翌朝、ギルドへ顔を出すと、ゴードンがすでに待っていた。
「昨日の調査結果だが、上にも報告しておいた。今日はお前たちだけでなく、もう一組、ダンとライラを応援に出す」
(ダンとライラが?)
ダンはいつもアレンに訓練をつけているのでよく会うが、ライラはあまり話したことはない。
ライラは銀髪のエルフの冒険者で、弓を主に使い、斥候や狙撃を担当することが多いらしい。
最近では、エマが弓の扱いについて彼女に教わることもある。依頼のない日にギルドの訓練場で何度か稽古をつけてもらった、とエマが嬉しそうに話していた。
あの二人はBランクのベテランだ。それがわざわざ出てくるということは、ギルドとしてもこの件を相当重く見ている証拠だろう。
「ライラさん達も一緒なんだ!」
エマが口元をほころばせる。
「何も見つからなければそれでいい。だが、もし何か見つかった時のためだ。いいな、無理はするなよ」
「はい!」
アレンが元気よく返事をする。ちゃんとゴードンの目を見て、理解した上で返事をしている。
* * *
森の入り口で、ダンとライラと合流した。
ダンは今日も鋼鉄の鎧を着込み、大盾を背負っている。熊みたいな巨体が歩くだけで、地面がドンドンと震えるようだ。対するライラは銀色の長髪をなびかせ、飾り気のない長弓を手にしている。
二人の佇まいだけで、周囲の空気が引き締まるのがわかる。
「よう、アレン。昨日見つけたって場所まで案内してくれ」
「はい。こっちです」
「動物の勘って案外馬鹿にできないのよ。特にクロはよく当たるって聞いてるし、期待してるわ」
ライラが優雅に微笑む。
「エマの目も信頼してるけどね」
「ライラさん……!」
エマが顔を赤らめる。
「でも、今朝の訓練を見たけど、まだ肘が開いてるわよ。弓を引く時に左の肘が逃げてる」
ライラがすかさず指摘する。
「そ、そうですか……?」
「前よりはマシになったけどね。実戦で肩がぶれないように気をつけなさい」
(なるほど。エマが懐くのもわかる気がする)
厳しいけど面倒見のいい先輩、といったところか。エマも素直に頷いている。
「さて、行くか」
俺は鼻をひくつかせ、昨日のあの匂いを思い出す。鉄錆と薬品、そして粘着質な圧迫感。あれがどの方角から濃く漂ってくるか、肉球が土の震えを感じ取る。
俺は森の奥へと歩き出した。
* * *
昨日、車輪跡が途切れていた場所まで戻る。街道から森へ入る分岐点だ。
「ここで跡が途切れてたんだな」
ダンが街道の土を踏みしめる。「なるほどな。たしかに何も残ってねえ」
ライラはしばらく地面を調べていたが、やがて街道の方角へ視線を向けた。
「たぶん、隠したのは入口だけね」
「入口だけ?」
アレンが首を傾げる。
「ええ。街道から森へ入るところに板でも敷いて、その上を荷馬車に通らせたんでしょう。通った後に回収して、枝葉で地面を軽く均せば轍も蹄跡もほとんど残らないわ」
「森に入ったことさえ分からなくしちまえば、その先まで探す奴はいねえってわけか」
ダンが顎を撫でる。
「そういうことね。奥まで痕跡を消す必要はないもの」
(なるほどな)
だから昨日、途中からまた車輪跡が現れたのか。敵が隠したかったのは「荷馬車をどこへ運んだか」だけで、襲撃そのものを隠す気は最初からなかったわけだ。
だが、それなら一つわからないことがある。
(あの匂いは何だったんだ?)
