早朝の空気は、まだ少しひんやりとしていた。
朝露に濡れた草が朝日にきらめき、若葉の匂いが鼻をくすぐる。
アレンは庭先で木剣を構えると、ゆっくりと素振りを始めた。シュッ、シュッと空を切る音だけが、静かな朝に響く。
(朝はまだ涼しいな。でも日が高くなれば暑くなる)
俺は家の窓辺に座って、尻尾を前足に巻きつけながらアレンの訓練を眺めていた。ここ数週間、アレンの朝練は一段と熱が入っている。大規模討伐を終えてからというもの、明らかに意識が変わった。
「クロ、見ててくれてる?」
アレンが振り返らずに言った。俺は返事代わりに、尻尾をぱたんと窓枠に打ちつける。
(見てるよ。ちゃんとな)
アレンは基本の型を何度も繰り返す。父の形見である大剣はまだ重い。だから同じ長さの木剣で、足運びと体重移動を反復している。
「はあっ!」
気合とともに放たれた一撃が、練習用の藁人形を揺らした。前よりも、踏み込みが深い。
(成長したなあ)
俺は目を細めた。拾われたばかりの頃は、木剣を振るだけでふらふらしていたのに、今はもう違う。まだまだ歴戦の冒険者には遠く及ばないが、確実に一歩ずつ前に進んでいる。
訓練を終えたアレンは、汗を拭きながら家の中に戻ってきた。首筋に流れた汗が、朝日を浴びて光っている。
「クロ、おはよう。今日もいい天気だね」
「にゃあ」(おはよう。ずいぶん汗かいてるな)
俺は窓辺から飛び降りて、アレンの足にすり寄った。アレンはしゃがみ込んで、俺の顎の下をくすぐる。
「ふふ、クロはここが好きだよね」
(まあ、悪くない)
俺は目を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らした。猫というのは、こういう時だけ素直になれる生き物だ。人間よりずっと楽でいい。
「今日はギルドに行って、新しい依頼を探そうと思うんだ」
アレンは朝食の準備をしながら言った。パンとチーズ、それに干し肉の簡単な食事だ。俺の分の干し肉も、ちゃんと小さく切ってくれる。
「Dランクに上がってから、まだあんまり依頼を受けてないからね」
(そういえば、そうだったな)
大規模討伐の後、俺たち黒猫団は正式にDランクへ昇格した。でもその後は小規模な依頼ばかりで、Dランクらしい仕事はまだこなしていない。
ギルドマスターのゴードンが「焦るな」と言ってくれたおかげで、アレンも無理はしていない。でも、そろそろ次の一歩を踏み出す頃合いだろう。
「何かいい依頼があるといいんだけど」
アレンはパンをかじりながら、少し緊張した顔で言った。
(大丈夫だ。お前ならやれるさ)
俺はアレンの膝の上で丸くなりながら、静かに尻尾を揺らした。
* * *
ギルドに着くと、すでにエマが待っていた。建物の入り口付近から、元気な声が飛んでくる。
「アレン、クロ、おはよう!」
「おはよう、エマ。早いね」
「今日は週に一度の依頼更新日でしょ。いいのがあったら、すぐに取らないと!」
エマはやる気満々だ。彼女もまた、パーティを組んでから随分と弓の腕を上げている。大規模討伐の時に、遠距離からの援護がいかに重要かを痛感したらしい。
「それじゃあ、依頼板を見に行こう」
三人で掲示板の前に立つ。といっても、俺はアレンの肩の上から眺めているだけだが。
Dランク向けの依頼書が何枚か貼られていた。新緑の季節になり、採取系の依頼も増えている。
「街道の見回りに、薬草採取の護衛、それに……あっ、これ!」
エマが一枚の依頼書を指さした。
『ゴブリン調査・討伐依頼:ローベス北東の森林地帯にゴブリンの群れが確認されました。発見時は十匹前後の群れでしたが、詳細な数は不明。調査の結果、対応可能と判断した場合は、近隣農村に被害が出る前に討伐してください。推奨ランク:D以上』
「ゴブリンの調査・討伐依頼かあ」
アレンは少し考え込んだ。これまで受けた討伐依頼では、最大でも五匹ほどの群れだった。今回は「群れ」と書いてある。
「大規模討伐の時よりは少ないはずだけど、数は多そうだね」
「うん。でも、私たちならきっと大丈夫だよ。この前の大規模討伐だって、ちゃんと乗り越えたんだから」
エマは明るく言った。
アレンは少し迷っているようだった。無茶はしないと決めたばかりだ。でも、危険を避けてばかりでは成長できないことも分かっているはずだ。
「わかった。この依頼を受けよう」
アレンは決意を固めた顔で言った。
「でも、絶対に無理はしない。危ないと思ったら、すぐに撤退する。それが条件だよ」
「もちろん。黒猫団のルールだね」
エマが嬉しそうに笑った。
(ルール、か。仲間ができて、決まりもできて。だんだんパーティらしくなってきたな。悪くない)
俺はアレンの肩の上で、小さくあくびをした。
