春の市が終わった夜。
リリアはギルドから家へと続く石畳の道を歩いていた。
昼間の喧騒が嘘のように通りは静かだ。屋台の灯りも消え、露店の布も畳まれている。いつもの見慣れた町並みが、今日だけは少しだけ遠く感じられた。
頭に浮かぶのは、昼間の光景だった。
春の市の雑踏の中で、アレンとエマが並んで歩いているのが見えた。エマが何かを見つけてアレンの袖を引いて、アレンがそれに笑って応えていた。当たり前のように自然に二人の距離が近かった。
(別におかしいことじゃないでしょ)
黒猫団を結成してから半年。一緒に冒険してきた仲間なのだから。むしろ自然だ。
分かっている。頭ではちゃんと分かっている。
それでも、胸の奥の方がじわりと重くなる。
(何考えてるのよ、私……)
結局、あの二人を見ていられなくなって、アレンに声までかけてしまった。
別に用事があったわけでもないのに。
* * *
家に着くと、父親が居間で茶を飲んでいた。
「おかえり。春の市はどうだった?」
「うん。それなりに。人混みで疲れたけど」
「そうか。まあ座れ、茶でも飲め」
リリアは黙って父親の隣の椅子に腰を下ろした。湯呑みを受け取り、一口だけ含む。温かさが喉を通っていく。
「今日はアレンもいたのか?」
リリアの手が、無意識に止まった。
「なんで、そこでアレンが出てくるの」
「あの子もこの町に住んで長い。春の市を見に来ててもおかしくないだろう?」
「それは……そうだけど」
別に、変なことを言われたわけじゃない。本当にただの世間話だ。分かっている。
なのに、どうしてだろう。父親の口からアレンの名前が出ただけで、さっきまで冷えていた頬がじんわりと熱くなる。
(意味なんてない。ただの話の流れ。そう、ただの)
「そういえば」
父親が懐かしそうに目を細めた。
「お前たちが小さい頃、ザックスとよく話したもんだ」
「ザックスさんと?」
「もう何年も前の話だけどなぁ」
リリアは湯呑みを両手で包み込んだまま、黙って父親の話を聞いていた。
「お前は昔からアレンの後ろをついて回ってたからな」
「つ、ついて回ってなんかない!」
「そうだったか?」
父親は面白そうに笑った。リリアはむっとした顔を作ったけど、うまく怒れなかった。
「……で、その、ザックスさんと何を話してたのよ」
「お前たちのことだよ。あの頃は二人とも小さくてな。お前がアレンの後ろをちょこちょこ走ってるのを、俺とあいつで眺めてた」
(もう、やめてよ……)
「あいつ、言ってたな。『うちの息子は鈍いからなあ』って」
父親はそう言って、また笑った。
「そのうち、『お前たちが大きくなっても、一緒にいるのかね』なんて話もした」
リリアは、全身が一気に熱くなるのを感じた。
「お、お父さんっ!」
「何を怒ってるんだ?」
「怒ってない! もう、知らない!」
リリアは椅子から飛び上がるように立ち、そのまま階段を駆け上がった。
背後で、父親が「おい、茶が残ってるぞ」と言ったけど振り返らなかった。
* * *
自室の扉を閉めてベッドへ倒れ込む。
枕に顔を埋める。心臓がまだばくばくと煩い。
(何なのよ、もう……)
「大きくなっても一緒にいるのかね」
父親の声が、頭の中で繰り返される。
そんなの昔の大人の冗談だ。子どもをからかうためのよくある話。リリアが本気にする必要なんてどこにもない。
(分かってる。分かってるけど……)
それでも。
(私、どうしてこんなに意識してるんだろう)
昔はこんなじゃなかった。
もっと、普通だった。
アレンが隣にいるのが当たり前で、アレンの隣にいることに、理由なんて必要なかった。
ところが、いつからか。
アレンと目が合うだけで、変に緊張するようになった。
優しくしようと思って話しかけても、口から出てくるのは可愛くない言葉ばかり。
