殺人探偵 朝日結人 作:バットエンド厨
萩原研二の殉職から三日が経っていた。
探偵事務所の窓から見える街並みは、何事もなかったように夕暮れへ染まり始めている。車は絶えず行き交い、歩道では親子連れが笑いながら歩いていた。誰か一人が死んでも世界は止まらない。当たり前のことなのに、その当たり前が胸を締めつける。
依頼書へ目を落としても文字は頭へ入ってこない。ペンを持っては置き、時計を見てはため息をつく。すると静かな事務所に低い声が脳へと響いた。
『おいおいまた考え込んでやがるな』
この声にはまだ完全には慣れない。初めて声を聞いた時は恐怖で眠ることもできなかった朝日だが、こうして何度も声を聞くうちに、奇妙なことに日常へ溶け込み始めていた。
『死人は戻ってこねぇぞ』
「分かってるよ」
『なら前見たらどうだ?』
「君に励まされる日が来るなんて思わなかった」
『キモい勘違いすんじゃねぇよ。宿主が腐って死なれちゃ困るだけだ』
名前も素性も知らない。ただ自分のことをジャックと呼べと言ったのでそれ以来、そう呼んでいる。
腹の虫が鳴いた。朝日は朝から何も食べていなかったことに気付く。
「何か食べようかな…」
『酒飲むか!』
「昼間だよ……」
味覚を共有していることに気付いてからジャックは、食に口を出してくるようになった。そもそも心臓移植した人間に酒はあまり良くない。そんなジャックに呆れながら立ち上がると、窓の向こうに小さな喫茶店が見えた。開業してから気になっていた店。木製の看板には白い花が描かれ、その下に《Snowdrop》とだけ書かれている。
「今日はあそこにしよう」
店の扉を開くと、小さなベルが優しい音を立てた。店内は木の温もりが感じられる落ち着いた空間で、午後の柔らかな日差しが窓から差し込んでいる。棚にはドライフラワーが飾られ、静かなピアノ曲が流れていた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から一人の女性が姿を現した。肩まで届く淡い銀色の髪はさらりと揺れ、整った顔立ちはどこか中性的で冷たい印象を与える。それでも薄く微笑むだけで雰囲気は柔らかく変わり、瞳が右目は透明で左目は蒼い。いわゆるオッドアイといわれる珍しい瞳だ。黒いシャツの胸元は少し開き、その上から黒いエプロンを身につけているだけという簡素な格好なのに、不思議と目を引く存在感がある。
「お好きなお席へどうぞ」
窓際へ腰を下ろすと、彼女は水を置きながら穏やかに尋ねた。
「この辺りで何度かお見かけしたことあるんですよ。お勤め先は近いんですか?」
「向かいで探偵事務所を始めたばかりなんです」
「ああ。銀色の看板のお店ですね」
彼女は窓の外へ目を向け小さく頷いた。朝日は思わず笑う。
「まだ開業したばかりなのによく見てますね」
「毎日窓から見えますから」
それだけの答えなのに、妙に納得してしまう。注文を取り終えた彼女は一度厨房へ戻り、しばらくしてサンドイッチとコーヒーを運んできた。テーブルへ皿を置いた瞬間、その視線が朝日の顔で止まる。
「少しお疲れですか?」
「え?」
「顔色があまり良くありませんよ」
「そんなに分かります?」
「ええ」
彼女は少しだけ考えるように目を細めた。
「睡眠不足でしょうか?」
「最近、少し.....」
「お仕事は無理をなさらない方がいいですよ」
その口調は店員の社交辞令というより、本当に心配しているようだった。
「ありがとう」
朝日の顔に自然と笑みがこぼれる。萩原を失ってから誰かにそんな言葉を掛けられたのは初めてだった。彼女が離れるとジャックがぼそりと呟く。
『気に入らねぇなあの女』
「親切じゃないか」
『客が入って最初に見る場所がおかしかった』
「どこ見てたの?」
『歩幅、肩から次に利き腕、最後に呼吸だ』
朝日は思わずコーヒーカップを持つ手を止めた。