依頼書をカウンターに持っていくと、マリアが受付をしてくれた。
「ゴブリンの調査・討伐依頼ね。気をつけて行ってきてね」
「はい」
マリアが依頼書にスタンプを押しながら、「そういえば」と顔を上げた。
「リリアちゃん、今日は救護講座に行くみたいよ」
「救護講座?」
アレンが首をかしげる。
「ええ。興味があるみたいで」
「そうなんですね。そんなことに興味があったなんて知らなかった」
(興味、か)
俺はカウンターの隅で、尻尾を小さく揺らした。受付の手伝いに、救護講座。あいつなりに何かを始めようとしているらしい。
「それじゃあ、行ってきます」
アレンとエマは準備を整えると、俺の鈴を一時的にギルドに預け、ギルドを出発した。
新緑の陽射しが、街道を眩しいほどに染めていた。北東の森までは、歩いて数時間ほどの距離だ。
* * *
森の入り口に着いた頃には、日はすでに中天近くまで昇っていた。木々の間から差し込む光が、夏の近さを感じさせる。
「ここから先は、ゴブリンの縄張りだね」
エマが弓を手に、周囲を警戒する。
「うん。まずは偵察だ。無理に戦わなくていい。数と位置を確認しよう」
アレンは盾を構えながら、慎重に森の中へ足を踏み入れた。
俺はアレンの肩から飛び降りる前に、アレンの顔を見上げて小さく鳴いた。
(よし、行くか)
俺は茂みの中へ滑り込んだ。猫の身体は小さいから、茂みに隠れながら移動できる。ゴブリンたちは、俺のことなど気にも留めないだろう。
(さて、どれくらいいるかな)
俺は風上に向かって鼻をひくつかせた。ゴブリンの臭いは、すぐに分かる。汗と土と、少し腐ったような匂いが混ざった、なんとも言えない悪臭だ。
(結構いるな)
臭いの強さからして、十匹どころじゃないかもしれない。俺は慎重に茂みを進み、少し開けた場所に出た。
そこには、予想以上の数のゴブリンがいた。
見張りも含めれば、二十匹以上。さらに、その奥の茂みにも気配がいくつもある。全体の数は、正確には読めない。
(これはやばい)
俺は音もなく後退すると、アレンたちの元へ戻った。
アレンは俺のただならぬ様子に気づいたらしい。真剣な表情でしゃがみ込み、俺の目を見つめた。
「クロ、なにかあった?」
俺はアレンの手を前足で叩き、それからゴブリンのいる方角を何度も見た。
「数が多いの?」
「にゃあ」(そうだ)
「僕たちの想定以上に多くいるんだね」
俺は一度だけ鳴いて肯定した。半年間一緒に依頼をこなしてきたから、このくらいの動作で伝わる。
「どうする、アレン?」
エマが少し緊張した声で尋ねた。
アレンは茂みの向こうを睨みつけた。拳が白くなるほど剣の柄を握りしめている。
「ここで逃げたら……」
小さく漏れた声は、震えていた。
「村が襲われるかもしれない」
森の向こうにはアルムの村がある。もしここで見逃せば、被害が出るかもしれない。
「僕たちが止めなきゃ」
アレンの脳裏をよぎったのは、幼い頃に見送った父と母の背中だった。
『困っている人がいたら助けるんだ』
『それが冒険者だからね』
そう言って笑った二人は、商隊を守るために残り、そして帰ってこなかった。
守るためには、立ち止まらなきゃいけない。父さんと母さんも、そうしたはずだ。
(また一人で背負おうとするのか。前のめりになるのが勇気だとでも思ってるのか)
俺はアレンの足にすり寄った。
アレンの中で何かの葛藤があるのだろう。自分一人で全部背負い込もうとする、あいつの悪い癖だ。
ダンに教わったばかりじゃないか。前へ出ることばかりが正解じゃない。一歩下がることも、時には必要だ。
「アレン」
エマの声が、アレンの震える肩に触れた。
「この数を相手にしたら、私たちが死ぬよ」
エマの言葉に、アレンの息が詰まる。
「私たちまで倒れたら、誰が村に知らせるの?」
その一言が、アレンの胸に突き刺さった。
父と母は、守るために戦った。
でも今、自分たちがここで倒れれば、村に危険を知らせる者がいなくなる。
アレンは剣の柄を握る手を、ゆっくりと緩めた。
アレンは一瞬目を閉じ、それからゆっくりと口を開いた。
「……報告よりずっと多い。僕たちだけで戦うべきじゃない」
そして、首を横に振った。
「一度戻って、村とギルドに報告しよう。無理に戦って倒れたら、その勢いのまま村も襲われるかもしれない」
(よく判断したな)
俺は小さく安堵した。アレンは自分の力だけで答えを出したのだ。
ただ逃げるのではなく、責任を果たすために退くという、重い決断を。
「引き返そう。足音を立てないように、慎重に」
アレンが小声で言った、その時だった。
「ギャアッ!」
突然、後方の茂みから叫び声が響いた。
見張りだ。
(まずい!)
