「おおっと? こっちのかわい子ちゃんは限界みたいだな? 気を失ったエサなんて俺たちの好きにしても構わないが……」
意識を失い、身体も命も全て旧鼠に預けた家長カナを見て旧鼠は舌舐めずりをした。
少女を二人誘拐するなんて簡単な仕事だと思っていた旧鼠は夕方に食事を軽く済ませただけだった。しかし少女たちの意外な抵抗と謎の犬が乱入して場を掻き回してきた。満足に食事が出来ていない旧鼠にとっては予想外のハプニングであり、ストレスが溜まっていたのだ。ストレスが溜まるということは──空腹にもなりやすいということ。
良いんじゃないかここで食事をしても。人質が一人いれば事足りる。あの出来損ない相手なら楽にことが運ぶ。なら管理しやすい人数が良い。そうだ、そうしよう。ならばこの少女を食べても問題はない。
旧鼠はそう思い、
「旧鼠! その子に手ぇだしたら許さん!!」
それは怒りの形相で式神である狼に跨っている少女・
理屈ではなく気持ちで周囲を圧倒する。妖怪退治を生業とする陰陽師は自然とそれを身につけている。人々を
その気概により、旧鼠の行動は中断される。地位や名誉よりも食欲を優先とする旧鼠は安全に食事をするために厄介な陰陽師のゆらを無力化させるため──カナを使うことにした。
「だったら、大人しくその式神をしまえ。勿論、他の式神を使うのもダメだ。さもなくば──」
意識を失っているカナの体をぞんざいに扱い、見えやすく、分かりやすく爪を首筋に当てる。逆らえば無傷ではないと伝えるために。──そんな分かりやすい脅しに、ゆらは従わざるを得なかった。
旧鼠と遭遇した時、カナはゆらよりも早く行動を起こし、不思議な道具を扱っていたが妖怪と対峙する姿勢そのものが、ゆらと同業者とは思えなかったのだ。
妖怪に対する抵抗手段が逃げるという選択肢であったこと。陰陽師や修験者にとっては積極的に教えたがらない道具の仕入れ先を素直に教えたことが理由としてあげられる。
妖怪に立ち向かう術を持たない一般人はまじないに頼ったり、神社仏閣によるお守りを持って逃げることが多いのだ。中には蛮勇を示すものがいるが、カナの一連の行動は、妖怪に対抗する手段を持たない一般人そのものだった。
一般人を守るという理念を持っているゆらは例え無謀であったとしても、罠であったとしてもカナを無傷で守るべく旧鼠の要求を飲まざるをえないのだ。
大人しく式神を元の符に戻したゆらに待っていたのは──背後からの痛烈な一撃だった。式神による守りもなく、肉体強度は一般人とそう変わらないため妖怪からの単純な殴打も致命的な一撃となる。
「な……なん、で……」
背後からの攻撃により意識を狩られ、ゆらはなぜ自分たちが狙われていたのか疑問に思いながらその場で倒れ込む。
鼠たちの後の行動は二人を連れて根城へ帰還するだけなのだが──それを所属及び目的が不明な犬たちが阻む。犬たちはゆらの意識が失う前からある一点だけ見つめていたが、ゆらが抑止力となっていたために大人しくしていたに過ぎない。犬たち視線の先にいるのは──旧鼠の腕の中で眠るカナだ。
旧鼠がゆらに近付かず、近くにいた部下に意識を刈り取らせたのは犬の存在があったからだ。ゆらに近付くということは犬に近付くということ。今は旧鼠がカナの身柄を押さえているため優位性を取れているが、一歩でも近付けばこの優位性が損なわれると本能的に理解していた。
旧鼠の妖怪としての基本性能は他の鼠妖怪と変わらないが、唯一の特性が「猫に勝つこと」。「窮鼠、猫を噛む」という言葉の由来元である旧鼠は猫に勝つという絶大な
「ボス〜……俺たちは言われたことをちゃあ〜んとやり遂げたぜ。だから、ここから先はアンタの仕事だろ」
「……」
窮鼠の言葉に応えるように建物の影から現れたのは黒髪の長髪の男だった。
その男は──静かな男という印象を与える人物だった。背が高く、体格もよいその男は黒の着物の上に草色の袖のない羽織を着ていた。
男は旧鼠をチラリと見ただけで何かをするという素振りを見せない。それに焦れた旧鼠は急かすように怒鳴りつける。
