春の朝は、まだ空気が冷たい。
俺はアレンの肩の上で、小さくあくびをした。昨日遅くまでネズミを追いかけてしまって、なんだか眠たい。
(本当ならまだ寝ていたいが、アレンが起きるなら仕方ないか)
いつもの道をいつも通り歩いていく。
革鎧がこすれる音と、俺の首元で鳴る新しい鈴の音がリズムを刻む。
エマが来るまでまだ時間があったため、俺たちはいったん二人でギルドへ入ることにした。
ギルドの建物が見えてきた頃だった。
リリアの足音が、町角を曲がる前から聞こえた。
いつもの歩き方じゃない。路面を叩く靴音の間隔が短く、早い。そして、荒い呼吸音。
香水だろうか。少し甘い匂いの中に、汗の匂いが混じっていた。
(朝から全力疾走とは、商家の娘も大変だな)
「アレン!」
息の混じった声が通りに響いた。
角から飛び出してきたリリアは、俺たちの前まで来ると膝に手をついた。肩で息をしている。普段ならもっと姿勢を正しているはずだが、今は前髪も少し乱れている。
「リリア? どうしたの、こんな朝早くに」
アレンが驚いて声をかける。
リリアは何度か口を開いた。でも、声は出てこない。唇が何かの言葉を形にしようとして、開いては閉じる。それを繰り返している。
(話す前に、まず息を整えろ)
俺はアレンの肩の上で、尻尾を揺らした。
ようやく顔を上げたリリアは、アレンを見て、それからなぜか俺の鈴を見た。
「大規模討伐……無事に帰ってきて、よかったわ」
やっとのことで絞り出したような声だった。
アレンは一度瞬きをして、それから柔らかく笑った。
「うん。ありがとう、リリア」
それだけだった。シンプルな感謝の言葉。
だが、リリアは反応した。耳の先が、見る見るうちに赤くなっていく。
「べ、別に心配してたわけじゃないけど! たまたま早起きして、たまたま通りかかっただけなんだから!」
早口でまくし立てると、リリアは俺たちの横を風のようにすり抜けて、ギルドの扉へ向かった。
バタン、と扉が勢いよく閉まる。
「相変わらず元気だね、リリア」
アレンは苦笑いしている。本人はあれで通じているつもりらしい。
(照れてるだけか。相変わらず素直じゃない)
俺はあくびを噛み殺した。
(まあ、それでいいなら、俺が口を挟むことでもない)
* * *
ギルドの中は、まだ人が少なかった。
俺はいつもの棚の上へ飛び乗る。ここは暖炉の熱も程よく届く特等席だ。
リリアは受付カウンターの前で、まだ胸に手を当てて呼吸を整えていた。
「おはよう、リリア。どうしたの、今日はお休みでしょ?」
マリアが書類の山から顔を上げて声をかけた。
「おはよう、マリア。……ちょっと、アレンに用があっただけよ」
リリアは前髪を直しながら、カウンターに寄りかかった。嘘をつく時より、少しだけ声が落ち着いている。
「ふふ、アレン君には会えたの?」
「言えたわよ。無事でよかったって」
「へえ。言えたんだ」
マリアはにこにこと笑っている。
「そうだ。ねえ、マリア。少しだけなら、今も手伝えるけど」
「本当? じゃあお願いしようかな」
マリアが積まれた書類の山を指さす。リリアは袖をまくり、一枚目の依頼書へ手を伸ばした。
それからしばらく、リリアがギルドに現れる頻度が増えた。
マリアの手伝いと言いつつ、あいつの視線は冒険者たちの方へ向いていることが多い。特に、灰色の髪の少年と、赤毛の弓使いの二人組の方へ。
とはいえ、リリアはただカウンターに座っているだけじゃなかった。
「この依頼書、報酬の合計が合ってないわ。銀貨一枚多く書かれてる」
「えっ、本当?」
マリアが受け取って計算し直すと、確かに数字がずれていた。
「本当だ。よく気づいたね」
「この程度の間違いはすぐ見つけられるわよ」
リリアはそう言いながら、別の依頼書を日付順に並べ直していく。手つきに迷いはない。
その途中、受付の前で困っていた老人にも気づいた。
「薬草の納品なら、こっちの窓口よ。荷物、重いでしょ。半分持つわ」
「いやあ、助かるよお嬢さん」
「別に。このまま通路を塞がれる方が困るだけよ」
口ではそう言いながら、老人が帰るまで荷物を運んでいた。
(アレンが絡まなければ、普通に親切でいい子なんだよな、リリア)
