1章 黒猫を拾った日
雨だった。
冷たい水滴が俺の身体を容赦なく叩いていた。
(寒い。とにかく寒い)
最後に覚えているのは、残業明けの横断歩道だ。その先の記憶はない。
なにがどうなっているんだろう。今わかるのは、ただひたすらに寒い。
それだけを考えながら、俺は目を開けた。
「にゃ……」
変な声が出た。
ぼやける視界で自分の手を見る。
手じゃない。
小さな肉球。その先には、黒い毛に覆われた細い前足が伸びている。
(……なんだ、これ)
もう一度声を出そうとした。
「にゃあ」
(猫……なのか?)
どういうことだ。
俺は死んだのか。
猫になったのか。
(……いや、待て。考えるのは後だ)
身体が震えている。
このままだと、本当に死ぬ。
とにかく雨をしのげる場所を探さないと。俺は震える足で立ち上がり路地裏の奥へと歩き始めた。
だが、この小さな身体では思うように進めない。数歩歩いただけで息が上がり視界もぼやけてくる。
(これで終わりかよ……)
がっくりと地面にうずくまる。意識が遠のいていく。雨音だけがやけに大きく聞こえた。
その時だった。
「大丈夫!?」
男の子の声がして雨がぴたりと止んだ。いや誰かが雨を遮ってくれたんだ。
顔を上げると灰色の髪から雨を滴らせた少年が俺を覗き込んでいた。
「きみ、迷子かな? それとも怪我をしてるの?」
少年は俺の前にしゃがみ込んだ。質素だけど手入れの行き届いた服。手には使い古した木のバケツ。
「にゃあ……」
か細い声で鳴く。
「うわ、冷たくなってる。ずっと雨に打たれてたのか」
少年は俺の身体をそっと抱き上げた。その手が驚くほど温かい。
(あったけえ……)
少年はしばらく俺を見下ろしていた。
「……どうしよう」
一度だけ困った顔をする。
それでも俺を地面には戻さなかった。
「……よし。うちに来なよ」
(勝手に決めやがったな)
でも、悪い気はしなかった。
「僕はアレン。アレン・クロフォード。冒険者……まあまだ見習いだけど」
アレンと名乗った少年は照れくさそうに笑った。
「それじゃあ、きみの名前は……そうだな。真っ黒な毛並みだからクロ。どうかな?」
「にゃあ」
(そのまんまじゃねえか)
「わあ、もしかして今返事をした!? きみ賢いんだね」
アレンは俺を抱え直し、歩き始めた。雨はまだ降り続いている。それでも、腕の中は温かかった。
* * *
「さあ、着いたよ。ここが僕の家だ」
アレンが指さしたのは町はずれの古びた一軒家だった。
中へ入る。小さなテーブルには椅子が三脚。そのうち一脚だけが、テーブルの前に引き出されている。流しの横には洗ったばかりらしい皿とカップが一つずつ伏せてあった。壁にはアレンによく似た幼い少年と、男女が並んだ古い肖像画。
「まずは身体を温めないとね」
アレンは俺をソファに下ろすとタオルで身体を包み込んだ。頭から耳の裏まで丁寧に水気を取られる。耳の裏を拭かれて思わず身をよじるとアレンの手が止まった。
「痛かった?」
「にゃ」
違う、と言ったつもりだった。
またタオルが動き始める。
「にゃあ……」
(おい、勝手に鳴るな)
それでも喉はゴロゴロと鳴り続けた。身体の方は随分素直らしい。
「わあ、喉を鳴らしてる! 気持ちいいんだね。よかった」
アレンは嬉しそうに笑った。それから台所に行って棚を開ける。中には固そうなパンと干し肉が少し。それから小さな瓶が一本。
アレンは瓶を振って中身を確かめると少し考えてから鍋へ注いだ。
(それ、自分の分じゃないのか?)
「はいクロ。熱いかもしれないから気をつけてね」
小さな皿に注いだ白い液体を俺の前に置く。甘い香りが鼻をくすぐる。
ぺちゃぺちゃと舐める。温かいミルクが冷え切った身体の隅々まで染み渡っていく。
(うまい……)
「よかった。気に入ってくれたみたいだね」
アレンは俺の頭を撫でた。
窓の外は、いつの間にか薄暗くなっていた。
「クロ」
「にゃ?」
「……僕も一人なんだ」
アレンは俺から目を逸らした。
「だから……ちょうどいいよね」
「今日からここが、きみの家だよ」
何か気の利いたことを考えようとした。でも何も浮かばなかった。
「にゃあ」
出たのはそれだけだった。
「今日はもう休もうか」
アレンは俺を抱き上げてベッドに潜り込んだ。毛布は使い古されていたがよく乾いていた。
「おやすみクロ」
しばらくもしないうちに規則正しい寝息が聞こえてきた。
(まだこいつのことはなにもわからない)
(でも、楽な状況じゃないらしいってことはわかる)
(この恩は、いつか返そう)
アレンの腕の中で、俺は目を閉じた。
外ではまだ雨が降っていた。
でも、もう寒くはなかった。
拙い文章ではありますが、感想等いただけますと大変励みになります。
よろしくお願いいたします。