森での遭遇から数日が過ぎた。あの日以来、ゴードンは一度も三つ眼の印について口にしていない。
ただ、ギルドの壁には「北東の森周辺の異常調査」と書かれた依頼の羊皮紙が、今も貼られたままだった。それが、あの出来事が終わっていないことを静かに示している。
ダンとライラが提出した報告書は王都のギルド本部にも送られたらしい。だが、戻ってきた返事は「情報収集を継続せよ」という素っ気ないものだった。
(まだ判断するには情報が足りないってことか)
現場を見た俺たちからすれば十分すぎるほど不気味な話だが、王都の本部からすれば報告一件だけで大騒ぎするわけにもいかないんだろう。前世でも、前例のない案件ほど確認事項が増えて、動き出すまで時間がかかったもんだ。
「クロ、そこにいると邪魔よ」
リリアが帳簿を抱えて俺を見下ろす。今日も今日とて完璧なまでに巻かれた縦ロールの髪が、カウンターの向こう側でふわりと揺れた。
(邪魔とはなんだ。俺はちゃんと隅っこにいるだろ)
俺が抗議の意味を込めて「にゃ」と短く鳴くと、リリアは小さくため息をついた。
「あんたのためにも言ってるのよ。誰かに踏まれても知らないからね」
口は悪いが、心配してくれているようだ。近頃のリリアは以前よりずっと落ち着いて見える。ギルドの受付の手伝いにも慣れてきて、マリアに教わりながら一人での帳簿整理も任されるようになったらしい。アレンを見る目つきは相変わらず鋭いが、その鋭さの種類が変わった気がする。
前までは「危ないことはしないで」という心配が強かったが、今は「無茶してないでしょうね」という信頼の上に立った叱咤、のように感じる。あくまで見ていての感覚だから、細かいニュアンスまでは自信がないが。
「クロ、お待たせ」
ちょうどそこに、依頼の報告を終えたアレンが戻ってきた。今日の依頼は近隣の畑を荒らす害獣駆除だった。大した相手じゃないが、こつこつと実績を積み重ねている。
「あ、アレンくん。こないだはうちの畑を助けてくれてありがとね」
依頼をしにきていた農夫がアレンに声をかける。
「おう、黒猫団! この前はありがとよ!また今度飯でも奢るからな!」
「若ぇのに大したもんだ。ダンも言ってたぜ、筋がいいって」
ギルドの中を歩くだけで、あちこちから声がかかる。アレンはそのたびに立ち止まっては、照れくさそうに頭をかいた。
「いや、まだまだで……」
「謙遜すんなって。お前らがこの前ゴブリンを退治してくれたおかげで、北の街道が安全になったんだ。商人たちも助かってる」
(へえ、あのゴブリン退治も効いてるのか)
俺は受付カウンターの上で耳をピンと立てた。
「ねえ、アレン」
リリアが帳簿を閉じて口を開く。
「お父さんが、また来いって言ってたわ」
「わかった。今度行くよ」
「そう。忘れないでよね」
(本人も会いたいって顔してるけどな)
リリアはぶっきらぼうに言ったが、ほんの少しだけ口元が緩んでいるのを、俺は見逃さなかった。相変わらず素直じゃないやつだ。
俺たちはリリアに手を振り、ギルドを出た。
通りを歩いていると、今度は町の人たちから声が飛んできた。
「わあ! 黒猫だ! 黒猫団のクロだ!」
路地裏から飛び出してきた子供たちが、俺を指差して目を輝かせる。アレンが「大丈夫だよ、噛まないから」と笑って近づけると、子供たちは恐る恐る俺の背中を撫でた。
「次に護衛を頼むなら、あんたたちに頼みたいな。若いのにしっかりしてるそうじゃないか」
荷馬車の御者が手綱を片手に挨拶していく。
アレンは頭をかきながらも、口元が少しだけ緩んでいる。褒められることにまだ慣れていないんだろう。前世の俺もそうだった。頑張りを認められるのって、なんだかくすぐったいんだよな。
* * *
夕暮れ時、ギルドの前でエマと合流した。
「あ、アレン、クロ! ちょっと聞いてよ!」
彼女の手には小さな布袋が握られている。ずっしりと重そうだ。
「それ、どうしたの?」
「聞いてよ! この前の森の調査依頼、追加報酬が出たんだって! ダンさんが『若手の働きに見合った報酬を出すべきだ』って、ギルドマスターに直談判してくれたらしいの」
「本当!?」
アレンの顔がぱあっと明るくなる。
