殺人探偵 朝日結人 作:バットエンド厨
ジャックと名乗る男の声が聞こえるようになってから一週間、朝日は自分が正常なのか、それとも壊れてしまったのか判断できずにいた。
朝になればいつも通り事務所へ向かい、依頼人の話を聞き、調査を行う。仕事そのものに支障はない。困るのは、何の前触れもなく頭の中へ話しかけてくる男だけだった。
『尾行下手だなぁ』
浮気調査で対象者を追っていればそんなことを言い出し、
『その男は今日は動かねぇよ。帰ろうぜ?』
人探しの依頼で駅前を歩けば勝手に決めつける。当然、朝日は一切相手にしなかった。
(黙っててくれ)
『聞こえてんじゃねぇか!』
心の中で返せば愉快そうに笑う。ジャックと会話するのに声に出す必要はないらしい。一度そのことに気付いてからは、会話はすべて頭の中で済ませるようになった。外から見れば独り言を呟いているようには見えないため、その点だけは助かっている。もっとも、助かっていると言えるのはそこだけだった。
『昼飯それだけかよ』
(十分だろ)
『肉食えよ肉』
(金がないんだよ)
『夢がねぇ探偵だなぁ〜』
(放っといてくれ)
朝日はコンビニで買ったサンドイッチを机の上へ置き、書類へ目を落とした。ジャックはしばらく不満そうに何かぶつぶつ言っていたが、そのうち飽きたのか静かになる。
そんな奇妙な生活にも少しだけ慣れ始めた頃、一件の依頼が舞い込んだ。依頼人は四十代ほどの男性で、小さな工務店を経営しているという。
「社員が金を横領しているかもしれないんです」
そう切り出した依頼人は、ここ数か月で経理の数字が合わなくなっていること、しかし決定的な証拠がないことを説明した。朝日は一通り話を聞き終えると、手帳へ要点を書き込みながら静かに頷く。
「分かりました。まずは帳簿を確認させてください」
探偵の仕事は殺人事件ばかりではない。むしろ現実には、このような企業調査や浮気調査、人探しの方が圧倒的に多い。朝日は依頼を引き受け、その日の午後、工務店へ向かった。
事務所は住宅街の一角に建つ二階建ての建物だった。従業員は十人ほど。現場へ出払っている者も多く、室内は比較的静かだった。帳簿を確認し、経理担当へ話を聞き、金の流れを一つずつ追っていく。
『横領じゃねぇんじゃねぇか?金を盗む奴は帳簿をこんな雑にいじらねぇ』
(決めつけるなよ…)
『俺様ならもっと上手くやるね』
(犯罪自慢は聞いてないよ)
『事実を言ってるだけだが?』
そのやり取りをしていた時だった。二階の方から、何か重いものが倒れるような音が響いた。
ドンッ!という鈍い衝撃音。続いて女性の悲鳴が建物中へ響き渡る。
「社長!?誰か来てください!」
静かだった事務所が一瞬で騒然となる。朝日は椅子を立ち上がると、反射的に階段へ駆け出した。
胸の奥で、新しい心臓が一度だけ大きく脈打った。
階段を駆け上がる途中、朝日は警察学校で叩き込まれた教えを思い出していた。事件か事故かも分からない段階で現場へ飛び込むな。まず自分の安全を確保し、現場を保存しろ。頭では分かっているが、それでも悲鳴を聞いて足を止められるほど、割り切れる性格ではなかった。
二階の応接室には既に数人の社員が集まり、誰も部屋へ入ろうとはせず、ただ青ざめた顔で中を覗き込んでいる。
「どいてください!」
朝日が声を掛けると、社員たちは反射的に道を空けた。応接室へ足を踏み入れた瞬間、鼻をつく鉄の匂いが漂う。部屋の中央で、一人の男性が床へ倒れていた。仰向けのまま天井を見つめ、その胸元は赤黒く染まっている。近くには割れたコーヒーカップが転がり、机の脚には飛び散った血痕が点々と付着していた。
