦うことについては結構こなれた感が出てきた。
今問題なのは、どの武器を使うかだ。
フェンサーやエアレイダーの武装を使えば、この辺りにいる敵をまとめて吹き飛ばすことだってできる。
………ただし、それをやると建物も一緒に吹き飛ぶ。
それは困る。
せっかく見つけた綺麗な建物を壊したくないし、中に使える物資が残っている可能性もある。
何より、寝床として使えそうな場所まで自分で破壊するのは、どう考えても効率が悪い。
故に、建物を壊さず、敵だけを破壊できる武装を選んでいる。
………幸いにも、直径12mのUFOをシャボン玉のように叩き落とせる程度の“歩兵火器”は、エーテリアス相手でも十分な効果があるので苦戦はしなかった。
何はともあれ、銃口を向けたまま事務室へ入り、周囲を見回す。
敵はいない……机も、棚も、端末も比較的綺麗なままだった。
照明は一部が消えているものの、雨風を防げるし、床もそれほど汚れていない。簡単に掃除すれば、寝床として十分使えるだろう。
けれど、すぐ横にいたヤタを見て、その考えを引っ込めた。
ここは研究施設であり、さっきまで彼女が被験者として拘束されていた場所でもある。
「………とりあえず、何か使えるものでも探そうかな」
とはいえ、研究所を出る前に食料や消耗品も探しておきたい。
そう考えていた時、机の上に一枚の紙が置かれているのを見つけた。
……手書きの地図らしく、比較的新しい。
紙の端には、この辺りの建物らしきものがいくつも描かれている。
「これがあれば………」
すかさずその紙を持ち上げ……読めない。
「…………」
紙を横にする、縦に戻す、今度は上下を逆さまにしてみる。どっちが北や。
成す術無く地図をくるくる回していると、横からヤタが覗き込んできた。
「何してんの?」
「………これ、何て書いてあるの」
「……ああ」
ヤタは妙に納得した顔をした。
「そういえば文字読めないんだったね」
「うん……」
紙を受け取ったヤタは、描かれた線を指で追っていく。
「ここが物資保管庫。こっちは昔のアーケードで……店舗跡を資材倉庫として使ってるみたいだね」
ヤタは迷いなく地図を読み進める。
当たり前だが、自分には意味の分からない文字や記号が、彼女にとってはちゃんとした情報になっている。
それを見ていると、少しだけ焦りが出る。
「……不味いな」
「何が?」
「文字が読めないの。これじゃ情報を取り零すかも」
「そっか、まぁ、そーだよね」
ヤタはそれ以上、何も言わなかった。
少し歩いたところで、ふと彼女が口を開く。
「そういえばさ」
「うん?」
「キミ、名前とか憶えてる?」
「……覚えてない」
そう答えると、ヤタは少し考え込んだ。
「うーん、不便」
「まぁ、そうだよね……」
何か思い出せないかと頭の中を探ってみるけれど、やっぱり何もない。
「……ホロ」
少しの間が空き、ヤタが呟いた。
「ホロ?」
「うん。ホロウにいたから、ホロ」
「安直だね」
「文句ある?」
「いや、それでいいよ」
なるほど、ホロか……面白い。
「ホロウ」にいたから、ホロ。
ついでに言うとこの身体の元ネタも、まぁ、ホロ。
……………運命の示し合わせってやつ?
「ほんと?」
「うん」
知らず知らずのうちに、少しだけ笑っていた。
「じゃ、今日からキミはホロってことで」