季節は初夏から夏へと移ろいかけ、朝の空気にも湿り気が混じるようになった。
昼頃の暑さを予感させるような風が、ギルドの中まで入り込んでくる。
「黒猫団に頼みたい依頼があるんだが」
ギルドマスター室に通された俺たちは、ゴードンの向かい側に座っていた。俺は当然アレンの膝の上だ。真面目な顔で話を聞くフリをして、内心ではあくびを噛み殺している。
(また面倒なやつか?)
前回の大規模討伐以降、黒猫団の評価は上々らしい。そのせいかこうして直接マスターから声がかかることが増えた。パーティとしてはありがたいことだが、ゆっくり昼寝できる日が減るのは少し複雑な気持ちにもなる。
「アルムからローベスへの物資輸送で、行方不明になった荷馬車がある」
ゴードンの太い指が机の上の地図をなぞる。ローベスとアルムを結ぶ北東街道の中ほどあたりか。
「護衛についていた冒険者は無事戻った。ゴブリンの数が予想以上に多くてな。荷馬車を捨てて撤退したらしい」
「荷馬車を?」
「応援を連れて戻った時には、もう馬も荷も消えていた。積み荷は食料や日用品だったんだが――」
「ゴブリンの仕業ですか?」
相変わらず人助けには敏感だな。
「護衛の話じゃ、ゴブリンの群れに襲われたとある。だが妙なんだよ」
「妙、というと?」
エマが首を傾げる。赤毛が揺れて、どこか猫みたいだ。本物の猫の俺が言うのもなんだけど。
「普通なら荷だけを奪うか、あるいは全部持ち去るかだ。だが今回のケースは違う。馬も荷も全部消えた。道には争った跡はあるが、死体も血痕も残っていない。まるで最初から存在しなかったみたいにな」
(全部消えた?)
俺の耳がピクリと動く。猫の本能的な勘――あるいは元人間としての経験則か――が、何か引っかかるものを感じ取った。ゴブリンは利口じゃない。奪った荷を隠すような真似はしないし、ましてや痕跡を消すなんて器用なことができる種族じゃないのだ。
「実はだ、すでにCランクの冒険者を数組現場に向かわせたんだが、誰一人としてその先を掴めなかった。車輪跡も足跡も、街道の途中でぷっつり消えている。周囲も調べさせたが、その後の形跡は見つからなかった」
ゴードンの声が低くなる。室の中の空気が一瞬で重くなったのがわかる。
「前回の大規模討伐でもそうだったが……ゴブリンが妙に統率されていた可能性がある。もしそうなら、奴らに物資を流している経路があるはずだ」
ゴードンの視線が俺に向く。ただならぬ圧力を感じて、俺は思わず身構えた。
「お前たちの索敵力、判断力と、そしてクロの鼻を試してみたい。他の冒険者には見つけられなかった痕跡を、お前たちなら見つけられるかもしれん。どこから奴らが出入りしているか、頼みたい」
(おいおい、俺を探知機扱いかよ)
内心で盛大にツッコミつつも、断る理由はない。アレンを守るためにも、危険の芽は早いうちに見つけておきたいからな。
「わかりました。引き受けます」
アレンが力強く頷く。
「無茶はするなよ。あくまで調査だ。敵と遭遇したら即撤退だ」
「はい!」
(折角俺も頼られたしな。やれるだけやってやろう)
準備をして出発する際、俺は首の鈴を外した。依頼中は音で敵に位置を知られる危険があるからだ。小さな銀の鈴をアレンが丁寧に革袋にしまってくれる。首元が少し寂しくなるが、これも仕事のうちだ。
* * *
北東街道を外れ、森の中へ入る。
木漏れ日が地面に斑模様を作っている。湿った土の匂いに混じって、獣の糞や腐葉土の匂いが鼻腔をくすぐる。やっぱり森の中は落ち着く。町中の埃っぽい空気より何倍もいい。