俺の背筋を冷たいものが走る。
森の奥から、無数の足音が一斉に動き始めた。
「くそっ、見つかった!」
アレンが剣を構え、盾を前に出した。声が少し震えている。無理もない。俺たちが相手にしてきたのは、多くて五匹だ。今はその数倍。
「アレン、囲まれるよ!」
エマが矢筒から矢を引き抜き、弓に番える。指先がわずかに震えていたが、目は冷静だ。
「逃げるんだ! 村に報告しなきゃ!」
アレンが叫んだ。その声には、もう迷いがなかった。
(そうだ、逃げるんだ。戦うな)
俺はアレンの足元で身を低くし、威嚇するように牙をむいた。
2人は必死に逃げる隙を探す。
だが、左右の茂みからもゴブリンが姿を現した。
逃げ道が、少しずつ塞がれていく。
「仕方ないか……エマ、殿は僕がやる! 先に行って!」
「ダメだよ! 一人になったら死んじゃう! 約束したでしょ!」
エマが怒鳴り返す。
「もちろん一緒に逃げたい! でも、このままじゃ……!」
アレンが盾で横から飛び出してきたゴブリンの一撃を受け止めた。
ガギン! という金属音が響く。
「にゃあっ!」(こっちだ!)
俺はアレンの前を走り出した。猫の身体は小さく、茂みをくぐり抜けるのに最適だ。俺が先導すれば、少しでも早く森を抜けられるかもしれない。
「クロ?! わかった、クロについて行くんだ!」
アレンが俺の黒い背中を見つけたのか、叫んだ。
俺は風のように駆ける。木の根を避け、低い枝の下をくぐり、狹い獣道へと飛び込む。
背後で、エマが弓を引き絞る音がした。
ヒュン!
矢が風を切り、迫っていたゴブリンの肩に突き刺さる。ギャッ! という悲鳴。だが、足止めにはならない。数が多すぎる。
(道を間違えるなよ、俺!)
猫の方向感覚は、人間なんかよりずっと優秀だ。帰る道は、鼻と耳でわかる。湿った土の匂い、街道の石の匂い、風に乗ってくるローベスの町の生活臭。
「アレン、左!」
エマの声。
アレンが体をひねり、左から飛びかかってきたゴブリンを剣の腹で弾いた。バシッ! という鈍い音。だがゴブリンは倒れず、すぐに起き上がる。
(しつこい!)
