「あのっ 黒猫を連れた小さな英雄って、あなたですか?」
呼び止められた瞬間、アレンの肩がぴくっと跳ねた。
(あ、またその呼び方か)
俺はギルドの酒場、暖炉横の棚の上からアレンを見下ろしていた。ゴブリン侵入事件から三か月。初夏だったローベスにも朝夕には涼しい風が吹くようになっていた。どうやらあの呼び名はまだ残っていたらしい。
「え、えっと……英雄っていうか、たまたまというか……」
アレンの耳がみるみる赤くなっていく。こういう時のこいつは本当に情けない。この3か月の間たびたび呼ばれているが、いまだに慣れる気配がない。
「やっぱりそうだ! 私、エマ。つい二週間前にギルドに登録したばかりなんだ。ねえ、もしまだなら、一緒に依頼を受けてみませんか!?」
声の主は、燃えるような赤毛を肩口で切り揃えた少女だった。年はアレンより二つほど上だろうか。背中には小柄な身体ほどもある長弓を背負い、腰の矢筒からは白い羽根が覗いている。目はくりっと大きくて、好奇心旺盛そうな輝きを放っていた。
「一緒に? 僕と?」
「そう! 私弓だから一人だと近づかれた時が怖くてさ。誰か一緒にやれる人を探してたんだ」
エマは無邪気に笑いながらアレンの肩をバンバン叩いた。アレンは照れまくっているけどエマはまったく気にしていない。この温度差は見ていてなかなか面白いな。
「それでね、小さな英雄の噂を聞いたの。怪我してても人を助けたって。そういう人なら、一回一緒にやってみたいなって思って」
(あいつら度々アレンのこと酒のつまみに話してるからなぁ。噂は中々消えないな)
俺は棚の上で尻尾の先だけを曲げた。
「あ、この子が噂の黒猫だね! ちょっと触ってもいい? 抱いていい? 肉球見せてくれる?」
エマは俺を見つけるなり、目を輝かせて駆け寄ってきた。矢筒がガチャガチャと音を立てる。勢いがすごい。
(初対面で要求が多い)
俺は警戒して耳を伏せた。するとエマはそれ以上近づかず、そっと手を差し出してきた。無理に触ろうとせず、俺の反応を待っている。動物の扱い方を知っている手だ。
「おいで。大丈夫、怖くないよ」
エマの声が急に柔らかくなった。さっきまでの弾丸トークとは別人みたいだ。俺は少し迷ったけど、結局、その手に頭を擦りつけた。
(ぐ……こいつ、撫で方が上手い.....)
俺は不本意ながら、エマの指に額を押しつけていた。気づけば目まで半分閉じている。
「わあ、喉鳴らした! かわいい! しかも目がとろーんってしてる!」
「クロ、珍しいね。初対面の人にそんなに懐くの初めて見たよ」
アレンが驚いたように言った。
(違う。懐いたんじゃない。撫で方がうますぎるんだ)
俺は心の中で言い訳をしたけど、エマの手のひらに顎を乗せて喉を鳴らしている自分がいた。猫の習性には逆らえない。こればかりは仕方ない。
エマは俺が逃げないのを確かめてから脇の下にそっと手を差し入れた。抱き上げ方まで妙にうまい。
(初対面の人間に抱かれる趣味はないんだが……安定感がありすぎる)
「それで依頼の話なんだけど!」
エマは俺を抱き上げたままアレンに向き直った。俺を抱く手はしっかりしていてそれでいて痛くない。絶妙な力加減だ。
「うん、でもなんで僕なんかでいいの? まだEランクだし、そんなに強くないよ」
アレンが首をかしげる。
(ほらまた自分を下げた)
俺はエマの腕の中で心の中でため息をついた。
「何言ってるの! 怪我しててもゴブリンから人を助けたんだから、十分すごいよ。ね、一回だけでいいから!」
エマはにっこりと笑った。その笑顔には嘘偽りがない。アレンは少しだけ照れくさそうにうつむいたけど、やがて顔を上げてしっかりとうなずいた。
「わかった。それじゃあ、よろしくお願いします、エマさん」
「さんはいらない! エマでいいよ。私もアレンって呼ぶから」
エマは右手を差し出した。アレンもその手を握り返す。
(とりあえず一回やってみるか。まあ、悪くないんじゃないか)
俺はエマの腕から飛び降りてアレンの肩に飛び乗った。