朝日は息を整えながらしゃがみ込み、首筋へ指を当てる。脈はない…瞳孔にも反応は見られなかった。
「……駄目です」
小さく首を振ると、周囲からすすり泣く声が漏れた。
「警察を呼んでください」
「もう呼んでます!」
誰かが答える。朝日は立ち上がると、部屋全体をゆっくり見回した。
窓は閉まっている。争った跡はほとんどなく、凶器らしきものも見当たらない。
『こりゃ刺されたな』
(見れば分かる)
『じゃあ刃物はどこ行った』
朝日は部屋を見渡すも、確かに凶器になりそうな物は見当たらない。
『持って逃げたか』
(まだ犯人がいる可能性もある)
『それなら出口見てみろ』
朝日は廊下へ目を向けた。社員たちは全員二階へ集まり始めている。この騒ぎの中、外へ出ていく人物がいれば誰か気付くはずだ。それでも、ジャックは妙に楽しそうだった。
『面白くなってきたぜ』
(面白がるな)
やがて廊下の向こうから複数の足音が近づき、制服姿の警察官たちや目暮警部が姿を現す。
「第一発見者は?」
社員たちが互いの顔を見合わせ、一人の女性が震える声で手を挙げた。
「わ、私です……」
目暮は頷き、部下へ指示を飛ばす。
「事情聴取を始めてくれ」
「はい!」
若い刑事が手帳を取り出しながら動き始める。朝日は部屋の隅へ下がろうとしたが、その前に若い刑事が声を掛けた。
「すみません、あなたもお話を」
「分かりました」
「お名前とご職業は?」
「朝日結人。探偵をしています」
それだけ聞くと、若い刑事は「そうですか」と頷き、手帳へ書き込む。探偵など珍しくもないと思ったのか、それ以上深くは触れなかった。朝日は発見時の状況を簡潔に説明し、事情聴取を終える。その間もジャックは退屈そうに鼻を鳴らしていた。
『刑事ってのは相変わらずだな』
(知り合いみたいな言い方だな)
『んなわけねぇだろ?』
それ以上は何も語らない。朝日はその一言だけを心の片隅へ引っ掛けながら、改めて現場へ視線を戻した。
警察の鑑識が部屋中を調べ始める中、誰も気に留めていない小さな違和感が、一つだけ朝日の目に映っていた。部屋の隅に置かれた応接用の棚。その上には来客用の湯飲みが並べられているのに、机の上に残されていたのは割れたコーヒーカップが一つだけだった。
社員の話では、被害者は来客と打ち合わせをしていたという。ならば、もう一つ飲み物があってもおかしくない。朝日は現場を荒らさないよう慎重に部屋を見回すも、見当たらない。
『そこじゃねぇなぁ。机ばっか見てるから気付かねぇんだ』
(何だ?)
『人を見るんだよ』
朝日は無意識に社員たちへ視線を向けた。誰もが青ざめ、落ち着きなく立っている。しかしその中で一人だけ、四十代半ばほどの男が、ハンカチで何度も右手を拭っていた。汗でも拭いているのかと思ったが、妙に執拗だった。
『あいつ手を気にしすぎだな』
(緊張してるだけかもしれない)
『殺した奴も緊張すると思うが?』
朝日は返事をしなかった。ジャックの言葉を鵜呑みにするつもりはないが、頭の片隅へ置いておく価値はある。その時、目暮警部と鑑識の声が部屋へ響いた。
「死亡推定時刻はおよそ30分前か」
「凶器はまだ見つかっていません。窓も内側から施錠されています」
「となると、この中の誰かということか」
社員たちは互いに顔を見合わせ、不安そうに息を呑んだ。
『もうここに凶器はねぇが見つかる可能性はある』
(どういう意味だ?)
『持って帰ったんだよ』
(この短時間で?)