「俺たちはこの後、
「……」
旧鼠の声を聞いても男は微動だにしなかった。そんな態度に旧鼠の機嫌はどんどんと下がっていき──空腹なこともあり──、気を失っている少女たちに対して加虐しようと身じろいた。
「──ドブネズミ。それ以上娘たちを粗末に扱ってみろ。死してなお苦しみ続ける奈落へ叩き落とすぞ」
瞬間、聞き慣れない声が響く。
鼠たちは新たな第三者が乱入したのかと思ったが、よく見てみると自分たちを襲撃してきた犬たちが言葉を発した存在に対して
その犬は
獣系妖怪の多くは弱肉強食を至上とする。旧鼠もそのうちのひとりであり、自らの力を絶対だと信じて組を立ち上げたのだ。故にどんな存在もいずれは己の足元に跪くと信じてやまなかったのだ。だが──隈取の犬と対峙して、その心が今にも挫かれそうになっていた。
隈取の犬が持つ、圧倒的な存在感によって。
大きさはせいぜい大型犬ぐらい。単純な大きさでいえばゆらが使役した貪狼の方が圧倒的なサイズだった。それなのに、それなのに! 目の前にいる犬は他の犬どもとは別格なのだと認識せざるを得ない! 獣としての本能が、そう訴えかけてきている!
隈取の犬はおおよそ旧鼠と男から25メートルほどの距離で立ち止まり、その場で座った。
「へぇ……この騒動、あんたが関与していたのか」
「久しぶりだな、“山犬”殿」
「俺はこんな形で会いたくなかったよ、“
二人は静かな火花を散らす。
男……もとい牛鬼と呼ばれた男はここにきて初めて姿勢を崩す。──何が起きても即座に対応できるように。対する隈取の犬……山犬と呼ばれた犬はため息をつき頭を軽く振るだけだった。
「まどろっこしい。──単刀直入に、娘たちの解放を要求する。アンタの我儘に無関係な子どもを巻き込むな」
「断る」
「必要だから断るって? ふぅん……ま、そんな簡単に渡してくれるとは思っていなかったケド……」
「……」
「俺らは犬だからな。
「!? ──何故だ」
山犬の発言に理解出来ない牛鬼は思わずといった様子で問いを投げかけた。ここで彼らが引き下がる理由が分からなかったからだ。現在、旧鼠の腕にいるカナは山犬によって
山犬──妖怪 送り犬の性質はマーキングをつけた対象が山から降りて無事に帰宅するのを見守るか、条件を満たした瞬間に食糧として喰らうものだと牛鬼は知っている。その対象が旧鼠の手に落ちているのだ。妖怪の
「言っただろ? 主人の命に従うと。そのマーキングは生存確認のためにつけている。──分かるな? 今、その娘は
そう言い放つ山犬の目には、明らかな敵意と不満が宿っていた。だが、山犬はそれを理性で制しているため、これ以上何かをする気はないらしく立ち上がって牛鬼と旧鼠に背を向けた。
伝えるべきことを伝えた山犬はその場で遠吠えをし──犬たちを引き連れて何処かへ走り去った。同時に今まで妖怪しかいなかった大通りに
「どうやら、初めからあの山犬殿の領域だったようだな。人払い……いや、
「ボス……あいつは、一体なんだったんだ……?」
旧鼠の言葉に牛鬼は即座に回答をしなかった。しかし。
「……奴良組二代目総大将と交流のあった犬だ。
「は?」
「──旧鼠、その娘は特に丁重に扱え。お前自身がカミに呪われたくなければな」
牛鬼は旧鼠の腕にいる少女をみやる。ただの人間の娘と認識していたが、カミに気に入られているとなると話が異なる。
──この少女の命が失われることがあれば、リクオの心を傷付けるだけでなく奴良組が壊滅する危険があるということになるのだ。
カミの執着は凄まじく、お気に入りに害をなせばどうなるか──口にするにも
【???】
・山犬
名作「大神」のアマテラスのカラーリングが異なる姿(体毛を黒。隈取が白)を想像すると作者のイメージに近い。
複数の犬を連れてカナを取り返そうとしたがとある人物の命令により見逃すことになった。非常に強い力を有しているため現世への直接介入は控えており、今回は下僕に憑依して現世に介入した。
牛鬼曰く、奴良組二代目総大将と交流があった。