森の出口が見えた。光が差し込んでいる。あと少し。
だが、追撃は止まない。むしろ、興奮したゴブリンたちの動きは速くなっている。
「出口が見えた! 走るよ!」
アレンが叫ぶ。俺は最後の力を振り絞って駆けた。
森を抜けた瞬間、視界が開けた。
北東街道。石畳の道が、アルムの村へと続いている。
「街道に出た! このままアルムまで走るよ!」
アレンが息を切らしながら言った。
俺は振り返った。森の入り口まで追ってきたゴブリンたちは、そこで足を止めた。何匹かがこちらを睨みながら喚いているが、それ以上追ってくる気配はない。
(縄張りから離れる気はないのか。それとも――)
違和感があった。だが、今はそれを考えている暇はない。
「はあ、はあ……」
アレンとエマが膝に手をついて肩で息をしている。二人とも汗だくで、革鎧には無数の擦り傷がついていた。だが、致命傷はない。
俺はアレンの足元にすり寄り、安堵の声を上げた。
「にゃあ」(生きててよかった)
アレンがしゃがみ込み、俺を抱き上げた。心臓の鼓動が、早鐘のように打っているのが伝わってくる。
「ごめん、クロ。怖かっただろ」
アレンの手が震えていた。俺はアレンの手を前足で押さえた。
(お前の方が怖かっただろ。でも、よく耐えた)
「アレン、怪我はない?」
エマがアレンの側に寄った。
「うん、大丈夫。エマこそ、背中かすってた」
「かすり傷だよ。それより、急ごう。あいつら、気が変わったらまた追ってくるかも」
エマが森の方を警戒しながら言った。
「うん。アルムに着いたら、すぐにローベスのギルドに伝書鳥を送ってもらおう。これだけの数だ、ギルドの本格的な討伐隊が必要だ」
アレンの顔から、さっきまでの迷いは消えていた。今は、次にやるべきことだけを考えているようだった。
初夏の風が、汗ばんだ首筋を涼しく撫でていく。
俺たちはアルムの村へ向かって、足早に歩き始めた。
* * *
アルムの村に着いた頃には、西の空に茜色が広がり始めていた。初夏の日差しは長いが、山に沈む太陽は早い。
小さな村は、すでに門を閉じる準備をしていた。畑仕事を終えた村人たちの表情も、どこか緊張を孕んでいる。森の異変を察知しているのかもしれない。
「冒険者のアレンです! ゴブリンの大群を確認しました!」
アレンが門番に声をかけると、日焼けした顔の年配の男が慌てた様子で出てきた。
「ゴブリンだと?! 数はどれくらいじゃ?」
「二十以上はいたと思います。それに、動きに違和感がありました。普通の群れじゃないかもしれません」
アレンの報告を聞いて、男の顔色がさっと変わった。
「そ、それは一大事じゃ……! すぐにローベスへ伝書鳥を!」
伝書鳥が空へ飛び立つのを見届け、俺たちは村を後にした。
ローベスへの帰り道、薄暮の街道を歩きながら、アレンはぽつりと言った。
「逃げてよかったのかな」
その声は、風にさらわれるほど小さかった。
エマがアレンの隣に並ぶと、その肩を軽く叩いた。
「よかったに決まってるでしょ。あの数に突っ込んでたら、今頃ここ歩いてないよ」
「……そうだね」
「それに、村にも知らせられた。十分でしょ」
エマの言葉に、アレンの表情が少しだけ緩んだ。
俺はアレンの肩の上で、小さく伸びをした。
(そうだ。お前は正しい判断をしたんだ。父さんや母さんの教えを、自分なりに受け継いだんだよ)
* * *
ローベスに着いたころにはすっかり日が暮れていた。
そのままギルドに戻ると、ギルドは大慌てだった。
アルムからの報告を受け、ゴードンが即座に討伐隊の編成を始めたからだ。
ギルドの中には、冒険者たちが行き交い、武具のぶつかる音が響き渡っている。
「よく報告してくれた」
ゴードンがアレンたちの報告を受けながら、深く頷いた。その目が、真剣な光を宿している。
「戦わずに退いたのは正解だ。無駄死にするより、情報を持ち帰るほうがよほど価値がある」
ゴードンの太い声が、ざわめくギルドに響く。
「今夜のうちに人を集める。出発は夜明けだ」
ゴードンの声を聞いてギルド職員や冒険者が夜明けに向けて動き出す。
「アレン、お前たちのおかげで早期に対応できる。感謝する。今日は帰宅してゆっくり体を休めろ」
「わかりました。ありがとうございます」
アレンは安堵したように、すとんと肩の力を抜いた。隣でエマも、ふぅと息を吐いている。
(よかったな)
俺はアレンの足にすり寄った。
アレンがしゃがみ込み、俺の顎の下を撫でる。その指の動きは、さっきよりずっと穏やかだった。
「ありがとう、クロ」
「にゃあ」
俺は目を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らした。
アレンの手が首元に伸びて、ギルドに預けていた鈴を再度つける。
チリン。
澄んだ音が、空気に溶け出す。
それは、新しい鈴の音だった。黒猫団として歩み始めた、これからの音だ。
窓の外はもう暗い。
討伐隊の準備をする足音と、武具のぶつかる音がギルド中に響いていた。
(まあ、今日はよくやったな)
俺はアレンの肩の上で、大きくあくびをした。
明日もまた、きっと何かがある。
それでも俺たちは、こうして少しずつ進んでいくんだろう。
拙い文章ではありますが、感想等いただけますと大変励みになります。
よろしくお願いいたします。