殺人探偵 朝日結人 作:バットエンド厨
休日の昼下がり
依頼も片付き、探偵事務所にこもっていても気が滅入るだけだと思った朝日は、久しぶりに郊外のショッピングモールまで足を伸ばしていた。本屋で新刊を眺め、生活用品を買い足し、昼食でも食べて帰ろうかとエスカレーターへ向かっていると、不意に見覚えのある後ろ姿が目に入る。
「……あれ?」
白いブラウスに淡い色のカーディガンを羽織り、買い物袋を片手に歩く女性が足を止めて振り返る。目が合うと、向こうも少し驚いたように目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「あれ、朝日さん」
「店員さんじゃないか。こんなところで会うなんて」
「ふふ、びっくりしました。今日はお店、お休みなんです」
そう言って買い物袋を軽く持ち上げる。その自然な仕草に思わず笑ってしまう。
「休日にまでエプロン姿だったら驚くよ」
「さすがにそれは嫌ですよ」
二人で笑い合う。
Snowdropでは毎日のように顔を合わせていても、店の外で会うのは初めてだった。仕事中とは違い、どこか年相応の女性らしい柔らかな雰囲気がある。
「朝日さんもお買い物ですか?」
「色々買うものがあってね。本当はもう帰るつもりだったんだけど」
「じゃあ、お昼は?」
「まだ食べてないけど……」
「私もなんです」
少しだけ間が空き、彼女は遠慮がちに微笑んだ。
「……よかったら、ご一緒しませんか?」
その言葉に少し驚いたが、断る理由もない。
「もちろん。せっかくだし」
彼女はどこか安心したように表情を緩めた。
『ほう〜……休日に偶然会って飯のお誘いか。随分できすぎてんな』
心の奥でジャックが鼻を鳴らす。
(偶然だろ)
『探偵が偶然を信じるとはな』
(疑ってばかりじゃ疲れるよ)
『俺様ならまず尾行を疑うが』
(君はそういう人生だったんだろうね)
心の中だけでため息をつきながら、朝日は彼女と並んでフードコートへ向かう。休日だけあって館内は家族連れや学生で賑わっており、小さな子どもがはしゃぐ声や店員の呼び込みがあちこちから聞こえてくる。
席を探して歩いていると、突然、乾いた悲鳴が館内に響き渡った。
「きゃああああっ!」
一瞬で周囲の空気が凍り付き、続いて誰かが叫んだ。
「人が倒れてる!誰か救急車!」
人の流れが一斉に一方向へ動き始める。朝日と彼女は顔を見合わせ、ほぼ同時に駆け出していた。
現場は吹き抜け近くの休憩スペースだった。ベンチの脇で中年の男性が仰向けに倒れ、胸元には赤黒い染みが広がっている。近くには買い物袋が散乱し、悲鳴を上げる女性を店員が必死になだめていた。
朝日は人混みをかき分けて男性のそばへ膝をつく。
「すみません、少し場所を空けてください!」
首元へ手を当てるも脈はなく呼吸も止まっている。胸の傷を確認した瞬間、心の奥でジャックが静かに笑った。
『一撃か。綺麗にやりやがる!』
(黙って)
その声を無視して周囲を見渡すと、少し離れた場所で彼女もしゃがみ込み、散らばった荷物を見つめていた。仕事中と変わらない落ち着いた表情だったが、その瞳だけが一瞬、何かを探るように細められた。朝日と目が合うと、彼女は何事もなかったかのように小さく頷き、「警察が来るまで、この辺りには触らない方がいいですね」と静かに口にした。
「救急車はまだか!」
警備員の怒鳴り声が響き、野次馬を押し戻すように規制線代わりのロープが張られていく。朝日は遺体の傍らから立ち上がると、一歩下がって深く息を吐いた。警察が到着すれば、現場保存のためにできることはほとんどない。
「朝日さん」
呼ばれて振り向くと、彼女が人混みを抜けて近づいてくる。その手には、さっきまで床に散らばっていた紙袋が抱えられていた。
「落ちていた荷物、店員さんに預けてきました」
「ありがとう。助かるよ」
「探偵さんって、休日でもこういう事件に遭うんですね」
冗談めかした口調だったが、その視線は僕ではなく、規制線の向こうの遺体へ向いていた。
「職業病かな。そんなつもりはないんだけど」
「……そういうものなんですか」
「たぶんね」
彼女は小さく笑ったものの、その笑みはすぐに消えた。人混みのざわめきに紛れてサイレンが近付いてくる。
「朝日さんは、もう犯人の目星は付いてるんですか?」
「さすがにそこまでは。情報が少なすぎるよ」
「そうですか……」
彼女はそれ以上聞かず、少しだけ離れた位置から現場を見渡していた。その落ち着き方は、普通の一般人にしては妙に冷静だった。
『見てみろ。あの女、死体を見ても顔色一つ変えねぇぞ』
(ショックを受けにくい人なんじゃないか?)