* * *
依頼は東の森の浅い区域にある廃教会跡の調査だった。
ゴブリンの群れが移動した後で、残された痕跡を調べて記録してほしいという依頼だ。報酬は銀貨八枚。すでにDランクを含む巡回隊が周辺を確認していて、ゴブリンの群れが去ったことは確認されていた。ただし、建物の内部までは調査出来ていないから、今回の調査が依頼されたようだ。ただし、無理はしないこと。異常があればすぐに撤退すること。それがギルドからの注意事項だった。
森へ入る前、アレンはいつものように俺の首から鈴を外し、荷物の中へしまった。
「廃教会跡かあ。ゴブリンが巣にしていたっていう噂だね」
エマは地図を広げながら軽快な足取りで森の中を進んでいく。長弓を背負っているのにその足取りには無駄がない。森の中を歩き慣れている証拠だ。
「うん。マリアさんが言うには、最近まで使われてたらしい。まだ残ってるかもしれないから、気をつけないと」
アレンは周囲を警戒しながら歩いている。こういう時のアレンは意外と頼りになる。自分の役割をちゃんと理解しているし、無茶な突撃もしない。
(成長したなあ)
俺はアレンの肩の上で少しだけ感慨にふけった。
「大丈夫だよ。私が後ろから援護するしクロが索敵してくれるんでしょ?」
エマは振り返って俺にウインクした。
「にゃあ」
(任せとけ)
俺は一声鳴いて耳をピンと立てた。周囲の音を拾う。風の音、木の葉の擦れる音、遠くの鳥の鳴き声。今のところ魔物の気配はない。
「クロ、何かいる?」
アレンが俺の様子を見て尋ねた。
俺は首を横に振る。まだ何もいない。
「今の、首振ったよね!? え、クロって言葉わかるの!?」
エマが驚いたように目を見開いた。
「うん。クロはすごく賢いんだ。言葉もわかるし危険を知らせてもくれる」
アレンは誇らしげに言った。
(やめろ、そういうのは恥ずかしい)
俺はアレンの頬を尻尾でぺしっと叩いた。
「すごいすごい! やっぱりクロが一緒でよかった!」
エマは声を弾ませてぴょんと跳ねた。そのリアクションの大きさに、アレンは苦笑いだ。
* * *
廃教会跡は、鬱蒼と茂る木々の隙間にひっそりと佇んでいた。
崩れかけた尖塔。半分以上が抜け落ちた屋根。割れたステンドグラスの窓枠。壁にはゴブリンの引っ掻き傷が無数に残っていて、床には小さな足跡が散らばっている。どうやらここはかなり長い間ゴブリンの巣として使われていたらしい。
「うわあ、すごい数の足跡。やっぱりかなりの数が住んでたみたいだね」
エマが床にしゃがみ込んで、足跡をじっくりと観察した。彼女の目は真剣そのものだ。さっきまでの明るいお姉さんモードとはまるで別人に見える。
「わかるの?」
「うん。父さんたちに狩りを教わってたから、足跡なら少し読めるんだ。足跡の大きさと深さで大体の数と移動方向がわかるんだよ。狩りをする時は獲物の足跡を追うでしょ? それと同じ」
エマは得意げに言った。
彼女は指先で足跡の縁をなぞった。
「足跡が全部同じ方向に向かってる。それに、荷物を運んだ跡もない。住処を移したというより、かなり急いでここを離れたみたい」
「こんなに一斉に?」
アレンの顔にも緊張が走る。三か月前のゴブリン侵入事件を思い出しているのだろう。
「それと、これ見て」
エマが壁の一角を指さした。そこには奇妙な模様が刻まれている。一見するとただの引っ掻き傷だけど、よく見ると、それは意図的に描かれたものだ。円の中に、三つの眼が並んでいる。
俺はその印を見た瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。理由は分からない。ただ、すごく気持ち悪い。
「これ……ただの傷じゃないよね」
エマが眉をひそめて壁の印をじっと見つめた。
「三つの……眼?」
アレンが呟く。
「誰かがわざと刻んだみたい。でも、何のために?」
エマは首をかしげた。
(三か月前のことといい、ただのゴブリン騒動じゃなさそうだな)
俺は無意識に耳を伏せていた。
