殺人探偵 朝日結人 作:バットエンド厨
朝日は依頼人から渡された写真とビルの出入口を見比べながら、小さく息を吐いた。企業から持ち込まれた調査依頼は、退職した社員が機密資料を持ち出した可能性があるため、その人物の行動を確認してほしいというものだった。
派手な事件を追うことばかりが探偵の仕事ではない。張り込みも尾行も立派な仕事の一つだと理解していても、同じ場所に何時間も立ち続ける時間にはまだ慣れなかった。
そんな時だった。非常口から黒い服を着た男が姿を現し、辺りを何度も警戒しながら裏口へ回っていく。その様子は資料を持ち逃げした会社員とは思えないほど切迫しており、追われている人間特有の焦燥が滲み出ていた。さらに数秒遅れて、同じような黒い服の男が現れる。迷いなくビルへ入っていく姿を見て、朝日は依頼のことを頭から追い出した。
「……これはまずいな」
警察へ通報することも考えたが、今から説明しても到着までには時間が掛かる。その間に何か起きれば取り返しがつかない。だからといって一般人が首を突っ込むべきではないことも分かっていた。
しかし、警察学校で教えられた「目の前で起きている危険から目を逸らすな」という言葉が脳裏をよぎり、結局、朝日は人気のない非常階段へ足を踏み入れてしまう。
階段を上がる間、頭の中ではジャックが愉快そうに笑っていた。
『探偵ってのは好奇心が強ぇな。俺様ならさっさと帰るふりをして、外で待ち伏せするがね』
茶化すように言う声を無視しながら、朝日は一段ずつ慎重に足を運ぶ。屋上へ近づくにつれて男たちの話し声が聞こえ始めたため、扉を勢いよく開けるような真似はせず、数センチだけ隙間を作って外の様子を窺った。
屋上では二人の男が向かい合っていた。一人は長い髪を靡かせ、拳銃を下ろしたまま静かに何かを語りかけている。もう一人は自分の胸へ拳銃を向けていた。その横顔が見えた瞬間、朝日の思考は完全に止まった。
諸伏景光だったからだ。
警察学校を途中で去った自分を最後まで気に掛けてくれた同期。その穏やかな笑顔しか知らない男が、今まさに自ら命を絶とうとしている。
理解が追いつかないまま耳へ飛び込んできたのは、「俺はFBIだ」という長髪の男の言葉だった。意味が分からない。諸伏は警察官になったはずだ。なぜFBIを名乗る男と銃を手に向かい合っているのか、朝日には何一つ分からなかった。
それでも、諸伏の指がゆっくりと引き金へ掛かっていく様子だけは見えた。このまま見ているだけでは取り返しがつかない。そう判断した朝日は考えるより先に扉を押し開け、「モロ!」と叫びながら屋上へ飛び出した。
その声に諸伏の肩が大きく震え、長髪の男も驚いたように朝日へ視線を向ける。諸伏は信じられないものを見るような表情で口を開き、「……アーサー?」と掠れた声を漏らした。
「何してるんだモロ!警察になったお前が、どうしてこんなところで拳銃なんか持ってる!しかもFBIって何なんだ。何が起きてるんだよ!」
朝日は一気にまくし立てた。何年も会っていなかった同期が目の前で命を絶とうとしているのだ。冷静でいられるはずがない。しかし諸伏は苦しそうに首を横へ振るだけで何も答えようとせず、長髪の男も朝日を警戒するように視線を向けながら状況を見極めようとしている。その重苦しい沈黙を破ったのは、屋上へ続く階段から聞こえてきた激しい足音だった。
階段を駆け上がる足音は迷いがなかった。屋上の扉が勢いよく開き、飛び込んできた人物を見た朝日は思わず息を呑む。
「……ゼロ?」
金髪の男もまた、屋上に朝日の姿を見つけると一瞬だけ目を見開いた。しかしその驚きはすぐに消え、視線は諸伏へ戻る。その眼差しには、警察学校で仲間と笑い合っていた頃の柔らかさはなく、任務の最中にある人間だけが見せる鋭さが宿っていた。
「ヒロ。」
降谷は短く名を呼んだ。その声だけで、諸伏の張り詰めていた表情がわずかに緩む。
「ゼロ……」
「無事か」
「……ああ」
二人のやり取りを見て、朝日はますます混乱した。久しぶりに再会した同期同士とは思えない。互いを気遣う気持ちは伝わるのに、その間には何年もの間、自分の知らない時間が流れていたことが嫌というほど感じられた。
「誰か説明してくれよ」
朝日は諸伏と降谷を交互に見つめた。
「さっきから何なんだよ。モロは拳銃を持ってるし、この人はFBIだって言うし、ゼロまで現れて……何に巻き込まれてる?」
「あいつがFBI……?」
降谷は長髪の男を睨みつけ黙った。諸伏は何かを言おうとして唇を開いた。しかし、その言葉は喉まで出かかったところで止まり、代わりに視線が伏せられる。降谷はそんな諸伏を一瞥すると、朝日の前へ一歩だけ歩み出た。
「アーサー」
久しぶりに呼ばれたあだ名だった。それだけで、警察学校の記憶が脳裏をよぎる。教場で並んで講義を受けた日々。訓練帰りに食堂で他愛もない話をした時間。卒業すれば、それぞれ違う部署へ進んでも、また会えると信じていた頃の思い出だった。