『違うな。見慣れてる目だ』
朝日は聞き流した。
人にはそれぞれ事情がある。事件現場を前に取り乱さないからといって、それだけで疑う理由にはならない。
やがて制服警官が到着し、現場検証が始まる。関係者らしい人物をその場に残し、それ以外は順番に事情を聞かれた。
「休日に偶然会って、一緒に食事をしようとしていたところです」
彼女は警察官の質問に自然な笑顔で答える。
「朝日さんとは、お店のお客さんとして顔見知りなんです」
「それだけです」
「はい」
淀みのない受け答えだった。朝日も同じ内容を話し終え、聞き取りはすぐに終わる。
「足止めしてすみませんでした」
警察官に頭を下げられ、規制線の外へ出ると、彼女は困ったように肩をすくめた。
「結局、お昼食べ損ねちゃいましたね」
「事件が起きちゃ仕方ないよ」
「そうですね」
彼女を放って捜査に参加するのはやめておき、警察に任せることにした。しばらく歩き、館内の少し離れたカフェへ入る。ショッピングモール全体が事件の話題で持ちきりだったが、ここまで来ると少しだけ静かだった。
注文を済ませ、向かい合って座る。
「朝日さんって、ああいう現場をたくさん見てきたんですか」
「普通よりは多い方だと思う」
「慣れます?」
「……慣れたくはないかな」
彼女は静かに頷く。
「毎回、誰かの人生が終わる瞬間だから」
その言葉に彼女は何も返さなかった。
運ばれてきたコーヒーに口を付けたところで、ジャックが不意に鼻を鳴らした。
『……あの女、お前を見てる気がしねぇんだよな』
(どういう意味?)
『…………』
朝日はカップを置き、さりげなく彼女へ視線を向ける。彼女は窓の外を眺めていただけで、目が合うといつものように微笑んだ。
「どうしました?」
「いや、何でもない」
『勘違いかもしれねぇ』
ジャックは珍しく断言しなかった。
『だが、あの目は一度だけ……お前じゃなく、"こっち"を見た』
ショッピングモールを出た頃には、辺りはすっかり夜になっていた。
駅前で彼と別れたあと、私は一人で人通りの少ない裏通りを歩く。Snowdropで働く「ただの店員」なら、休日の買い物を終えて帰宅するだけの、ごくありふれた夜だった。
人気のない路地へ入ると、私は歩みを止める。ポケットから小型の通信端末を取り出し、慣れた手つきで暗号化された回線を開いた。数回の電子音のあと、相手が応答する。
「私です」
返ってきたのは感情のない合成音声だった。
『報告を』
「対象、朝日結人。術後経過の観察任務を継続中。本日、偶然を装い接触しました」
嘘ではない。本当に偶然だった。休日の行動まで監視する予定はなかったが、あの場で接触しない理由もなかった。
「身体機能、精神状態に大きな異常は確認できません。ただし……」
そこで一度言葉を切る。自分でも、あれが何だったのか整理できていなかった。
「あの探偵には……何かいます」
通信の向こうが静かになる。
『詳しく説明しなさい』
「説明が困難です。視認はしていません。しかし一度だけ、対象から別人のような気配を感じました」
あの瞬間だった。遺体の傍らで周囲を観察していた朝日結人ではない。
もっと濃く、重く、底知れない何か。組織の人間として数え切れない死を見てきた自分だからこそ分かる、生者のものではない殺気。ほんの一瞬だけ、それがこちらを見返した気がした。
『敵意は?』
「ありません。ただ……こちらを認識したような感覚がありました」
『対象本人ではなく?』
「はい」
自分でも非合理的な報告だと思う。姿も見ておらず声も聞いていない。証拠も何もない。
それでも、あれを"朝日結人"と断定することだけはできなかった。
「対象の中に、別人格が存在する可能性があります」
その言葉を口にした瞬間、通信先が再び沈黙する。
それは、あまりにも長い沈黙だった。
やがて聞こえてきた声は、先ほどまでとは違い、わずかに緊張を含んでいた。