「アレン、それとクロ。さっき地下への入り口を見つけたの。おそらく地下も使っていたんだと思う。でも、階段の前には新しい足跡がないし、獣の匂いもほとんど残ってない。安全だとは思うけど、念のため気をつけていこう」
エマは立ち上がって弓を手に取った。
「わかった。でも、もし魔物が残ってたら危ないから、慎重にね」
「うん。私が後ろから援護する。アレンは前を警戒して。クロは周囲の索敵をお願い」
エマはてきぱきと指示を出した。こういう時の彼女は年上らしい落ち着きがある。アレンもうなずいて腰の短剣を抜いた。地下は狭い。背中の長剣には手を伸ばさず、短剣を選んでいる。
俺はアレンの肩から飛び降りて、地下への階段に向かった。
* * *
地下は、思っていたよりもずっと広かった。
礼拝堂の地下にはいくつもの小部屋が並んでいる。かつては修道士たちの居住区だったのだろう。今では壁が崩れ、天井からは苔が垂れ下がっていた。古い獣臭と黴の匂いがこびりついていて、新しい匂いまでは判別できなかった。
アレンが松明を掲げながら周囲を見回す。壁にはさっきと同じ三つ眼の印がいくつも刻まれていた。床には何かを燃やしたような黒い跡が円を描いていて、中央には古びた燭台が倒れていた。
「間違いないよ。この数なら……十匹以上はいたのかな」
エマは壁の傷や床の足跡を調べながら冷静に分析を続ける。
「十匹以上も……そんな数が、どこに移動したんだろう」
「上の足跡は森の奥へ続いてるみたい。でも、こんなに急いで移動するのって普通なのかな」
エマは壁の印をじっと見つめた。
「とりあえず、必要な証拠は集まったと思う。ギルドに報告しよう」
エマが立ち上がって、腰の布袋に調査記録をしまい込んだ。
「うん。そうしよう」
アレンもうなずいて松明を掲げ直す。
その時だった。
俺の耳がかすかな物音を捉えた。何かが這いずり回る音。それも一つじゃない。複数の何かが壁の向こうから近づいてくる。
(まずい、まだ残ってやがった!)
俺は尻尾を膨らませて、アレンに向かって警告の声をあげた。
「クロが警戒してる……! エマ、何かいる!」
アレンが短剣を構える。エマも慌てて弓を手に取った。
「グギャア!」
壁の割れ目から一匹のゴブリンが飛び出してきた。錆びた短剣を手に一直線にアレンに突進してくる。
「くっ!」
アレンはゴブリンの攻撃を短剣で受け止めた。ガキンッという金属音が地下に響き渡る。でも、相手は一匹だけじゃなかった。もう一匹が、エマの方に向かって飛びかかってくる。
「エマ!」
アレンが叫んだ。
「わかってる!」
エマは弓を引こうとした。だが、近い。近すぎる。長弓は距離があってこそ力を発揮する。腕を伸ばせば届きそうな場所にゴブリンがいる今、弦を引き絞る余裕などない。彼女の指が一瞬だけ震えた。
(動け、エマ!)
俺は床を蹴ってゴブリンの顔面の前を横切った。真っ黒な影が黄色い目玉の目の前をかすめる。
「グギャッ!?」
ゴブリンが俺を追って顔を横へ向けた。
「エマ、下がって!」
アレンの声にエマがはっとしたように後ろへ跳ぶ。一歩、二歩、三歩。
その間にもアレンは自分に迫るゴブリンの短剣を必死に受け止めている。
「ここなら!」
距離ができた瞬間、エマの震えが止まった。弓が音を立てて引き絞られる。彼女の目に迷いはなかった。白い羽根の矢が真っ直ぐにゴブリンの肩を射抜く。
「グギャア!」
ゴブリンが悲鳴をあげて後退した。深くは刺さっていない。でも、ゴブリンの動きは明らかに鈍っている。
「アレン、もう一匹は任せた!」
エマが叫びながら二本目の矢をつがえる。
「わかった!」
アレンは短剣を握り直して目の前のゴブリンに向かって突進した。ゴブリンが短剣を振り回す。アレンは身を引いて刃をかわした。そして体勢を崩したゴブリンへ踏み込み、胴体に短剣を突き立てた。
「グギャ……!」
ゴブリンが断末魔の声をあげてその場に崩れ落ちた。その隙に矢を受けたもう一匹のゴブリンが壁の割れ目に向かって逃げ出そうとする。
「逃がさない!」
