殺人探偵 朝日結人 作:バットエンド厨
探偵として活動を始めてから、朝日は少しずつ新しい生活に慣れていった。
ジャックの声が聞こえるという異常な状況は変わらない。朝が来れば頭の中から勝手に話しかけられ、依頼人の話を聞けば横から余計な感想を挟まれ、調査へ向かえば自分では気付かなかった人間の仕草や違和感を指摘される。
最初の頃は、そのたびに動揺していた。自分の中に、自分ではない人格が存在しているという事実を受け入れられなかったからだ。
だが、時間が経つにつれて朝日は理解し始めていた。ジャックは消えないならば、拒絶し続けるだけでは何も変わらない。もちろん、信用しているわけではない。むしろ逆だ。人の命を奪うことを躊躇わない危険な思想を持った男であり、身体の主導権を奪うことすらできる存在だ。
それでも、ジャックの言葉が役に立つ場面があることも事実だった。人間の嘘、隠された感情、犯罪者が何を考えるのか。そういった部分に関してジャックは異常なほど鋭かった。
『面白れぇよなぁ。自分が追い詰められると隠そうとしてることほど顔に出る』
ある事件の帰り道、ジャックはそんなことを言った。
(僕にとっての隠したいことは君の存在だね)
『おっとそう来たか。俺にとってはどうでもいいことだがそっちは困るんだろう?仲良くやろうぜ相棒』
(そうするしかないんだよな……)
それから数日後、朝日の携帯が鳴った。表示された名前を見た瞬間、少しだけ表情が緩む。
《伊達航》
警察学校時代の同期だった。
「もしもし」
『アーサーか』
変わらない声だった。その呼び方をされると、嫌でも警察学校時代を思い出す。あの頃は、全員が同じ場所を目指していた。
しかし今では、自分は警察官ではなく探偵になり、降谷と諸伏とは連絡が途絶えている。それでも伊達だけは、時々こうして連絡をくれた。
『今夜、空いてるか?』
「珍しいね」
『たまには顔見せろよ』
朝日は少し笑った。
「分かったよ」
待ち合わせた店で、伊達は昔と変わらない豪快な笑顔を見せた。
「相変わらず細いな」
「伊達こそ変わらないね」
「俺は鍛えてるからな」
そんな何気ない会話から始まった。伊達は現在、高木という刑事の教育係をしているらしい。
「高木は真面目すぎるんだよな」
「伊達が面倒を見るなら安心じゃない?」
「そうでもねぇ。あいつ、時々無茶するからな」
朝日は笑った。昔から伊達はそうだった。自分より周囲の人間を気に掛ける。警察学校でも、誰かが悩んでいれば真っ先に声を掛けていた。だから朝日は、そんな伊達が今も刑事として働いていることを少し嬉しく思っていた。
しばらく仕事の話をした後、伊達の表情が少し変わった。
「……アーサー。松田のこと、聞いたか?」
その名前を聞いた瞬間、朝日の動きが止まった。
「……陣平?」
伊達は視線を落とした。
「ああ。.......爆弾事件で殉職した」
胸の奥が冷たくなる。言葉が出なかった。
松田陣平
警察学校時代、何度も言い合った相手。不愛想で、口が悪くて、でも正義感が強く仲間思いだった男。その松田が。
「…………犯人は?」
ようやく絞り出した声に、伊達は苦い顔をする。
「まだ捕まってねぇ」
『あーあー、警察は無能だ。どんどん人が死ぬ』
(黙れ)
『萩原も松田も警察が無能だから死んだんだろ』
胸の奥を抉るような言葉だった。
『だったら簡単だろ?お前が見つけて、殺せ』
朝日の手が止まった。本当に一瞬だけ、その言葉が正しいように聞こえた。
また誰かが犠牲になるかもしれない。ならば、殺してしまえば終わる。
それは犯罪者の考えだ。そう分かっている。それでも、大切な人間を失った直後では、その誘惑はあまりにも甘かった。
『迷ってるな?』
(違う...)