仕事をさせれば、アレンよりよほど手際がいい。どうしてあいつの前だけで、ああも不器用になるのか不思議なぐらいだ。
しばらくして、依頼を受け終えたアレンがこちらに戻ってきた。
「今日は街道の見回りだけだから、クロはギルドで待ってていいよ」
「にゃあ」(街道を歩くだけなら、俺が行く必要もないか)
* * *
棚の上からギルド内の様子をのんびりと眺めていると、夕方近く、アレンとエマが依頼から戻ってきた。
二人とも少し泥汚れがついているが、顔は明るい。
「見回りだけの予定だったのに、途中でウルフが出てきてびっくりしたね」
「でも二匹だけで助かったよ」
「エマ、さっきのの左翼からの牽制、完璧だったよ。おかげで僕は前に集中できた」
アレンがカウンターで報告書を書きながら言った。
「でしょ! アレンの剣の振りも、昨日より鋭くなってたよね」
エマが得意そうに胸を張る。二人の間には、言葉のいらない空気が流れている。
どうやら見回り中にウルフと遭遇して退治したらしい。
(こいつら、また少し噛み合うようになったな)
俺は尻尾の先を小さく揺らした。
その時、カウンターの端で依頼書の整理をしていたリリアの手が止まった。
リリアは書類を持ったまま、二人を見ていた。いや、正確には、アレンの左腕を見ていた。
「ねえ、アレン。その腕、どうしたの?」
リリアの視線が、アレンの左腕に向けられた。革鎧の隙間から、少し赤くなっているのが見える。
「ああ、これ? かすり傷だよ。大したことないよ」
アレンは軽く手を振った。
「大したことないって! ちょっと待ってて、今手当てするから」
エマが素早く腰のポーチから布と薬を取り出した。
「動かないでね」
「はいはい」
アレンの腕に手を伸ばし、手際よく傷を処置していく。アレンもそれに慣れた様子で、エマの手に任せている。
(包帯の巻き方まで手慣れてきたな)
リリアはじっとその様子を見ていた。さっきまで迷いなく動いていた指が、今は書類の端を強くつまんでいる。
「アレン、また怪我して。もっと気をつけなさいよ」
アレンに声をかけたリリアの声は、いつもより硬かった。
「えっ、ああ、ごめん。次から気をつけるよ」
アレンが少し申し訳なさそうに言う。
「エマが手当てしてくれたから、もう大丈夫だよ」
その言葉に、リリアは目を伏せた。
「……そう」
それきり、リリアは書類の方へ向き直った。肩がわずかに落ちる。香水に混じる汗の匂いも、さっきより濃くなっていた。
(また言い方を間違えたと思ってる顔だな)
* * *
受付を手伝うようになってから、リリアは怪我をして戻る冒険者を何人も見た。
書類なら片づけられる。包帯の場所も覚えた。
だが、傷を前にすると、マリアを呼ぶことしかできない。
ある日の昼下がり、アレンとエマが連携訓練に出かけている間、リリアはギルドの掲示板の前に立っていた。
冒険者たちが依頼書を見るその裏側、掲示板の隅に小さな紙が貼られている。
「初心者向け救護講座 講師:ゼド」
リリアの視線は、そこに釘付けになっていた。
指先が、一度その紙の端に触れ、そして離れる
俺には、リリアが何を迷っているのか正確にはわからない。ただ、いつものアレンを心配しているだけとは違う気がした。
「無理よ、私には」
小さな呟きが、リリアの口からこぼれた。
(無理かどうかは、やってみないとわからんだろうに)
元人間として言わせてもらえば、挑戦しない後悔より、挑戦した失敗の方がまだマシだ。とはいえ、今の俺の口から出るのは「にゃあ」だけである。便利な助言機能は未搭載だ。
リリアは救護講座の紙から手を離した。
そのまま受付へ戻るのかと思ったが、数歩進んだところで足を止める。
「マリア」
「なあに?」
「この救護講座って……私みたいな素人でも受けられるの?」
マリアは掲示板の紙を見てから、リリアへ視線を戻した。
「もちろん。薬草の見分け方から教えてくれる講座だもの」
「そう」
リリアはもう一度だけ掲示板を振り返った。
「……受けてみようかな」
誰にも聞こえないくらい小さく呟く。
さっきまで書類を迷いなくさばいていた指が、今度は何度も同じ紙の端をなぞっている。
俺は新しい鈴を鳴らし、棚の上で目を閉じた。
(さて、どうなっていくのかな)
春の風が、ギルドの扉の隙間から少しだけ入ってきた。