だが、目の前にいる降谷の声は、あの頃とは違う。
「ここから先は聞くな」
「何だよ、それ……」
「帰れ」
朝日は思わず笑ってしまった。笑うしかなかったからだ。
「帰れって……何年ぶりに会ったと思ってるんだ。モロまでいるんだぞ。そんな一言で帰れるわけないだろ」
「帰れ。」
降谷は同じ言葉を繰り返した。その表情には迷いも怒りもない。ただ、絶対に譲れない一線だけがあった。
「今日ここで見たことは全部忘れろ」
「無理だろ」
朝日は首を横へ振る。
「説明もなしに忘れられるわけがない。モロ、お前からも何か言ってくれ。ずっと連絡もなくて、ようやく会えたと思ったらこんな状況だぞ。何があったんだ」
諸伏は朝日の顔を見つめたまま、苦しそうに眉を寄せた。
「……ごめん」
絞り出すような声だった。
「今は何も話せない」
「今じゃなくてもいい。後でいいから説明してくれ」
「それも……約束できない」
その返事を聞いた瞬間、朝日の胸に重いものが落ちた。諸伏は嘘をつく人間ではない。だからこそ、その「約束できない」という一言が、この先も事情を話すつもりがないという意味だと分かってしまう。
降谷は朝日の様子を静かに見つめると、小さく息を吐いた。
「アーサー」
「…………」
「お前は何も知らない。そのままでいてくれ」
「知らないままでいろって言うのか?」
「そうだ」
「同期だろ」
「だからだ」
降谷は少しだけ目を伏せ、言葉を続けた。
「お前を巻き込みたくない」
朝日は返す言葉を失った。それが本心だということだけは分かる。しかし、本心だからといって納得できる話ではなかった。何も知らされず、何も説明されず、それでも「信じて帰れ」と言われて素直に頷けるほど、自分たちの関係は軽いものではなかったはずだ。
屋上には誰も口を開かない時間が流れた。風だけが吹き抜け、朝日は目の前にいる二人が、自分の知っている同期とはもう違う世界を生きているのだという現実を、少しずつ受け入れ始めていた。
長い沈黙の末、朝日はゆっくりと息を吐いた。ここで問い詰めたところで答えが返ってこないことは、二人の表情を見れば嫌というほど分かる。それでも、何も知らされないまま背を向けることには強い抵抗があった。
「……分かったよ」
その一言に、諸伏がわずかに顔を上げる。
「でも、一つだけ覚えておいてくれ。お前らがどんな仕事をしてるのかも、何に巻き込まれてるのかも僕には分からない。でも、助けを求める相手くらい選べ。全部一人で抱え込むな」
二人は返事をしなかった。ただ苦しそうに目を伏せるだけだった。その沈黙が何よりの答えだった。
「……すまない」
それ以上の言葉は続かなかった。謝ってほしかったわけではない。事情を話してほしかったのだ。だが、それすら口にできないほど重い何かを二人が抱えていることだけは伝わってくる。朝日は諦めたように笑うと、小さく肩をすくめた。
「今日じゃなくていい。明日でも、一年後でも、十年後でもいい。全部終わったら、その時はちゃんと説明してくれ」
諸伏の喉がわずかに動く。何かを言おうとして、結局言葉にはならなかった。降谷も黙ったままだった。二人とも約束ができないのだ。その事実だけが、朝日の胸を締め付ける。
「……じゃあ帰るよ」
朝日は踵を返し、屋上の扉へ向かって歩き始めた。あと数歩で階段へ入るというところで立ち止まり、振り返ることなく背中越しに言う。
「生きろよ。二人とも」
短いその一言だけを残し、朝日は屋上を後にした。
非常階段を下りながらも、心臓は落ち着かなかった。頭の中では、諸伏が胸へ拳銃を向けていた姿と、降谷の冷たい声が何度も繰り返される。警察学校を辞めて以来、ようやく再会できた同期だったというのに、自分は何一つ知らされず、ただ帰れと言われただけだった。
『……追わねぇのか?』
静寂を破ったのはジャックだった。
「追ってどうする」
『あいつらどう見ても普通じゃねぇ。俺様なら最後まで探る』
「だから探偵は嫌われるんだよ」
朝日は苦く笑った。本当は帰りたくなどなかった。何が起きているのか知りたかった。諸伏がなぜあんな顔をしていたのか、降谷がなぜ自分を突き放したのか、全部知りたかった。
それでも屋上へ戻らなかったのは、最後に見た諸伏の表情が、何よりも「これ以上踏み込むな」と訴えていたからだった。
ビルを出ると、夕暮れだった街はすっかり夜へ変わっていた。朝日は依頼のことなど頭から消えたまま駅へ向かって歩き出す。
その日から何日待っても、何週間待っても、降谷からも諸伏からも連絡は来なかった。電話をかけても繋がらない。
屋上で交わした「後で説明してくれ」という約束は、果たされることなく時間だけが過ぎていく。そして朝日は、この日を最後に再び二人と音信不通になった。