エマの二本目の矢がゴブリンの背中を深々と射抜いた。ゴブリンは二三歩よろめいてそのまま倒れ伏す。動かなくなった身体からじわじわと血が広がっていった。
「はあ……はあ……」
地下に荒い息遣いが響く。アレンは肩で息をしながら倒れたゴブリンを見下ろしていた。
エマは倒れたゴブリンを見つめたまま、弓を下ろせずにいた。指が矢をつがえていた時よりも強く白くなるほど弓を握りしめている。
「エマ、大丈夫?」
アレンが声をかける。
「怖かった」
エマは弓を下ろして自分の手を見た。
「狩りならずっと遠くから狙えるのに。あんな近くまで来られたら……何もできなかった」
「でも最後は撃てたよ。ちゃんと距離を取って」
アレンは静かに言った。
「うん……。アレンが声をかけてくれなかったら、あのまま動けなかったと思う」
エマは少しだけ顔を上げた。まだ震えているけど、その目には安堵が混じっていた。
「クロもありがとう。クロが気を逸らしてくれなかったら、最初の時点でやられてたかも」
エマはしゃがみ込んで俺の頭をそっと撫でた。その手は弓を握っていた時よりもずっと優しかった。
「にゃあ」
(当然だろ)
俺は一声鳴いて尻尾を振った。
「私、もっと練習する。次はもっと早く動けるように」
エマは立ち上がって弓を背負い直した。まだ指先には震えが残っていたが、その目はもう倒れたゴブリンではなく帰り道へ向けられていた。
「それじゃあ、ギルドに戻ろう。報告しないとね」
アレンが松明を掲げ直して階段に向かう。
「うん!」
エマは力強くうなずいてアレンの隣に並んだ。
森を出たところでアレンが俺の首に鈴を戻した。
* * *
ギルドに戻ると、マリアが待ち構えていた。
「おかえりなさい、二人とも。調査の結果はどうだった?」
「はい。ゴブリンの群れがかなり最近まで廃教会跡に住んでいた痕跡がありました。それと妙な印も見つけて……」
アレンが報告を始めると、エマが補足する。
「三つの眼が描かれた印です。誰かがわざと刻んだみたいなんです。でも、何の印なのかは分からなくて……」
エマの声はもう震えていなかった。
「三つ眼の印……詳しくは私もわからないわ。ゴードンさんに確認してもらうわ」
マリアの声は真剣だった。
「それと、地下にゴブリンが二匹残ってたんです。僕が一匹を倒して、もう一匹はエマが弓で仕留めました」
アレンが報告を続ける。
「二匹も残っていたの? 事前調査では外周にゴブリンの姿はなかったはずなのに……」
マリアが目を丸くした。
「はい。どうやら地下の奥に隠れていたようで、外からは見つけにくかったみたいです」
アレンが言うと、マリアは少し考え込んでからうなずいた。
「なるほど……調査報酬の銀貨八枚に加えて、ゴブリン二匹の討伐については、現場を確認した後で追加報酬を出すわ」
「ありがとうございます」
「それにしても、初戦闘でゴブリンを倒したの? すごいじゃない、エマちゃん!」
マリアが改めて感心したように言った。
「い、いえ! アレンとクロが助けてくれたからで……私一人じゃ絶対に無理でした」
エマは耳まで真っ赤になって手をぶんぶん振った。
「それでも初めての戦闘できちんと戦えたのは立派よ。アレンくんもいい仲間を見つけたわね」
マリアは二人を交互に見て嬉しそうに目を細めた。
「はい。エマはすごく頼りになるんです。足跡の読み方とか、森での動き方とか、僕には全然わからないことをたくさん知ってて」
アレンは素直にエマを褒めた。
「アレンが前で止めてくれたから、私も弓を撃てたんだよ」
エマもアレンを褒め返す。
(お互い褒め合っていい雰囲気じゃないか)
俺は暖炉横の棚の上から二人の様子を眺めていた。
「ねえアレン。もしよかったら、これからも一緒に依頼受けない?」
エマが唐突に言った。
「えっ? これからも?」
「うん! 今日やってみて思ったんだ。アレンが前で敵を引きつけてくれると私すごく戦いやすいの。クロも索敵してくれるし。この三人でやればもっといい仕事できると思うんだ」