『……その報告に間違いはないか?』
「ありません」
私は即答した。訓練された記憶力に自信はある。錯覚なら錯覚と報告する。分からないものは分からないと言う。
だが今回は違う。あれは確かに……存在した。
『了解した』
短い返答のあと、思いがけない言葉が続いた。
『観察任務は終了だ』
私は思わず眉を寄せる。
「終了、ですか」
『今後対象への接触は不要。店も離れろ』
予想外だった。五年間続けてきた任務である。術後の経過観察という名目だったとはいえ、朝日結人の日常は把握している。あれほど長く潜入していた任務が、こんなにもあっさり終わるとは思わなかった。
「理由を伺っても?」
『知る必要はない』
その一言で会話は終わった。通信は切れ、端末の画面が暗くなる。
私はしばらくその場に立ち尽くしていたが、小さく息を吐いて端末をしまった。
明日からは、もうSnowdropの制服に袖を通すこともない。店のマスターには急な家庭の事情とでも伝えれば済む話だろう。
そう考えながら夜道を歩き始めた私は、最後まで一度も振り返らなかった。
数日後の夕方、依頼を一件終えた朝日は、いつものように探偵事務所のドアに鍵を掛けると、道路を挟んだ向かいにあるSnowdropへ足を向けた。
特別な理由はない。ただ、仕事が終わればコーヒーを飲みに行く。その習慣が何年も続いているだけだった。ドアベルが鳴ると、カウンターの奥で食器を磨いていたマスターが顔を上げる。
「いらっしゃい、朝日君」
「こんばんは。いつものお願いします」
「ああ」
席に腰を下ろし、新聞を手に取る。店内にはコーヒー豆を煎る香ばしい匂いが漂い、流れているジャズもいつもと変わらない。
けれど、何かが足りなかった。注文を取りに来る足音も、「今日は遅かったですね」と笑う声も聞こえない。
新聞から顔を上げ、店内を見回す。厨房にも、カウンターの中にも、その姿は見当たらなかった。
「……あれ」
思わず呟くと、マスターがコーヒーカップを置きながら首を傾げた。
「どうかしたかい?」
「店員さん……ほら、いつもいた」
「ああ」
マスターは少しだけ困ったような顔になり、カップを拭いていた手を止めた。
「辞めたよ」
「え?」
あまりにあっさりした返事だった。
「急に家庭の事情ができたとかでね。一昨日だったかな、突然そう言われてさ」
「急だったんですか?」
「うん。本人も申し訳なさそうにしてたよ。荷物もその日のうちにまとめて出て行った」
朝日は自然と店の奥へ目を向けるも、そこには何もない。エプロンも、彼女が使っていたメモ帳も、小さな観葉植物も、最初から誰もいなかったように片付いている。
「連絡先とかは……?」
「聞いてないなあ。住み込みだったから、出て行った後はどうしたか知らないよ」
マスターは苦笑いを浮かべた。
「朝日君とは仲が良かったから、てっきり何か聞いてるものかと思ってた」
「……僕も初耳です」
その言葉を口にすると、不思議な空虚さが胸に広がった。何年も毎日のように顔を合わせ、他愛もない話をしてきた相手だった。店員と客という関係だったとはいえ、挨拶もなく姿を消されるとは思ってもみなかった。
「最後まで律儀な子だったよ。店もよく手伝ってくれたし、助かってたんだけどね」
「そうですか……」
運ばれてきたコーヒーを口に含む。
味はいつもと変わらず、豆も淹れ方もいつも通りだ。それなのに、どこか物足りなく感じてしまうのは、その味に慣れてしまったからではなく、この店の景色の一部になっていた彼女がいないからなのだろう。
『消えたか』
(急すぎるよね)
『だから言ったろ。普通の女じゃねぇって』
朝日は返事をしなかった。
彼女が何者だったのか、どこへ行ったのか、考えたところで答えは出ない。
ただ、カウンター越しに「いつものですね」と笑ってくれる人は、もうこの店にはいなかった。