首を動かすたび、かすかに濁った音が耳に触れる。
(そろそろ限界か、これ)
俺はギルドのいつもの棚の上で、前足を折り畳んで伏せていた。大規模討伐からひと月。酒場には、ようやくいつもの騒がしさが戻っている。掲示板には新しい依頼書が貼られ、冒険者たちが今日の仕事を物色する声が飛び交う。暖炉の薪が、時折ぱちりと爆ぜた。
(平和だ)
窓から差し込む陽射しは柔らかい。冬の冷たさはもう残っておらず、暖炉の前で昼寝をするには少し暖かすぎるくらいだ。
「クロ、今日は何する?」
下からアレンの声がした。見下ろすと、アレンとエマがテーブルを挟んで座っている。二人とも、今日はまだ依頼を受けていないらしい。
(何するって、猫は基本的に寝るか食うかだが)
俺は返事代わりに、尻尾をゆっくりと揺らした。
「クロは今日は寝る日みたいだね」
アレンが苦笑いする。
「そういえば、私たちのランク、そろそろ上がるかもね」
エマは椅子の背にもたれ、両足を小さく揺らした。このひと月、俺たちは大規模討伐の実績をもとに、いくつかの中規模依頼をこなしてきた。
「うん。でも、ランクが上がれば、今までより危ない依頼も増えるよ。受ける前に、エマとちゃんと相談しないと」
アレンはそう言って、掲示板へ向けていた身体を椅子へ戻した。
(前なら、とりあえず依頼書を剥がしてから悩んでいた気がする)
ほんの少しだけ、学習したらしい。
「あ、そうだ。今日は久しぶりに休みにしない? この前の討伐で手に入れた報酬、まだ使ってないし」
エマが提案した。
「休みかあ。いいね。どこ行く?」
「市場! 春の市が近いから、屋台も出てるんだよ。それに、クロに新しい鈴を買ってあげたいんだ」
(俺に鈴?)
俺は耳をピンと立てた。
「クロの鈴、今までの生活でちょっと傷ついちゃったでしょ。そろそろ新しいのにしようよ」
エマはそう言って、俺の首元を指さした。確かに、鈴には小さな傷がついている。どこかにぶつけたらしい。音はまだ鳴るけど、よく見れば歪んでいるのがわかる。
「そうだね。クロもずっと同じ鈴だもんね」
アレンが俺の頭をそっと撫でた。
(グレッグにもらって、お前がつけてくれた鈴だからな)
俺はアレンの手のひらに、額を押しつけた。拾われてから、もう随分経つ。子猫だった俺も、すっかり成猫になった。鈴は、その間ずっと俺の首元で鳴っていた。
「じゃあ、決まり! 今日は市場でお買い物だよ」
エマが勢いよく立ち上がった。
* * *
春の市を前に、市場は朝から活気に満ちていた。
通りには色とりどりの屋台が並んでいる。焼きたてのパンの匂い、香辛料の香り、甘く煮詰めた果物の匂い。様々な匂いが混ざり合って、猫の鼻には少し刺激が強すぎるくらいだ。
(人間の祭りは、どこの世界でも騒がしいな)
俺はアレンの肩の上で、耳を伏せ気味にしながら市場を見渡した。
「すごい人だね」
アレンも圧倒されている。
「でしょ! 今年は雪の被害が少なかったから、例年より屋台も多いんだって。領主様も春の市に力を入れてるみたい」
エマは人混みを縫うように進んでいく。アレンもその後を追った。
鈴が並ぶ屋台には、大小さまざまな鈴があった。銀色のもの、真鍮のもの、小さな宝石が埋め込まれたものまで。猫の首輪につけるにはどれも少し豪華すぎる気がしたが、エマが手に取ったのは、表面に細かい模様が彫られた小さな銀の鈴だった。光を受けてきらきらと輝いている。
「きれいだね。でも、ちょっと高くない?」
アレンが値札を見て、少しだけ眉をひそめた。
「大丈夫。この前の討伐の報酬、まだ余ってるから。それに、クロは私たちの大事な仲間だもん」
エマは迷わず銀貨を差し出した。
「僕も半分出すよ」
アレンが銀貨を二枚、店主に差し出す。
「じゃあ、黒猫団からクロへの贈り物ってことで!」
エマは鈴を俺の目の前で揺らした。ちりん、と澄んだ音が鳴る。
(仲間、か)
拾われた頃は、アレンに恩返しをしなきゃいけないなとしか考えていなかった。
それが今じゃ、「黒猫団の一員」らしい。
(まあ、悪くない)
「クロ、ちょっとこっち向いて」
エマは俺の首元から古い鈴を外し、新しい鈴をつけてくれた。銀の鈴は、以前のものより少しだけ重い。でも、その重さがなんだか心地よかった。
外された古い鈴を、アレンは手のひらへ載せた。小ぶりで素朴な銀色の鈴だ。歪んだ縁を指先でそっとなぞる。
「これは、家に持って帰って取っておこう。僕たちの思い出の、大切な鈴だから」
(ああ。それがいい)
俺は尻尾の先を一度だけ揺らした。
新しい鈴が、ちりん、と澄んだ音を立てた。聞き慣れない音だった。でも、不思議と嫌ではなかった。
* * *
屋台を冷やかしながら市場を歩いていると、前方から見覚えのある顔が近づいてきた。
リリアだ。町の商家の娘で、アレンの幼馴染。素直じゃないことで言えば、この町でも指折りかもしれない。