エマの目は真剣だった。
「僕でよければ……ぜひお願いします」
アレンは深くうなずいた。
「やった! それじゃあパーティ登録しよう!」
エマが弾むような声で言った。
「ところでパーティ名はどうする?」
「パーティ名……考えたことなかったなあ」
「じゃあ私が決めていい? 黒猫団!」
「えっ、僕たち二人しかいないけど団なの?」
アレンが目をぱちくりさせる。
「クロもいるから三人! それにこれから仲間も増えるかもしれないし!」
エマは俺を抱き上げて自信満々に宣言した。
(人員計算に猫を入れるな)
俺は心の中でツッコミを入れた。まあ、悪い気はしない。
「それじゃあ、パーティ名は『黒猫団』で決定ね。正式なメンバーはアレン・クロフォードとエマ・ウィルソンの二人。クロちゃんは引き続きアレンくんのパートナーとして登録しておくわ」
受付のマリアがにこにこしながら手続きを進めてくれた。
(ギルドの書類上では二人らしい。まあ、現場で一番働くのは俺だが)
「これで私たち、正式なパーティだね! よろしく、アレン!」
「うん。よろしく、エマ」
二人は改めて握手を交わした。
(新しい仲間か。少なくとも退屈はしなくなりそうだ)
俺はエマの腕から飛び降りてアレンの肩に飛び乗った。鈴がちりんと鳴る。
* * *
その夜、俺たちは市場の近くの食堂で初仕事の成功祝いをしていた。
「今日の功労者のクロちゃんにも選んでもらおう。魚と鶏肉、どっちが好き?」
エマがメニューを指さしながら、真剣な顔で尋ねてくる。猫にメニューの選択権を与える人間は初めてだ。
「クロは魚が好きだと思うよ」
アレンが横から口を出す。
(勝手に決めるな。両方だ)
俺は一声鳴いて、メニューの両方の上に前足を置いた。
「クロ、まさか両方食べる気? 太るよ?」
アレンが呆れたように言った。
「いいじゃない、今日は特別な日なんだから! すみません、魚のグリルと鶏肉の香草焼き、両方ください! あ、でも猫が食べる分は味付けなしでお願いします」
エマは迷わず注文を入れた。気が利く上に猫への配慮も忘れない。できた女だ。
(こいつ、わかってるじゃないか)
俺はエマの隣の椅子に飛び乗って前足を揃えて座った。
「エマはクロに甘すぎるよ」
「だって今日の功労者だもん。クロがゴブリンの注意を逸らしてくれなかったら、私、弓を撃つ距離を作れなかった」
エマは俺の頭をそっと撫でながら言った。その手つきは相変わらず上手い。
やがて料理が運ばれてきた。店主は俺の分だけ塩も香草も使わず小さな皿に取り分けてくれている。なかなか気の利く店だ。
俺はまだ湯気の残る魚を慎重に嗅いでから一口かじった。
自分の分の魚と鶏肉を平らげると、今度はエマの皿の鶏肉へ前足を伸ばす。香草焼きの香りがぷんと鼻をついた。
「だーめ。こっちは味がついてるから」
エマは俺の前足を軽く押し戻す。そして店主に猫用の肉を再度注文していた。
(こいつ、隙がないな)
「クロ、エマの優しさに甘えすぎだよ」
アレンが苦笑いしながら言った。
「いいのいいの! 今日は特別だもん。ね、アレンも食べなよ。これ美味しいよ」
エマは自分の皿をアレンの方へも傾けた。
「ありがとう、エマ」
アレンは照れくさそうに笑って、鶏肉を一口食べた。
食堂の窓からは夕暮れの光が差し込んでいる。市場の賑わいが少しずつ静かになっていく。テーブルの上には料理の皿が並んでいて、二人と一匹分の楽しげな空気が漂っていた。
「ねえ、次の依頼は何にする?」
エマが鶏肉をかじりながら言った。
「次はもう少し簡単なのがいいかな……今日は怖かったし」
アレンが少し控えめに言う。
「賛成! 私も次はもっとちゃんと動けるようにしたいし」
「うん。少しずつ、やっていこう」
俺は食べ終えた皿を舐めてから、アレンの膝へ飛び移った。
「にゃあ」
「あ、クロ。もう食べないの?」
エマが覗き込んでくる。
「まだ欲しい顔してるよ?」
アレンが笑った。
(誰がだ)
二人が笑う声が食堂に響く。
首元の鈴が、ちりんと鳴った。