16章 リリアの一歩
ギルドの朝は早い。
俺はいつもの棚の上で、前足を折り畳んでいた。下では、依頼書を抱えた冒険者たちが、ぞろぞろとカウンターの前に列を作っている。
あれから二日。編成された討伐隊は、日暮れ前に全員帰還した。幸い死者は出ず、森にいたゴブリンの大半は討伐されたという。それでも逃げ延びた連中が街道沿いに散発的に現れており、アレンたちは物資の運搬と安全確認を任されていた。
マリアの隣では、リリアが書類を仕分けていた。
「薬草採取の報告書はこっちね。討伐依頼は……これで全部か」
紙をめくる音に迷いがない。数字を確認する目も早い。
(仕事はできる。アレンが絡まなければ、だけどな)
俺はあくびを噛み殺した。
そこへ、見慣れた灰色の髪がギルドの入り口に現れた。
「おはようございます」
アレンとエマだ。二人ともすでに装備を整えている。
「おはよう、アレン君、エマちゃん。今日はどうするの?」
マリアが声をかける。
「アルムまで薬と食料を届けます。ついでに、街道沿いの安全確認も」
アレンの声には、まだ少し疲れが残っていた。
「気をつけて行ってきてね」
「はい!」
アレンたちはギルドを出ていく。
リリアは、その背中を見送っていた。口はへの字に結ばれ、手元の書類の端が少しだけしわになっていた。
(言いたいことがあるなら言えばいいのに)
でも、リリアは何も言わなかった。ただ、扉が閉まるまでずっと、二人が消えた方向を見ていた。
* * *
その日の昼過ぎだった。
ギルドの扉が乱暴に開かれ、怪我をした冒険者が運び込まれてきた。
「誰か、助けてくれ!」
「すぐに!」
マリアが立ち上がる。血の匂いが立ち込める。俺は思わず鼻をひくつかせた。
リリアの顔からさっと血の気が引く。でも、彼女は逃げなかった。震える足で救急箱の元へ走り、マリアの隣へ駆け寄った。
傷は、腕を大きく切り裂かれたものだった。布が真っ赤に染まっている。
「深いわ。リリアちゃん、止血の布を。それから傷を洗う水を」
「わかった」
リリアの手は震えていた。それでも、指示されたものを次々と差し出す。
「傷口を押さえるわ。リリアちゃん、傷の周りを洗って」
「えっ」
「大丈夫。清潔な布で、外側から内側へ。この前の救護講座で一回やっているはずよ」
リリアは一瞬固まったが、すぐに布を手に取った。傷口の周りにこびりついた血を、慎重に拭い始める。指先はまだぎこちなく、時折マリアの指示を仰ぎながらだったが、最後まで手を止めなかった。
「よし、止血はできた。包帯を巻くわよ」
マリアが手際よく包帯を巻く。リリアはその手元をじっと見つめていた。
「ありがとう、嬢ちゃんも」
手当てを終えた冒険者が、リリアの顔を見て弱々しく笑った。
リリアは何も言えなかった。ただ、小さく一度だけうなずいた。
(あんな顔で礼を言われたのは、初めてだろうな)
俺は棚の上で、リリアの青ざめた横顔を見下ろした。
* * *
騒ぎが収まった後、リリアはカウンターの隅で、まだ少し蒼白な顔をしていた。
「マリア」
「なあに?」
「次の救護講座も受けられる?」
マリアは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに優しく笑った。
「もちろんよ。継続して受講するのね。次の講座は、明日の昼からよ。ゼド先生が教えてくれるわ。止血や包帯の巻き方、傷の洗い方、それから薬草や回復薬の基礎まで。希望者には、魔力の扱い方も少し教えてくれるって」
「魔力の扱い方」
リリアの喉が、こくりと鳴った。
「私もね、最初はどうしていいかわからなかったのよ」
マリアはカウンターに肘をついた。
「怪我人が運ばれてくるたびに、包帯の場所から覚えたわ。次は傷薬、その次は誰を呼べばいいか。全部、一つずつよ。最初から全部できる人なんていないもの」
リリアは唇を噛みしめた。それから、一度だけ深呼吸をして、顔を上げた。
「お願いします」
マリアは引き出しから一枚の紙を取り出す。救護講座の追加申込書だ。
リリアはペンを受け取った。ペン先が紙の上で一度止まる。
それから、いつもの帳簿より少しだけ時間をかけて、自分の名前を書いた。
文字は少し震えていたが、最後まできちんと書けた。
「はい、これで受付完了ね。明日の昼、忘れないでよ」
「わかってるわよ」
そう答えた声は、いつもと変わらない。
ただ、受付へ戻ったリリアは、さっきまで何度も触れていた救護講座の紙を、もう一度も見なかった。
* * *
夕暮れ時、アレンとエマが戻ってきた。
「ただいまー」
エマが元気な声を上げる。アレンも小さく手を振った。荷車を押していたせいか、腕には土が付き、手の甲には小さな擦り傷ができていた。
「アレン、その手」
リリアが小さく声をかけた。
「ああ、これ? 大したことないよ」
「そういう問題じゃないでしょ」
リリアは救護箱から小瓶を取り出した。昼間の怪我人に比べれば、ずっと浅い傷だ。そのことに少しだけ安堵したのか、リリアの指先は昼間より落ち着いていた。ぎこちない手つきで傷を洗い、薬を塗る。包帯までは必要ない。
「終わり」
「ありがとう」
アレンは手の甲を見て、小さく笑った。
「前より上手だったよ」
アレンは少し照れくさそうに笑った。
「当たり前でしょ」
リリアは目線を合わせずに、救護箱を元の場所へ戻した。
(あいつもようやく歩き始めたか)
アレンだけじゃない。エマも、リリアも。少しずつ前へ進んでいる。
俺は棚の上で静かに目を閉じた。
悪くない。
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