『違ぇなぁ。最初から持って帰るつもりだった』
その言葉と同時に、朝日の視線が再びあの男へ向いた。右手を拭いていた男が、今度は作業着の袖口を気にしている。
朝日はそこで、ある可能性に思い至った。警察学校時代、証拠隠滅の講義で教官が言っていた。凶器は「持ち込む」のではなく、「普段から持っている物」を使う犯人もいる。
そうだ、工具。ここは工務店だ。刃物を持っていても不自然ではない。使い終えれば、そのまま工具箱へ戻せる。
『やっと気付いたかよ。犯人なら俺様もそうする』
朝日はゆっくり息を吐く。まだ証拠はないただの推測だ。それでも、あの男の工具を調べれば何か見つかるかもしれない。朝日は目暮警部の方へ歩み寄った。
「警部、一つ気になることがあります」
若い探偵の言葉に、目暮は少し意外そうな表情を浮かべる。
「何かね?」
「工務店ですから、皆さん工具を持ち歩いていますよね」
「あぁ」
「凶器が見つからないなら、現場から探すより、全員の工具を確認した方が早いかもしれません」
目暮は腕を組んで少し考え込む。
「理由は?」
「……現場に凶器がない以上、持ち去られた可能性があります」
ジャックの存在は当然言えない。朝日は、自分が現場を見て感じた推測として話すしかなかった。
目暮はしばらく朝日の顔を見つめると、若い刑事へ向き直る。
「全員の持ち物を確認してくれ」
「分かりました」
その指示を聞いた瞬間、右手を何度も拭っていた男の顔色が、わずかに変わった。その小さな変化を朝日は見逃さなかった。若い刑事社員たちを一人ずつ廊下へ誘導し始めた。
「ご協力お願いします。工具箱や鞄も確認させていただきますので、そのままお持ちください」
社員たちは不安そうな面持ちで頷き、それぞれ自分の荷物を持って列を作る。誰も文句は言わない。殺人事件の現場なのだから当然だ、と納得している様子だった。ただ一人を除いて。
「そこまでする必要ありますか!?」
先ほどから落ち着きのない男が、不自然なほど強い口調で言った。
「みんな仕事道具ですよ。勝手に触られたら困るんですが」
「お気持ちは分かりますが、ご協力をお願いします」
「いや、だから━━━」
『ああ、終わったな』
ジャックが楽しそうに笑う。
『普通なら黙って見せるだろ。今のは自分から目立ちに行ってるようなもんだ』
朝日も同じことを感じていた。人はやましいことがあると、それを隠そうとしてかえって不自然になる。警察学校で何度も聞いた話だった。
やがて男の工具箱が机の上へ置かれる。若い刑事がゆっくり蓋を開けると、中には金槌やドライバー、ペンチなど、ごく普通の工具が整然と並んでいた。
その奥に、一本のカッターナイフが収まっている。
「これは普段からお使いですか?」
「ええ。仕事で……」
男は平静を装って答えたが、額には玉のような汗が浮かんでいた。鑑識が手袋をはめてカッターナイフを取り上げる。刃はきれいに拭き取られているように見えた。しかし鑑識員は刃先をじっと見つめると、目暮へ顔を向ける。
「警部!」
「どうした?」
「肉眼でも確認できる程度ですが……刃の付け根に赤褐色の付着物があります!」
男の喉が、ごくりと鳴った。
「鑑定すれば血液かどうかはすぐ分かります」
部屋の空気が張り詰める中、目暮はゆっくり男の前へ歩み寄った。
「事情を聞かせてもらえるかな」
「ち、違います!」
男は首を横へ振る。
「仕事で指を切っただけです!」
『苦しい言い訳だなぁ』
ジャックが鼻で笑う。朝日は黙って男を見つめていた。
『さっきから一人だけ被害者のことを一度も見てねぇんだぜあいつ』
その言葉に、朝日ははっとする。確かにそうだった。他の社員は遺体へ目を向けるたび顔をしかめたり、目を逸らしたりしていた。
だが、この男だけは違う。視線はずっと警察官か、自分の工具箱ばかりへ向いている。まるで、被害者の姿を見る必要がないかのように。朝日は静かに口を開いた。
「警部。この方、被害者を見ていません」
男がびくりと肩を震わせる。
「普通なら、知っている人が亡くなっていたら、何度も目が行くはずです。でも、この方は凶器と自分の荷物ばかり気にしている」
男の呼吸が、目に見えて速くなる。
「それに、工具を調べると聞いた時、一番最初に反対しました」
朝日の声は決して大きくない。それでも部屋は静まり返り、その言葉だけがはっきり響いた。目暮は男を真っ直ぐ見据える。
「どうなんだ」
「違う……俺じゃない……」
『笑っちまうくらい怯えてるな』
朝日は何も返さない。返す必要もなかったから。男は目暮と朝日の顔を何度も見比べ、やがて大きく息を吸い込む。その目から、先ほどまでの怯えがゆっくりと消えていった。代わりに浮かんできたのは、追い詰められた者特有の、ぎらついた光だった。
男は何かを諦めたように肩を落としていた。先ほどまで必死に否定していた表情から力が抜け、視線は床へ落ちている。若い刑事が慎重に近付きながら話を聞こうとしたその瞬間だった。
男の右手がわずかに動く。その視線の先にあったのは、自分の工具箱だった。朝日はその動きを見て、反射的に警戒する。しかし、何をするのか理解するより早く、男は工具箱の中へ手を突っ込み隠していたカッターナイフを掴んだ。
「全部……全部お前のせいだ!」
追い詰められた人間特有の、理性を失った声だった。自分が犯した罪ではなく、それを暴いた相手こそが悪いのだと信じ込んでいる。そんな歪んだ怒りが、男の表情には浮かんでいた。
狙われている、とそう理解した時には既に距離はほとんど残っていなかった。朝日は避けようと足を動かす。しかし、探偵として現場に立つことは増えていても、警察官として訓練を受け続けた人間ではない。突然の襲撃に完璧な対応ができるほど、自分の身体能力を過信してはいなかった。
その時、頭の奥で声が響いた。
『俺様に任せな』
朝日は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
(待て!何をする気だ!)