「そんな細かいところまで見てたの?」
『普通、最初に視線行くのは客の顔だろ。あいつは違ったな』
「考えすぎだよ」
『俺様はそうやって生き残ってきたんだよ』
それ以上は何も言わなかった。料理は驚くほど美味しかった。温かいパンと優しい香りのコーヒーが冷え切った身体へ染み込んでいく。
食事を終えて会計を済ませると、彼女はレジ越しに微笑んだ。
「またお待ちしています」
「きっとまた来ます」
「ありがとうございます」
店を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。事務所まで数歩しか離れていないのに、さっきまで胸に重くのしかかっていたものがほんの少しだけ軽くなっている気がした。
『俺様はあの女を信用しねぇ』
ジャックが相変わらず不満そうに呟く。
「どうして?」
『………分からねぇ。だがああいう目をした人間を何人も見てきた』
「同業者ってこと?」
ジャックはしばらく黙り込んでから、小さく舌打ちした。
『いや……まだわかんねぇな』
店の扉が閉まり、小さなベルの音が静かに余韻を残した。
窓越しに銀髪の青年が向かいの探偵事務所へ戻っていく姿を見送りながら、私は空になったカップを下げる。歩幅は一定。術後の後遺症も見られない。呼吸も安定している。カップを持つ右手の震えもない。今日の観察結果を頭の中で整理していくと、厨房から店主が顔を出した。
「知り合いかい?」
「いいえ」
そう答えながらも視線は窓から外れなかった。
「向かいに探偵事務所ができたので、少し気になっただけです」
店主は「そうか」と笑い、洗い物へ戻っていく。
私はテーブルを拭き終えると、カウンターの隅へ置いてある観葉植物へ水をやった。この店で働き始めて数週間。住み込みという形で雇われているが、本来の目的はもちろん別にある。
朝日結人二十二歳。心臓移植手術成功した経過観察対象。
私の任務は、それだけだった。術後の拒絶反応がないか、記憶障害や神経症状はないか、日常生活に支障はないか。
報告書に必要なのは数字と事実だけで、そこへ感情を書き込む余地はない。それでも今日初めて言葉を交わして、資料だけでは分からないものが見えた。
笑う時は少しだけ目尻が下がる。誰かへ礼を言う時は自然と頭を下げる。疲れているはずなのに、相手を気遣う癖がある。
警察学校を中退したという情報は知っていたが、本人の口からその話題は出なかった。聞かれたくない過去なのかもしれないと考え、それ以上踏み込まなかった。
閉店後、店主へ挨拶を済ませると私は借りている部屋へ戻る。照明もつけず、カーテンを閉めると小型の通信端末を取り出した。
暗号化された回線を開く。
『対象、異常なし。術後経過は良好。循環器系、神経系ともに現在のところ問題は確認されず。精神状態は軽度の抑うつ傾向あり。ただし日常生活への影響は限定的。経過観察を継続します』
送信し数秒後、受信完了を示す表示だけが画面へ現れる。
返事はない。端末の電源を落とし、窓を少しだけ開ける。夜風が静かに部屋へ流れ込み、向かいの探偵事務所にはまだ明かりが灯っていた。
依頼書でも読んでいるのだろうか。あるいは眠れないだけか。資料には「平凡」と書かれていた。身体能力も成績も平均で特筆すべき才能はない。
だが、人を安心させる笑い方だけは数字では測れないものだった。私は自分の考えを振り払うように窓を閉める。
任務に私情は不要。
観察対象はあくまで対象であり、それ以上でもそれ以下でもないとそう教えられてきた。
翌朝も同じ時間に店を開ける。
豆を挽き、湯を沸かし、開店準備を整えていると、ガラス越しに向かいの事務所の扉が開いた。朝日結人が眠そうに欠伸をしながら外へ出てくる。
その姿を一瞬だけ確認すると、私はいつも通り店の札を「OPEN」へ裏返した。