昨日俺が追った、鉄錆と薬品を混ぜたような異臭。あれは今もこの辺りに微かに漂っている。ライラも匂い自体には気づいているようだが、その正体までは分からないらしい。
そこから昨日見つけた痕跡を辿り、森の中へ入る。
しばらく進むと、解体された荷馬車が見えてきた。
「それにしても、積み荷が食料と日用品だってのは妙だな」
ダンが荷台の残骸を靴先で蹴る。
ライラが外された金具を拾い上げる。
「荷は全部持っていった。馬もだ。荷台はここで解体して、使える板や金具だけ選別した。残ってるのは、持っていく価値がなかった物だけってところね」
「ゴブリンが、そんな器用なことを?」
アレンの問いに、ダンは首を振った。
「だから気味が悪いんだよ。金が欲しかったんじゃねえ。物資そのものが必要だったんだ」
(食料に日用品、馬、それに使える金具まで……)
金目の物だけを奪ったわけじゃない。何かを維持するために、使える物を根こそぎ持っていった――そんな印象を受ける。
俺は再び、昨日の匂いの道筋へと向かう。昨日よりも鮮明に、あの不快な異臭が鼻をつく。風向きが変わったのか、それとも"誰か"が活動しているのか。
俺たちは昨日見つけた獣道よりもさらに奥へと進んだ。
ダンとライラが前衛と後衛に分かれ、周囲を警戒しながら進む。その動きに無駄がない。これがBランクの実力というやつか。アレンとエマも、二人の背中を見ながら必死に気配を消してついていく。
十分ほど歩いただろうか。
俺の耳が、微かな音を捉えた。
ガサッ。
枯れ葉を踏む音。それも、風によるものではない。一定のリズムで、何かが移動している音。
俺はピタリと足を止め、耳を伏せた。
(誰かいる)
「にゃっ!」
短く鳴き、音のした方向を示す。
ダンが即座に大盾を構え、アレンが剣を抜く。エマとライラは弓を引き絞った。
茂みが揺れ、何かが姿を現そうとしていた。
だが、その瞬間。
「待て!」
鋭いライラの声が響く。
「人よ」
(人?)
俺は目を細めた。
茂みから現れたのは、灰色の外套に身を包んだ人物だった。フードを深く被り、顔は見えない。背丈は人間の成人男性ほど。手には何も持っていないように見えた。
だが、俺の毛が逆立った。
(あいつだ。あの匂いの主だ)
鉄錆と薬品。そして、吐き気を催すような粘着質な圧迫感。あの外套から漂っている。昨日俺が追っていた異臭は、痕跡隠しの工作の匂いなんかじゃなかった。この男が残していた残り香だったんだ。
「おい、そこで止まれ。名前と所属を言え」
ダンが重い声で問いかける。
灰色の外套の人物は、一瞬だけ立ち止まった。
そして、フードの隙間から、こちらを伺うような視線を感じた。
その時、俺の目はあるものを捉えた。
外套の襟元。首元に留められた留め具。
小さな、金属の留め具。
そこには、三つの円が重なり合った印が刻まれていた。
(三つ眼……!)
全身が粟立つ。昨日の荷馬車で見た印と同じだ。
「聞こえなかったか? 動くな。答えられねえなら拘束するぞ」
ダンが踏み込もうとした、その時だ。
森の奥から、バキバキという木が折れる音が響いた。
巨大な影が、木々の間から姿を現す。
オーガだ。
人間の倍近い体格の魔物が、こちらに向かってくる。
「なっ!?」
アレンが息を呑む。
「チッ、こんな場所にオーガだと!?」
ダンが即座に前に出て盾を構える。
だが、おかしい。
オーガはダンたちには目もくれず、ただ一直線に灰色の外套の人物の方へと走ってきたのだ。
そして、その人物の前で、膝を折った。
グルル……と低く唸りながら、まるで主人に従う犬のように。
信じられない光景だった。オーガのような高位魔物が、人間の前で膝を折るなんてあり得ない。
灰色の人物は、跪いたオーガを一瞥した。
そして何も言わず、片手を俺たちの方へ向ける。
それだけだった。
「グルルル……」
オーガがゆっくりと立ち上がる。
灰色の人物を庇うようにこちらへ向き直り、巨大な棍棒を持ち上げた。
(今の……指示したのか?)