『嘘だな』
ジャックは淡々と言う。
『お前は犯人が憎くてしょうがないはずだぜ?復讐したいって思ってるよなぁ?』
朝日は目を閉じた。そして、ゆっくり息を吐く。
(違う。僕は逮捕して被害を止める。殺すんじゃない)
ジャックはしばらく何も言わなかったが、やがて、
小さく笑う。
『はっ……犯人を目の前にしてもそう言ってられるかな』
朝日は少しだけ安心した。まだ、自分の中に譲れないものは残っている。伊達はそんな朝日の様子を見ていたが、何も聞かなかった。ただ、酒を飲みながら静かに言う。
「無茶するなよ」
「伊達に言われたくないな」
「そういうところは変わらねぇな……」
その空気が少し落ち着いた頃、伊達はジョッキを置き、何気ない口調で言った。
「そういやお前さ、降谷と諸伏とは会ったか?」
「……いや」
「全然連絡つかねぇんだよな。卒業してから忙しいんだろうが……電話一本寄越さねぇんだ」
「伊達にも?」
「ああ。松田が生きてりゃ『あいつら絶対何か隠してる』とか言い出しそうだけどな」
その名前が出ると、自然と二人の会話は途切れた。
「正直、時効なんて来てほしくねぇよ」
「……うん」
「俺たちは警察だからな。諦めたら終わりだ」
朝日は黙って頷くと、ジャックが鼻で笑った。
『警察らしい考えだな』
(黙れ)
『爆弾魔なんざ生かしとく価値もねぇ』
朝日は無意識にコップを強く握っていた。
「アーサー?」
伊達が不思議そうに見る。
「あ、ごめん」
「考え込んでたな」
「ちょっと昔思い出して」
伊達もそれ以上は聞かなかった。代わりに空いた皿へ焼き鳥を一本置く。
「まあ、湿っぽい話は終わりだ……」
「そうだな……」
「ナタリーにも『仕事の話ばっかりするな』って怒られるし」
「結婚の話、進んでるの?」
「ぼちぼちな……タイミング見てちゃんとプロポーズするつもりだが、しばらくそんな気分になれねぇかもな……」
「…………成功した時は祝わせてくれよ」
「もちろんだ。その時は遠慮なく祝儀持ってこい」
「結局金かよ」
「当たり前だ」
二人は顔を見合わせて笑った。無理やり作った笑顔で。
店を出た後、別れる直前に朝日はふと口を開いた。
「班長」
「ん?」
「……班長は死なないでよ」
伊達は懐かしい呼び名に、少し驚いた顔をした。しかし、すぐにいつものように笑う。
「何だよ急に」
「なんとなく」
朝日は苦笑する。
「僕たちの中で、班長までいなくなったら困るから」
伊達は少し黙った後、照れくさそうに頭を掻いた。
「分かったよ」
その言葉を聞いて、朝日は少しだけ笑った。
夜風が少しだけ冷たかった。
伊達と別れたあとも、まっすぐ事務所へ帰る気にはなれず、人気の少なくなった歩道をゆっくり歩く。胸の奥には、さっき聞かされた言葉が重く沈んでいた。
━━━松田が殉職した。
何度頭の中で繰り返しても現実味がない。警察学校では誰よりも生き急いでいるようで、それでいて誰よりもしぶとく生き残る男だと思っていた。
「……陣平」
思わず名前が漏れる。
『もう死んだ奴だ。生き返りゃしねぇぞ』
「分かってる」
『なら泣く暇があるなら犯人探せよ』
「泣いてないよ……」
ふと視線を上げると、見慣れた白い看板が目に入る。
《Snowdrop》
窓から漏れる暖かな明かりは、この時間でも変わらず穏やかだった。少しだけ温かいものでも飲もう、そう思って扉を押す。小さなベルが静かに鳴り、店内へ足を踏み入れると、コーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、あの女性が顔を上げる。銀色の髪は柔らかな照明を受けて淡く光り、碧い瞳は以前と変わらず静かな印象を与えていた。
「あ、探偵さん」
「こんばんは」
「こんばんは」
客は数人しかいない。朝日はいつもの窓際の席へ腰を下ろした。彼女は水を運びながら首を傾げる。
「今日は遅い時間ですね」
「同期と食事してたんです」
「同期……」
彼女は一瞬だけ視線を伏せた。
「楽しかったですか?」
その質問にすぐ答えられなかった。楽しかったが、でも……苦しかった。
