雨だった。
冷たい水滴が、俺の身体を容赦なく叩く。
(寒い。とにかく寒い)
俺は薄れゆく意識の中で、そんなことをぼんやりと考えていた。
前世の記憶が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。くたびれたサラリーマンだった頃の日々。残業続き、満員電車、コンビニ弁当。
(ああ、俺、死んだのか)
最後の記憶は、残業明けの早朝、ふらふらと横断歩道を渡っていたことだ。たぶん、トラックにでも轢かれたんだろう。呆気ない最期だった。ブラック企業に搾取され続けた人生。貯金は雀の涙。彼女なし。趣味は……猫カフェ通いくらいか。
(せめて来世は、猫と一緒に暮らせる家に生まれたいな)
そんなことを考えながら、俺はゆっくりと目を開けた。
「にゃ……」
(ん?)
今、変な声が出なかったか。
「にゃあ」
(おいおいおい)
俺は慌てて自分の手を見た。いや、手じゃない。肉球だ。ぷにぷにとした、ピンク色の、小さな肉球。黒い毛に覆われた、細い前足。
(猫だ。俺、猫になってる)
状況を整理しよう。ここはどこだ。見渡す限り、薄暗い路地裏。じめじめとした石畳の上に、俺はうずくまっている。雨がしとしとと降っていて、冷たい水滴が黒い毛皮を濡らしていく。周りには木箱や空き樽が散乱していて、生ゴミの腐った匂いが鼻をつく。
(よりによって、子猫かよ)
自分の身体を見下ろす。あまりに小さくて、頼りない。これじゃあ前世の知識もクソもない。まずはこの雨をしのげる場所を探さないと、野垂れ死にだ。
俺は震える足で立ち上がり、路地裏の奥へと歩き始めた。軒下でもあれば御の字なんだが。
だけど、子猫の足では思うように進めない。数歩歩いただけで息が上がる。身体はふらふらで、視界もぼやけてきた。
(せっかく生まれ変わったのに、これで終わりかよ……)
がっくりと地面にうずくまる。意識が、また遠のいていく。雨音だけが、やけに大きく聞こえた。
その時だった。
「……! 大丈夫!?」
男の子の声がして、雨がぴたりと止んだ。いや、誰かが雨を遮ってくれたんだ。
顔を上げると、一人の少年が立っていた。歳は十代前半。灰色の髪は雨に濡れて額に張り付いている。青い瞳が、心配そうに俺を見つめていた。
(こいつ……随分整った顔だな)
ぼやける頭の中で、なぜか失礼なことを考えながら、少年の顔をじっと見つめる。
「きみ、迷子かな? それとも、怪我をしてるの?」
少年は俺の前にしゃがみ込んだ。着ている服は質素だけど、手入れは行き届いている。手には使い古した木のバケツ。水汲みの途中だったんだろう。
「にゃあ……」
か細い声で鳴く。助けてくれ、という意味を込めて。
「うわ、冷たくなってる。ずっと雨に打たれてたんだね。それに、すごく痩せてる」
少年は俺の身体をそっと抱き上げた。その手が、驚くほど温かい。
(あったけえ……)
冷え切った身体に、じんわりと手のひらの体温が染み渡っていく。生き返る、っていうのはまさにこのことだ。
少年は俺を抱き上げたまま、困ったように視線を落とした。
「……でも」
小さくつぶやく。
しばらく黙ったあと、
「……よし」
「決めた。きみ、僕の家に来るといい」
少年はにっこりと笑って、俺をぎゅっと胸に抱いた。心臓の音が、トクトクと規則正しく聞こえてくる。
(こいつ……俺が子猫だからって、勝手に決めやがったな)
心の中で苦笑する。でも、悪い気はしなかった。
「あ、そうだ。僕はアレン。アレン・クロフォード。冒険者……まだ見習いだけどね」
アレンと名乗った少年は、照れくさそうに笑った。
「それじゃあ、きみの名前は……そうだな。真っ黒な毛並みだから、クロ。どうかな?」