「うん! しかもそれだけじゃないんだ。ライラさんがね、『これからは時間が合う日は正式に稽古をつけてあげる』って言ってくれて!」
エマはぴょんぴょん跳ねながら、よほどうれしいらしい。普段は落ち着いているのに、こういう時は年相応というか、無邪気な顔を見せる。彼女にとってライラは憧れの弓使いだ。そのライラに認められたことが、何よりも嬉しいんだろう。
(直談判か。ダンのやつ、そこまでやってくれたのか)
訓練や戦闘の面倒を見てくれるだけじゃなく、報酬まで気にしてくれるとは思わなかった。あの熊みたいな巨体のくせに、意外と細かいところまで見てるんだな。
「やったね、エマ!」
「でしょでしょ! 今日は一緒にご飯食べない? 私、ギルドの酒場でちょっとした打ち上げしたい気分!」
「いいね。リリアも誘おうか」
「もちろん!」
(勝手に盛り上がってるなあ)
でも、まあいい。若いっていうのは、これくらい元気な方が健全だ。前世の俺は仕事ばかりで、こんな風に誰かと一緒に打ち上げなんてした記憶があまりない。せいぜい愚痴を言い合う飲み会くらいだ。
* * *
ギルドの酒場は、夕食時とあって多くの冒険者で賑わっていた。肉を焼く煙とエールの泡立つ匂い、あちこちから飛び交う笑い声。俺はアレンの膝の上に陣取って、時々落ちてくる肉の切れ端を狙っていた。
「というわけで、黒猫団の活躍に乾杯!」
エマが木のジョッキを掲げる。中身はエールじゃなく果実水だが、雰囲気は十分だ。
「乾杯!」
アレンもジョッキを掲げる。
「これからも頑張りなさいよね」
リリアは果実水を一口飲んで、ふうと息をついた。
「そういえばリリア、最近ギルドの仕事は慣れた?」とエマ。
「まあ、それなりにね。マリアさんが丁寧に教えてくれるし、帳簿整理は前から家で少し手伝ってたから。でも、まだ覚えることはたくさんあるわ」
「リリアは本当にすごいよ。ギルドの仕事もして、救護講座も受けて、商会の手伝いもしてるんだもんね」
アレンが素直に感心したように言う。
「べ、別に。当たり前のことをしてるだけよ」
リリアはぷいっと横を向いたが、耳の先がほんのり赤くなっている。縦ロールの髪がふるふると震えるのは、照れ隠しの証拠だ。
(素直じゃないなあ、ほんと。まあ、そこが彼女のいいところなのかもしれないけど)
その時、ふと酒場の隅が目に入った。
見慣れない少年が一人、テーブルに座って本を広げていた。銀縁の眼鏡に、整えられた黒髪。周囲の騒がしさなど気にも留れず、分厚い本に目を落としている。
(なんだあいつ。酒場で読書とは珍しいな)
「あ、レオだ」
エマが小さく手を振った。
「知り合い?」
「うん。たまにギルドの資料室で会うんだ。魔法のことばっかり調べてる変わった子」
レオと呼ばれた少年は、こちらに軽く会釈しただけで、すぐ本へ視線を戻した。人見知りなのか、単に本が気になるのか。どちらにせよ、騒がしい酒場には似合わないタイプだ。
(まあ、色んな奴がいるもんだな)
俺は興味を失って、再び肉の切れ端に専念した。
「さあ、せっかくの打ち上げだ。今日は楽しもう!」
エマの声に、俺も「にゃあ」と同意した。難しいことは考えず、今はこの場の楽しさに浸るのが正解だ。
* * *
酒場での小さな宴が終わり、俺たちはそれぞれの帰路についた。エマはギルドの宿舎へ、リリアはモーガン商会のある自宅へ。アレンと俺は、町外れの小さな家へと続く夜道を歩いていた。
夜空には星が瞬き、遠くでフクロウの鳴き声が聞こえる。夏の夜風が、俺のひげを優しく揺らした。
「みんな、すごいな。それぞれの道で頑張ってる」
アレンがぽつりと言った。
「エマはライラさんに認められて、もっと上を目指せるようになった。リリアもギルドの仕事と救護の勉強を両立させてる。みんな少しずつ強くなってるんだね」
(お前だって、ちゃんと成長してるさ)
「僕も、もっと頑張らないとな」
「にゃあ」
(焦るなよ。一歩ずつだ)
夜のローベスに、俺の鈴の音が小さく響いた。
少し前まで、誰も知らなかった黒猫団。
今では、町を歩けば名前を呼ばれるようになった。
俺たちはどうやら、自分たちが思っているより少しだけ、冒険者らしくなっていたらしい。