一人は泥を見た。
一人は星を見た。
(フレデリック・ラングブリッジ、「不滅の詩」)
夜が来るたびに考えることだ。
俺が寝ている間に、手の届く範囲で、もしも誰かが死んでしまうとしたら?
どうしようもなく暗い空に包まれることを『夜』という。
そんなに暗いなら、俺の家の玄関の前で誰かが餓死寸前になって行き倒れても、誰かが俺の家の前の坂で転んで頭を打っても、誰か悪いやつが俺の家の裏で女の子に
俺が起きていたら、気付くことができるんじゃないか。
俺が寝なければ、誰かを助けることができるんじゃないか。
考えすぎだ、と母ちゃんは言った。
あぁ、分かってるよ母ちゃん。だけどよ、だけどよ――今、現実によ。
家の前の電信柱で。
人間が、死んじまってんだよ。
*
「おーい
「感電死か? 黒焦げだったのか!?」
「お前の家の目の前だって話しじゃねぇか」
「男か女かも分かんねぇってマジ?」
「宿題見せてくれよジョジョ。数学ってゴミじゃねぇか?」
遅刻して登校した学校では、もう話が回っていた。どこから話が漏れたかは知らない――SNSにテレビに人間の噂話に、思い当たるフシがありすぎる時代だ――が、どちらにしろ困る。
「オイオイお前ら。
――
なんかあったら、遠慮なく先生に言うんだぞ」
あだ名はジョジョ。
高校二年生なのに、『電信柱で尻から口まで貫かれた死体』と、『血と内臓で彩られた電信柱』を見てしまったのを、俺は一生忘れられないだろうと確信していた。
「べっつにぃ~……困ってなんかねぇっすよ、センセ。俺ァいつも通りです」
「……まぁ、そりゃあ見りゃ分かるがなぁ」
野次馬の生徒を散らした担任の目に、俺が映る。
「まぁ安心したよ。
その
「よくよく見てくださいよセンセ。この髪。カードゲームアニメの主人公みてぇでしょ? セットに時間かかるんですよ――だけど乱れ一つない。
ってことはですよ、センセ。
外見の乱れは心の乱れ。
乱れ一つない髪型から分かる通り、俺の心に乱れは一つもねぇワケです」
「……ひどい惨状だって話だ。先生は見てないが……スクールカウンセラーだって電話ひとつで呼べる時代だからな。抱え込むなよ」
俺は鼻で笑った。
「イマドキの学生はグロに耐性あるんですよ。エロもグロもインターネットで無限に見れる時代ですからね。センセが心配するようなことはひとつもねぇっす……けど。
ご心配、あざっす」
「だったらいいが……」
「今朝だってバッチリ四時起きだったんです。そうだなァ……強いて言えば警察の事情聴取がキツかったかなぁ。母ちゃんも慌てっちまってさ。
ま、暫くは色々と忙しいんで、センセの宿題減らしてくださいよ」
「……そのくらいなら良いぞ。他の生徒にはナイショな」
「あざっす!」
頭をかいて背を向ける担任に、俺はへらへらと笑って礼を言った。
あぁ、だが。
だが、引っ掛かることがないわけじゃない。
死体を見て吐くほどヤワな身体じゃないのは事実だし、警察の事情聴取が厄介だった――こと以外、日常生活への影響がないのも本当だ。だが、だけれど。
「午前三時……」
警察が漏らした、被害者の死亡時刻。
俺が
「……なんてのは、ねぇ」
傲慢という言葉が脳裏をよぎった。
俺はただの高校二年生で、特別な力なんて何もない……ガタイ自体はそれなりに良い方だったが、喧嘩が強いかと聞かれればやったことがないのでわからないし、何より人間を殴る度胸があるかも怪しい。
そんなやつが、起きていたとして。
電信柱で――
できやしない。
できるわけがない。
そんなことは分かっていたが……それはそれ、だ。
*
深夜一時。
俺は、家の外に出た。
パトロール? 違うね。ただ喉が渇いただけだ。自販機は家から数十メートルの所、道のカドで光を放っている。そこまで行って、ジュースでも飲んで一息ついて、それから帰って寝るだけ。なにもおかしいことじゃあない。普段はしないってだけだ。
という言い訳を母ちゃんにすることは決まっていた。
まぁ、母ちゃんは夜勤で家にいないし、この言い訳を話すこともないだろう。
俺はスマホの明かりを手に、自販機の光の前まで歩いていく。
都市郊外にある、住宅地の夜だ。
坂だらけで、車がないと登下校もめんどくさい(俺は自転車に乗ってる)。
要するに都市本体からすると田舎というか、過疎っている地域というか、とにかく街灯が少ないため、夜はひどく暗かった。
夏の夜なのに、暗いせいか、ぞっとするほど寒い。
警察はまだ犯人を見つけていない。
だが、死体はもう撤去されている。
その事実が、俺の肌を刺すように冷たかった――怯えている? 自分から家の外に出ておいて? 笑えるな。じっさい怯えてんだよ。大の男が。
俺はスマホのタイムラインに目を落とし、それじゃあ気が紛らわせないことに気付いて顔をあげた。
自販機の前に、人が立っていた。
「えっ……」
もう一度思い出してみよう。ここは都市郊外で、夜は街灯が足りないレベルで暗い。
住宅地で、自販機の明かりこそあるが、それが照らすのは夜の蟲ばかりだ。
当然、人影は少なくなる。
今は深夜一時。
人が立っていた。
見知らぬ人影だった。
「……なによそのピアス。蛍光塗料じゃないの。レベルたけぇファッションだわねぇ……」
男。
男、のはずだ。
なぜ迷ったか?