言葉もなければ、合図らしい合図もない。だが、オーガは明らかにあの男の動きに反応した。
「来るわよ!」
ライラの矢が放たれた。
銀の矢がオーガの肩に突き刺さる。
「ギャオッ!」
オーガが咆哮を上げ、こちらへ向き直った。
だが、その隙に灰色の外套の人物は、素早く身を翻した。
「逃がすか!」
ダンが追おうとするが、オーガがその行く手を阻む。
「ダン、任せる! 私はあいつを追う!」
ライラが茂みを飛び越え、外套の人物を追って駆け出した。
「アレン、エマ! 俺から離れるな! こいつをここで止めるぞ!」
ダンの声に応じ、アレンが剣を構え、オーガの側面へと走る。エマが牽制の矢を放つ。
俺もライラの後を追おうとしたが、オーガの棍棒が地面を叩き、土煙が舞い上がる。
「クロ! 行くな!」
アレンが俺の首根っこを掴んだ。
(離せ! あいつを逃がすな!)
俺は暴れたが、アレンの手は離れなかった。
ダンが棍棒を大盾で受け止める。その一瞬の隙を突いて、アレンが腕を浅く斬りつけた。エマの矢も目元を狙うが、オーガが顔を振ったことで頬を掠めるに留まる。
ダンは無理に攻め込まない。大盾を軸にオーガの攻撃を受け流しながら、俺たちが巻き込まれない位置を保ち続けている。
オーガは苦痛に咆哮を上げたが、その動きは意外なほど忠実だった。俺たちを倒すことよりも、その場に留め続けることだけを目的としているかのように、機械的な動きで攻撃を続ける。
そして――
その時だった。
森の奥から、甲高い音が響いた。
ピィ――。
鳥の鳴き声にも似た、短い音だった。
オーガの動きが止まる。
「なんだ?」
ダンが眉をひそめる。
オーガは俺たちを睨みつけたまま、ゆっくりと後ずさった。そして次の瞬間、背を向けて森の奥へ走り去っていく。
「逃げた……?」
エマが呆然と呟く。
(違う)
俺には、そう思えた。
あいつは逃げたんじゃない。
**役目を終えたから、戻ったんだ。**
あの外套の男を逃がすための時間稼ぎだった――そう考えれば、この突然の撤退にも説明がつく。
背筋に冷たいものが走る。ゴブリンを統率するだけでなく、オーガのような高位魔物に「戦え」「下がれ」と命令できる人間がいる。
(命令したのか? いや、本当に操っているのか?)
ゴブリンならまだわかる。だが、あのオーガまで、あいつの前では従順に膝をついた。
何をしたのかはわからない。
ただ一つ確かなのは、あの灰色の外套が普通じゃないということだけだった。
「ライラさんは?」
エマが心配そうに声を上げる。
俺も不安になった。ライラはあいつを追っていった。一人で。
しばらくして、茂みが揺れ、ライラが姿を現した。
「……逃げられたわ」
彼女の顔には、珍しく焦りの色が浮かんでいた。
「速いわ。身のこなしが尋常じゃない。それに……」
ライラが手に持っていたものを、俺たちに見せた。
灰色の布切れだ。追跡中に引きちぎったものだろう。
「あいつ、何者なんだろう?」
アレンが呆然と呟く。
「ただの商人や旅人じゃないわ」
ライラが布切れを握りしめる。「魔物が襲わなかった。オーガが、あいつに跪いたのよ」
その言葉に、場が沈黙する。
俺は慎重にライラの持っている布切れへ近づき、鼻を寄せた。
匂いは濃厚だった。鉄錆、薬品、そしてあの粘着質な圧迫感。
そして、布切れの端に付いた汚れからは、微かにだが別の匂いもした。
古い血の匂い。
俺は確信した。この森の奥で、何かが動き始めている。そしてそれは、俺たちが想像しているよりも遥かに厄介で、危険な何かだ。
「……戻りましょう」
ライラが静かに言った。
「これは、私たちだけで追っていい話じゃないわ」
俺たちは何も言えず、来た道を引き返した。
森の奥から、湿った風が吹いてきた。
その風に混じって、あの鉄錆のような匂いがほんの一瞬だけ鼻をかすめる。
振り返っても、そこには木々の暗がりしかない。
それでも俺には、あの三つ眼がどこかからこちらを見ているように思えてならなかった。