道なき道を進むこと数十分。途中までは車輪の跡がはっきりと残っていたのだが、街道の途中で唐突に途切れた。
「消えちゃったね」
アレンが困ったように立ち止まる。
「ここで馬車ごと浮遊したとか?」
(そんなことあるわけないだろ。もっと現実的な線を考えろ)
俺は鼻をひくつかせながら、地面の匂いを探る。土の匂い、草の匂い、虫の匂い。それらが混ざり合う中に、微かだが鼻を突く刺激臭がある。
鉄が錆びたような、どこか薬品じみた異臭。
肉球が湿った泥の感触を拾う。この辺り一帯の土は、その異臭を含んでいるのだ。目に見える痕跡はきれいに消されている。だが、この不自然な匂いだけは、消しようがなかったらしい。
(こっちだ)
俺は茂みの奥へと方向を変えた。
「本当にこっちなの?」
エマが眉を寄せて後ろをついてくる。
「私の目には何も見えないんだけど」
「クロの鼻を信じよう」
アレンは俺を信じて歩を進める。
獣道とも呼べないような道を、低木の枝を避けながら進む。耳を澄ませば、遠くで小鳥のさえずりや、木の葉が擦れ合う音が聞こえる。
しばらく進むと、再び地面に痕跡が現れた。泥にまみれた車輪の跡だ。街道から外れて、さらに奥へと続いている。よく見ないとただの泥濘にしか見えないが、刻まれた溝は明らかに人工物だ。馬の蹄があるのもいくらか見て取れる。
「クロ、すごいね。本当に跡が続いてる」
エマが驚きの声を上げる。
エマが地面を覗き込む。
「やっぱり、ここまでは馬車ごと運ばれてきたみたいね」
食料だけ奪ったならまだわかる。だが、わざわざ馬車ごと森の奥まで運び込む理由は何だ?
俺たちはその痕跡を追って森の奥へ進んだ。
さらに十分ほど歩いただろうか。
唐突に開けた場所に出た。
そこには――
「荷馬車……」
アレンが息を呑む。
壊された荷台が転がっている。中身は空っぽだ。食料や日用品だったはずの中身は跡形もない。馬の姿もない。
「完全に持ち去られたみたいだね」
エマが周囲を見回しながら言う。
「でも何でお店みたいに整理されてるんだろ? 壊されたって言うより解体された感じ」
確かにその通りだ。荒らされたというよりは、手際よく解体されて部品だけ残したような雰囲気がある。板の継ぎ目は丁寧に外され、金具は外されてきれいに並べられている。ゴブリンの荒らし方じゃない。
俺も地面に鼻を近づける。匂いを探るのだ。
土の匂い。腐った木の匂い。鳥の糞の匂い。
そして――
(血?)
微かにだが、確かに血の匂いがする。古い血じゃない。まだ新しい匂いだ。護衛の誰かが負傷した時のものかもしれないが、その量は多くない。それよりも、あの鉄錆と薬品の混じった匂いが、ここでは濃厚になっていた。吐き気を催すような、ねっとりとした悪臭。
俺はさらに探るため壊された荷台の裏側に回り込んだ。
そこにあったのは――
(なんだこれ?)
木の表面に刻まれた傷跡。
爪でひっかいたような無数の傷の中に、一つだけ明らかに違うものがあった。
最初はただの擦れ傷かと思った。
だが、違う。
三つの円が重なり合ったような形。
見覚えがある。
あの大規模討伐の時、ゴブリンの首にあった奇妙な印。
毛が逆立つ。
全身の皮膚が粟立ち、背筋に冷たいものが走る。前世で害虫を見つけた時のような、粘着質な不快感。吐き気にも似た生理的な嫌悪感が、胃の底からこみ上げてくる。背中の毛が膨らみ、尻尾が太くなるのが自分でもわかる。
(三つ眼の印……!)