心配していても、「大丈夫?」と素直に聞けない。
会えて嬉しくても、それを顔に出せない。
(本当は、もっと普通に笑って話したいのに)
枕をぎゅっと抱きしめる。
(好きなのよ)
(ずっと前から)
誰に言うでもなく心の中でそっとはっきりと認める。もうごまかせない。ごまかす気もない。
(好きなのに、なんで本人の前だとあんな言い方しかできないのかな……)
アレンが笑ってくれれば嬉しい。
自分を頼ってくれれば嬉しい。
名前を呼ばれるだけで、一日中機嫌よく過ごせる。
なのに、本人の前では全部隠してしまう。隠すだけじゃない。反対の言葉をぶつけてしまう。
(バカみたい。ほんとにバカみたい)
* * *
エマのことを、考える。
エマは、自然にアレンの隣にいる。
普通に笑う。普通に話す。心配なら心配だと言える。アレンの袖を引くことだってできる。
リリアには、それができない。
(エマは、悪くない)
それは本当に思っている。
エマは明るくて、真っ直ぐで、仲間として見ていても好感が持てる。黒猫団に入ってから、リリアも何度か話したことがある。嫌いなところなんて、一つもない。
(分かってる。エマは何も悪くない)
(私が勝手に、こんな風に思ってるだけ)
それでも。
二人が楽しそうに話しているのを見ると、胸の奥が、ざわざわとする。
(私の方が、ずっと昔からアレンを知ってるのに)
そんな言葉が、浮かんでくる。
言った瞬間、自分で嫌になる。
(何それ。最低じゃない、私……)
でも、それもリリアの本音だった。
* * *
父親の話を聞いたからか、昔の記憶が、ぽつぽつと浮かんでくる。
転んだリリアにアレンが手を差し出した。小さな手だった。泥だらけで少し擦りむけていた。
一緒に町を走り回った。どっちが速いか競争してリリアが勝って、アレンが悔しがって、次の日にはまた勝負を挑まれて。
喧嘩したこともあった。何で喧嘩したかは、もう覚えていない。でもその日の夕方にはもう一緒に遊んでいた。
そういう何でもない記憶。
その頃はアレンの両親もちゃんとそこにいた。
遠くから、二人を見て豪快に笑っていたザックスさん。
母親であるエレンさんも、とても優しい人で、リリアの頭を撫でてくれたことをなんとなく覚えている。
今はもういない。
(あの頃は)
リリアは、枕に顔を埋めたまま目を閉じる。
(ずっと、こんなままだと思ってた)
* * *
告白するのが、怖い。
でも、それ以上に怖いことがある。
今の関係が壊れることだ。
アレンは大切な幼馴染だ。物心ついた頃から隣にいるのが当たり前の存在。
もし自分の気持ちを知られて、今までみたいに接してもらえなくなったら。
もしアレンがリリアをそういう目で見ていなかったら。
それなら、今のままの方がいい。
――そう思って、ずっと逃げてきた。
でもその結果がこれだ。
素直になれず反対の言葉ばかりぶつけて、昔みたいに自然に話すことさえできなくなっている。
(このままでいいわけないじゃない)
リリアは自分に言い聞かせるように、そう思った。
* * *
ベッドから起き上がる。
別に明日告白するわけじゃない。そこまでの覚悟はまだない。
ただ。
(明日は、ちゃんとアレンと話そう)
嫌味を言わない。エマのことで、拗ねない。昔みたいに普通に話す。
できれば、少しくらい、素直になる。
リリアは鏡の前に立った。
「普通に話すだけよ」
「それくらい、できるでしょ、私」
自分に言い聞かせる。鏡の中の自分は、少しだけ強気な顔をしていた。
でも、次の瞬間。
アレンの顔を想像しただけで、心臓が跳ねた。
(できるわよね?)
鏡の中の自分があっという間に自信なさげな顔になる。
リリアは、両手で頬を叩いた。
それから、もう一度、鏡を見た。
(明日は、ちゃんと話す)
今度こそ大丈夫。
……たぶん。