相手を、『男』と呼ぶのに迷ったからだ。
ブ厚い唇に、無数の金属ピアスが自販機の明かりを反射している。
着ている衣装は肩を出したワンピースで、そこから隆々とした肩の筋肉が覗いている。
白いワンピース。
夏らしい麦わら帽子。
そして、入れ墨の刻まれたスキンヘッド。
ブ厚い唇に、長いスプリットタンをちらりと覗かせ、囁きは女言葉。
「ン、ナイス」
――男と呼ぶべきかは怪しい。だが、間違いなく、不審な人物だった。
「……ナイス・アーティスティックよ。
「こ、こんばんは」
「こんばんは。
俺をボォイと呼ぶその不審人物は、自販機の明かりの前で俺を待つように佇んだ。
何者か。
尋ねる勇気はない。
何故ここにいるのか。
尋ねる勇気は、当然ない。
腰のスマホを探る。俺は110番なら画面を見ないでも打て――
「あ、それちょっと
「――えっ」
スマホが、ない。
俺が目を凝らすと、自販機の下、男の手の内で何かが輝いた。
「えっ……」
「
「なっ、なんで――ッ」
「あなた、
「なん、で俺のスマホ……ッ!」
「
べきり、と。
何かが起こった。いや、起こっている。
「っぐ――ぅう゛~~ッ!?」
スマホを探っていた右手が――
その事実に気付いた瞬間、激痛と脂汗が額を埋め尽くした。
いや、
俺と男の間には、5メートルほどの距離があった。
男は一歩も動いていないし、俺は彼に近づいてもいない。
だが、
「どう思った?」
「――なに、を……ッ!」
「
それは、俺が今朝見たものだった。
「
ただ
飾る必要はどこにもない」
男が、近づいてくる。
俺は後ずさろうとして――脚が、何者かに掴まれたように動かないことに気付いた。
視線を落とす。
夏の短パン。その下のあらわになった膝が――
両ひざとも、何者かに掌握されている!
「
ナイス・アーティスティック・スター・ピアス・ボォイ。お願い。落胆させないで。
次逃げようとしたら、あなたは車椅子で暮らすことになる」
「なん、で……ッ!?」
「私の
既に、
何を言っているか分からない。
アート?
アーティスティック?
イージー・ラヴァー?
「――スタ、ンド……ッ?」
「
男がダッシュで近づいてきた、その一瞬。
振り下ろされる拳。
「ぐぁあ!?」
「
次はあんたの番なのよッ!!」
視界が紅く濡れる。
俺の瞼が、男の筋骨隆々の拳で切れたのだった。
「
膝を握りしめられる感覚が、消える。
代わりに――首に、冷たい手が添えられた。
男の手では、ない。
いや、
俺は今、
「喋れなくなる前に、
「か、感想……ッ!」
首を握る見えない手に、力が入るのが分かった。
親指が喉を押し、指が俺の大動脈を包囲する。
生存本能が、俺の喉を振り絞らせた。
「――
「――ナイス・アーティスティックよ。スター・ピアス・ボォイ」
男が微笑む。
「その一言で
見えざる手に、力がこもる。
「――あんたを生かす理由を失った」
へし折れる音がした。
――痛みはない。
――熱もない。
俺は耳を疑い、目を疑った。
ブツン、と切れる下半身の感覚。
大動脈が握り潰され、脳がゆだるような感覚。
俺の首を握りしめる
人型だ。
だが、人間ではない。
人間の形をしているだけの、人間に近しいだけの。
まったく異質で別の次元のものだと思った。
自販機の明かりに照らされる、無数の
マネキンの手首から先のように無機質で、気味の悪い桃色に染められた手の群れが、寄り集まって、胸を膨らませ尻を膨らませた、誇張した人間の女性めいた形をしている。
幽霊? ――違う。
怪異? ――違う。
異質だ。だが、異なる存在じゃない。
気配が、同じなんだ。
俺の目の前。
目を冷たくした、このブ厚い唇の男の――隣に自然に
同じ人間が二人立っているような気配。
違う。
同じなんだ。
この人型は、この男なんだ!
「――スタ、ンド……」
接続を失った肺が送り出した最後の空気が、歪んだ喉から引きずり出される。絞り出される。俺の首を握る手は力を増して、このまま骨がひしゃげるような感覚に襲われて――
その手を、★が刻まれた無機質な手が掴んだ。