必死に拒否する。だが、ジャックの返事は冷静だった。
『このままだと刺されるぞ』
(僕が何とかする)
『どう見ても無理だろ』
その言葉を最後に、身体から感覚が抜け落ちた。手足が動かない。いや正確には動いているが、それを命令しているのは自分ではなかった。
視界が半分赤く染まる。この時朝日の左目は、瞳が赤く変化していた。
朝日の身体は、迫ってきた男の腕を紙一重で避け、その手首を掴んだ。次の瞬間には身体を捻り、相手の勢いを利用して床へ叩き伏せる。あまりにも自然で、あまりにも迷いのない動きだった。
警察学校で見た伊達や降谷の動きとは違う。これは訓練された技術ではない。相手をどう無力化するかではなく、どうすれば確実に動けなくできるかだけを考えた動きだった。
男が呻き声を上げるもジャックは止まらなかった。腕を押さえ込み、さらに力を込める。
(もういい!)
『甘いな。まだ動けるぜこいつは』
(警察がいる!)
『だから何だ?こいつは人を殺した。ここで終わりにしてやった方が世のためだぜ』
その考え方が恐ろしかった。間違っていると言い切れないところが余計に怖い。目の前の危険を排除し被害を増やさない。その一点だけを考えればジャックの判断には一理ある。だからこそ朝日は、自分の中にいる存在を危険だと感じた。
(ん?今僕は何を考えた……?)
やがて目暮警部の声が響く。
「朝日君、もういい!」
その声を聞いた瞬間、身体から力が抜けた。朝日の意識が戻る。気付けば、男は警察官によって取り押さえられていた。
何秒間だったのか分からない。数十秒かもしれないし、数分にも感じた。
ただ一つ分かることは、その間、自分は何もできなかったということだった。
「大丈夫ですか?」
若い刑事が心配そうに声を掛ける。
「……はい」
朝日は何とか答えたが、声に力はなかった。
事件は解決した。犯人も逮捕され、目暮警部からは「助かった」と礼まで言われた。普通なら達成感を覚える場面だ。
だが朝日の胸に残っていたのは、別の感情だった。自分の身体を、自分ではない誰かが自由に動かした恐怖。
もしジャックが返す気にならなかったら。もし、別の目的で身体を使われたら。その時、自分には止める術があるのか。
帰宅してからも、その疑問は消えなかった。部屋の鏡に映る自分の姿を見る。そこにいるのはいつもの朝日結人だった。見慣れた自分の顔なのに、その身体の中には別の人格がいる。
『考えすぎだ』
(勝手に身体を使ったことを?)
『お前が死ぬところだったんだぜ?』
(だからって、僕の意思を無視していい理由にはならない)
しばらく沈黙が続いた。やがてジャックは、少しだけ声を落とした。
『はいはい……わかってますよォ相棒』
朝日は意外に思った。開き直ると思っていた。
『ただ、俺様はお前に死なれちゃ困る』
(僕が宿主だから?)
『そうだ』
あまりにも正直な答えだった。優しさでも友情でもない。それでも、ジャックが朝日を守ったことも事実だった。
朝日は深く息を吐く。受け入れたわけでも許したわけでもない。だが、今の自分にはこの存在を消す方法がない。ならば、向き合うしかないとそう考えるしかなかった。
数日後
仕事帰りに立ち寄ったスーパーで、朝日は酒売り場の前に立っていた。
『酒飲もうぜ酒!』
(だから、心臓移植した人間に進めるものじゃないって)
『俺様の心臓だから平気だろ。ウイスキー系ならなんでもいいぞ。ロックで頼むぜ』
ふと、朝日は棚に並ぶ酒瓶を見る。すると「JACK DANIEL'S」と書かれたバーボンを見つけたので思わず苦笑する。
(……まさかお前の名前ってこれが由来か?てっきり切り裂きジャックの方かと思ってた)
『そんなわけねぇだろ!!ジャックダニエル大好きジャック君ってか!?安直すぎるわ!確かに酒だらけの組織だったけどよ』
(組織、ね。殺人鬼にも仲間がいたのか)
『あんな奴ら仲間じゃねぇよ』
(ふーん……)
朝日は瓶を手に取った。こいつの名前の理由は実はこれなのではないかと、そんな疑問を抱きながらレジへ向かう。