(今日はどんな言い訳をしながら絡んでくるんだか)
俺はアレンの肩の上で、尻尾をゆっくりと揺らした。
「リリア、久しぶりだね」
アレンが手を振る。
「三日前にギルドで会ったでしょ」
リリアは足を止めたものの、抱えていた帳簿から顔を上げなかった。
「リリアさんは今日、市場の見回り?」
エマが尋ねる。
「そうよ。春の市の準備で、みんな忙しいんだから。あんたたちも、遊んでないで手伝いなさいよ」
「僕たちも、今日は休みなんだよ。たまにはいいでしょ」
アレンが苦笑いする。
「ふん。まあ、大規模討伐で活躍したんだから、休みくらい必要かもね」
リリアは素っ気ない言い方だったけど、その口元はほんの少し緩んでいた。どうやら、アレンの活躍はちゃんと耳に入っているらしい。
その視線が、ふとアレンの手にある古い鈴へ向けられた。
「その鈴、グレッグさんにもらったやつでしょ」
「覚えてたんだ」
「当たり前でしょ。あんたが黒猫を抱えてうちに挨拶に来た時から、ずっと付けてたじゃない」
リリアは少しだけ懐かしそうな顔をした。
「グレッグさんがくれた鈴だったわよね。魔除けになるからって」
(そうか。あの時のことを覚えていたんだな)
俺はアレンの肩の上で、耳を立てた。拾われて二か月ほど経った頃、ご近所への挨拶でアレンに連れられてグレッグの店を訪ねた。そこで、あの人が息子の作った鈴を譲ってくれたのだ。
「新しいのにしたのね。まあ、前のはもうボロボロだったし」
「うん。でも、これは家に取っておくよ」
「ならいいわ」
リリアはそう言うと、新しい鈴をつけた俺をちらりと見た。
「クロも、その鈴、大事にしなさいよ」
その声は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
「じゃあ、私はまだ仕事があるから」
リリアは俺の頭を一度だけ撫でた後、エマを一瞬見ると、足早に去っていった。
「リリアも、クロの鈴のこと覚えてたんだね」
エマが少し驚いたように言った。
「うん。リリアは昔のことをよく覚えてるから」
アレンは古い鈴を大切そうにポケットへしまった。
(なんでよく覚えているのかもよくわかってなさそうだな)
俺は尻尾をゆっくりと揺らした。
* * *
夕方近くになり、俺たちは市場の端にある小さな広場に腰を下ろした。
噴水の縁に並んで座り、エマが買ってきた焼き菓子を二人で分け合う。俺には、屋台で買った味付けなしの干し肉が渡された。
(悪くない休日だ)
俺は噴水の縁で、干し肉をかじった。
「私たち、少しは冒険者らしくなったかな」
エマが焼き菓子をかじりながら言った。
「少しは、じゃないかな。僕なんて、まだダンさんに毎回怒られてるし」
「それはアレンが無茶するからでしょ」
「最近はしてないよ」
「最近はね」
「まあ、ギルドマスターにも毎回言われてるし」
「それなら安心かな」
エマは最後の焼き菓子を口に放り込み、指についた粉を払った。
「でも、次はDランクだよ。楽しみだね」
「うん。三人でできることを、少しずつ増やしていこう」
アレンの声は落ち着いていた。
「それじゃあ、黒猫団、これからも頑張ろうね!」
エマが拳を突き上げる。
(黒猫団、か。最初はふざけた名前だと思ったけど、今は悪くない気がしてきた)
俺は新しい鈴を鳴らしながら、静かに目を閉じた。
* * *
家に帰ると、アレンは机に向かって何かを書き始めた。
「にゃあ」(何を書いてるんだ?)
俺は机の上に飛び乗って、アレンの手元を覗き込んだ。
「ああ、クロ。これはね、今までの依頼の記録をまとめてるんだ。ギルドマスターに、たまには自分の成長を振り返るのも大事だって言われて」
アレンはそう言って、羊皮紙に書き込んだ文字を見せてくれた。大きさも傾きも好き勝手な文字で、今までこなした依頼の一覧が並んでいる。薬草採取、街道の見回り、洞窟の調査、ゴブリン討伐、廃教会の調査、大規模討伐。どれも、アレンと俺が、そして途中からはエマも一緒に経験してきたものだ。
(字だけは、出会った頃から一向に成長していない)
俺は羊皮紙の端に、そっと前足を置いた。
机の隅には、古い鈴が置かれている。傷ついて歪んで、もう澄んだ音は鳴らない。でも、アレンはそれを、宝物のように大切にしていた。
「まだ、空いてるな」
アレンは羊皮紙の下半分を見て、ペン先を止めた。
「これから、ちゃんと埋められるかな」
「にゃあ」
(俺に聞くな。これからどんな冒険をしていくのか、決めるのはお前なんだから)
窓の外では、春の夜風が木々を揺らしている。
明日も、エマが言い出した早朝訓練がある。俺は新しい鈴を鳴らしながら、寝床へ向かった。
拙い文章ではありますが、感想等いただけますと大変励みになります。
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