「にゃあ」(……そのまんまじゃねぇか)
「わあ、返事してくれた! きみ、賢いんだね」
アレンは嬉しそうに笑って、俺を抱えたまま歩き始めた。雨はまだ降り続いているけど、もう寒くはなかった。
* * *
どれくらい歩いただろうか。
「さあ、着いたよ。ここが僕の家だ」
アレンが指さしたのは、町はずれの小さな一軒家だった。古びているけど、手入れはちゃんとされている。
「ここで、僕一人で暮らしてるんだ」
アレンは少し恥ずかしそうに言いながら、木製のドアを開けた。ギィ、と蝶番が軋む。
中は思ったより広かった。リビングには暖炉があって、使い古したソファが置いてある。壁には古い地図と、一枚の絵が飾られていた。大柄な男と、優しそうな女が並んで描かれている。多分、両親だろう。
「さて、まずはクロの身体を温めないとね」
アレンは俺をソファに下ろすと、棚からタオルを取り出して、優しく身体を包み込んだ。ゴシゴシと拭かれる感触が、くすぐったくて気持ちいい。
「にゃあ……」
思わず、ゴロゴロと喉を鳴らしてしまう。猫の本能には逆らえない。
「わあ、喉を鳴らしてる! 気持ちいいんだね。よかった」
アレンは嬉しそうに笑った。それから台所に行って、小さな鍋でミルクを温め始める。火打石で火を起こす手つきはまだ危なっかしいけど、真剣な表情で頑張っている。
(一人暮らしって言ってたな。親はどうしたんだろう)
俺はソファの上から、アレンの背中をじっと見つめた。子供が一人で生きていくのは、きっと大変なことだ。それなのに、こいつは迷わず俺を拾った。自分の食い扶持さえ怪しいだろうに。
「はい、クロ。熱いかもしれないから、気をつけてね」
アレンは小さな皿にミルクを注いで、俺の前に置いた。湯気が立ち上っていて、甘い香りが鼻をくすぐる。
ぺちゃぺちゃと舐める。温かいミルクが、冷え切った身体の隅々まで染み渡っていく。
(うまい……)
前世ではコーヒーに入れるくらいしか飲まなかったミルクが、今は何よりのごちそうだ。
「よかった。気に入ってくれたみたいだね」
アレンはほっとしたように笑って、俺の頭をそっと撫でた。その手は、まだ幼いけど、すごく温かい。
「……僕も一人だから」
「ちょうどよかった」
「...きみも一人は寂しいだろ」
「今日からここが、きみの家だよ。僕はまだまだ未熟な冒険者だけど、きみのことはちゃんと守るからね」
その言葉に、前世の記憶が少しだけ蘇る。誰も俺のことを気にかけてくれなかった、あの日々。
(あの頃とは、全然違うな)
こいつは、俺のことをちゃんと見てくれている。たかが子猫一匹に、真剣に向き合ってくれている。それが、無性に嬉しかった。
「それじゃあ、今日はもう遅いから、一緒に寝よう」
アレンは俺を抱き上げて、ベッドに潛り込んだ。毛布は使い古されているけど、ちゃんと洗われていて、太陽の匂いがする。
「おやすみ、クロ。いい夢を見てね」
ぎゅっと抱きしめられて、規則正しい寝息が聞こえ始める。よほど疲れていたんだろう。水汲みに、俺の世話に、色々と大変だったに違いない。
(おやすみ、アレン。……ありがとう)
俺は心の中でお礼を言ってから、そっと目を閉じた。
外では、まだ雨が降り続いている。でも、今はもう寒くない。アレンの体温と、ミルクで満たされた胃袋が、俺を優しく包み込んでくれている。
雨音は変わらない。
変わったのは、俺の居場所だけだった。
(猫になった理由なんて分からない)
それでも――
(この恩は必ず返そう)
俺は小さくあくびをして、アレンの腕の中で丸くなった。
こうして、俺の猫生は静かに幕を開けたのだった。
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