俺は喉の奥から低く唸り声を絞り出した。「にゃー……」と威嚇するような音が出る。
危険だと本能が訴えているのだ。近づいてはいけないと。
「クロ? どうしたんだ?」
アレンが俺の異変に気づいたのか駆け寄ってくる。「何かあるのか?」
俺は印に向かって唸り続けた。
アレンも俺の視線を追って印を見つけたようで、顔色を変える。
「これ……前回見たやつと同じだ」
「やっぱりか」
エマが弓を構える。
「ゴブリンが組織的に動いている証拠ね」
俺はまだ印から目を離せない。
(何だこの感じは……)
ただ傷跡であるはずなのに見ているだけで胃のあたりがむず痒くなるような感覚。吐き気にも似た不快感があるのだ。
「スケッチしておこう」
アレンは腰のポーチから小さな羊皮紙と炭を取り出すと、素早く印を書き写し始めた。彼の字は相変わらず汚いが、模様を写し取ることにかけては意外と器用だ。いざという時に備えて、情報を視覚化しておくのは悪くない判断だ。
(それにしても、吐き気がするほど嫌な感じだぜ……)
俺は鼻をすする。あの奇妙な鉄錆と薬品の混じった匂いが、まだ鼻腔の奥にこびりついている。
「クロ、匂いはどう?」
エマが俺の顔を覗き込む。彼女の吊り上がった目が真剣な色を帯びている。
「にゃあ」
俺は短く鳴いて、一つの方向を顎でしゃくる。荷台の裏側から、さらに森の奥へと続く微かな匂いの道筋があったのだ。
ゴブリンの体臭。汗と汚物と泥が混ざり合った、鼻が曲がるような悪臭。だが、それだけじゃない。先ほどの鉄錆の匂いが、その悪臭に混じって細く続いている。
(ゴブリンだけじゃない。何か別の奴が関わってるのか?)
さらに奥へと進もうとした時、風が変わった。
「にゃっ!」
俺はぴたりと足を止め、警戒の姿勢をとった。毛が逆立つ。喉の奥から低い唸り声が漏れる。
「どうしたの、クロ?」
エマが即座に弓を引き絞り、周囲を警戒する。アレンも剣の柄に手をかけて身を固くした。
(匂いが濃くなった)
あの鉄錆と薬品の匂い。そして、それに混じる異様な気配。目には見えないが、肌で感じる。まるで粘りつく蜘蛛の巣のような、不快な圧迫感。
遠くでガサガサと枯れ葉が鳴る音がした。風の音じゃない。何かが動いている。
だが、日没が近い。木の間から差し込む光はすでに赤みを帯び、影は濃く長く伸びている。これ以上奥へ進めば、暗闇の中で鉢合わせる危険がある。
「戻ろう」
アレンは森の奥をしばらく見つめたあと、そう言った。
「これ以上は危険だ。暗くなったら僕たちの動きも制限される。今日はここまでにしよう」
「そうだね」
エマもすぐに弓を下ろす。
(それでいい)
俺たちは来た道を引き返した。
* * *
ギルドに戻ると、夕暮れの支部は冒険者たちで賑わっていた。汗と酒、安い煮込み料理の匂いが入り混じる。森の冷たい空気に慣れた俺の鼻には、少しきつい。
「おかえり。状況はどうだ?」
ゴードンが受付のカウンター越しに声をかける。威厳のある声だが、その奥には固い表情が見え隠れしていた。
「消えた荷馬車、見つけました」
アレンがカウンターに羊皮紙を広げる。
「荷台は解体されていて、中身は空っぽ。馬もいなくなっていました。そして、これ」
アレンが指で示したのは、書き写した三つ眼の印だ。
「荷台の裏に刻まれていました。前に見たやつと同じです」
ゴードンの表情から、一切の色が消えた。
カウンターに置かれた彼の太い指が、一瞬だけ硬く握りしめられたのを、俺は見逃さなかった。喉の奥で低く唸るような音が、微かに漏れる。
「……やはり、同じ印か」
ゴードンの声が低い。「前の討伐で見つかったものと一致している。偶然じゃねえな」
「ゴードンさん、この印について何か知ってるんですか?」
エマが身を乗り出して聞く。