「……半分かな」
そう答えると、彼女はそれ以上聞こうとはせず小さく頷いた。
「温かいものをお持ちしますね」
注文する前だったがそれでも彼女は厨房へ向かっていく。
『勝手に決めやがったぞあいつ...』
「別にいいよ」
『お前押しに弱いな』
「親切にしてもらって文句言う人はいない」
『いるぞここに。俺様だ!』
思わず笑ってしまう。その笑みを見ていたのか、彼女はカップを持って戻ってきた。
「笑えるくらいには元気そうですね」
「そんな顔してました?」
「前に来られた時よりは」
湯気の立つカップが静かに置かれる。見るとコーヒーではなかった。
「ハーブティーです。眠れない夜には、こちらの方がいいかと思いまして」
朝日は驚いたようにカップを見つめた。
「眠れないって分かったんですか?」
「……顔色でしょうか。なんとなくです」
『ハッ、嘘つけ。なんとなくで人間そこまで分からねぇよ』
朝日は心の中だけでため息をつく。
(君は人を疑いすぎなんだ)
ハーブティーを一口飲む。優しい香りが口の中へ広がり、不思議と張りつめていた肩の力が抜けていく。
「美味しい」
「ありがとうございます」
彼女は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「何かあったんですか?」
穏やかな声だった。探るような響きはない。ただ、本当に気になったから聞いたような口調だった。朝日は少しだけ迷ってから答える。
「友達が……亡くなったって聞いて」
彼女の表情から笑みが消える。
「そうでしたか……」
それ以上は何も言わない。慰めの言葉も励ましもない。ただ静かに隣の席の砂糖入れを整え、しばらくしてからぽつりと口を開いた。
「大切な人を失った時は、何を言われても心には残りません。だから私は、無理に元気を出してくださいとは言いません」
その言葉はどこか実感がこもっているように聞こえた。
「ありがとうございます」
彼女は静かに会釈すると仕事へ戻っていく。その後ろ姿を見送りながら、朝日はカップを両手で包み込んだ。
『変な女だ。人の死に慣れてる目をしてやがる』
(……)
『だが殺しを楽しむ目じゃねぇんだよなー』
珍しく、その声には嘲笑がなかった。店内には静かな音楽が流れ、窓の外では夜の街を車のライトがゆっくりと通り過ぎていく。その穏やかな時間だけは、胸の中で渦巻く喪失感を少しだけ遠ざけてくれていた。
それからしばらく、朝日は松田の事件について調べ続けた。正式に警察から依頼を受けたわけではない。部外者である探偵が捜査資料へ触れられるわけでもない。それでも、同期を奪った犯人がまだどこかで生きているという事実が、朝日の中に引っ掛かり続けていた。
萩原が亡くなった時もそうだった。
あの時、自分はまだ警察学校を辞めたばかりで、何もできなかった。警察官になる道を諦めた自分には、事件現場へ立つ資格すらないように感じていた。
だが、今は違う。探偵という立場ではあるが、人の嘘を暴き、隠された真実を見つける仕事をしている。
だからこそ、余計に思う。もっと早く何かできなかったのか。
『また自分を責めてるな』
(責めてない)
『嘘だな』
朝日は机の上の資料から目を離さなかった。
(僕が警察に残っていたら、何か変わっていたかもしれない)
『変わらねぇよお前がいたところで。爆弾の前に立った奴を救える保証なんてねぇだろ』
(…………)
その言葉に、朝日は眉を寄せる。
(お前はそうやって割り切れるのか)
『割り切るしかねぇんだよ。それより犯人探しだろ?』
(…………)
『お前が捕まえたいなら好きにしろ。ただ、復讐したいなら手伝うぜ?』
朝日は、少しだけジャックという人間を理解し始めていた。この男は奪うことしか知らないのだ。
そんなことを考えていた時、事務所の電話が鳴った。
依頼の電話だった。朝日はいつものように受話器を取り、相談内容を聞く。
探偵としての日常は続いていく。
松田の事件も、萩原の事件も、降谷と諸伏がいなくなった理由も何一つ解決していない。
それでも朝日は歩き続けるしかなかった。