ゴードンはしばらく羊皮紙を見つめてから、ゆっくりと顔を上げた。右目の黒い眼帯が、ランプの光を鋭く弾く。
「……今のところ確かなことは言えん。ただ、俺は昔、これによく似た印を見たことがある」
「昔って?」
「俺がまだ現役で、今よりずっと無茶をしていた頃だ」
ゴードンはそれ以上語ろうとしなかった。だが、その声はわずかに緊張が混じっているように聞こえた。
(こいつ、何か隠してるな)
だが、無理に聞き出すのは得策じゃない。ただの猫にしか見えない俺が、これ以上のアクションを起こすわけにはいかないのだ。
「今日はもう帰れ。明日また対策を考える」
「はい。ありがとうございました」
アレンたちは頭を下げてギルドを出た。
* * *
家に帰るとすっかり日は暮れていた。
窓から差し込む月明かりが、木の床に白い四角を描いている。マーサさんが届けてくれたシチューの残り香が部屋に漂い、小さなランプがオレンジ色の影を揺らしている。
アレンは机に向かって、今日の報告書を書いている。字が汚いのは相変わらずで、明日またマリアさんに書き直されるんだろうなと俺は心の中でツッコミを入れる。
俺はアレンの膝の上で、丸くなっていた。
喉の奥から「ゴロゴロ」というエンジン音のような音が漏れる。アレンの手が、俺の耳の後ろを的確にかいてくるからだ。
(ああ……くそ、気持ちいい)
三つ眼の印に感じたあの不快な寒気が、この温かい手のひらと、心地よい振動の中に溶けていくようだ。
猫の身体ってのは、こういう時に本当に便利だと思う。人間のままだったら、こんな風に安らぐことなんてできなかっただろうからな。
「クロ、今日はありがとな」
アレンの手が止まる。
「きみがあの印に気づいてくれなかったら、僕たちもっと奥まで進んでたかもしれない。そうしたら……」
アレンの声が少し低くなる。目の前の俺ではなく、見えない危険に向けられているような響きだ。
「きみが気づいてくれたから、あそこで止められたんだ。ありがとう」
「にゃあ」
俺は短く鳴いて、アレンの手のひらに頭をすり寄せた。
(礼なんていいさ。お前が無茶しなきゃ、俺はそれでいいんだ。)
首元が少し寂しい。依頼で外した鈴は、アレンの机の上に置かれている。春の市で、アレンとエマが黒猫団からの贈り物として買ってくれた鈴だ。表面に細かい模様が彫られた小さな銀の鈴で、前の素朴な鈴とは違う、いくぶんか大人びた音がする。前の鈴は今、アレンが机の引き出しにしまっている。「初めて出会った日の大切な鈴だから」と言って、いつかまた使う日のために。
その鈴の存在を思い出すだけで、森の中で感じたあの粘着質な不快感が、頭の中から少しだけ洗い流される気がした。魔除けなんて非科学的なものを信じる気はなかったが、こういう時には頼りになるのかもしれない。
なぜただの猫である自分があそこまであの印に嫌な感じがするのか。
わからないことばかりだ。
だが、あの三つ眼の印が意味するものが何であれ、明日以降もあの森へ行くことになれば、いずれ向き合わなきゃならないだろう。
俺は身を縮めて、アレンの温もりにさらに身を寄せた。ゴロゴロという喉の音が、自分自身を落ち着かせるためのマントラみたいに響く。
それでも、アレンが進むなら俺も隣を歩くだけだ。どんな不気味な闇が待っていようと、鈴の音が鳴る限り、俺はこいつの相棒だからな。
窓の外で、また風が葉を揺らした。
「クロ、もう寝ようか」
アレンがランプの灯りを小さく絞る。部屋の中が、オレンジ色から闇へとゆっくり沈んでいく。机の上には報告書の書きかけと、例の印を写した羊皮紙が置かれたままだった。
俺はアレンの腕の中で丸くなった。彼の心臓の音が、規則正しく耳に届く。温かい。この温かさを守るためなら、明日も森へ行くしかない。
目を閉じると、まぶたの裏にあの三つ眼の印が浮かんだ気がした。