(さて、と)
拾われてから二週間が経った。俺はアレンの家の居候猫として、それなりに快適な生活を送っている。
朝は日が昇ると同時に起床。アレンが用意してくれる温かいミルクを飲み、窓辺で毛繕いをし、庭を散策し、気が向いたらネズミの一匹でも追いかける。前世のサラリーマン時代と比べたら、天国のような日々だった。
(猫ってのは、こんなに自由でいい生き物なのか)
俺は窓辺の特等席——正確には、陽の光が一番よく当たるソファの背もたれの上——で、ぐでっと寛ぎながら、そんなことを考えていた。
しかし、一つだけ気がかりなことがある。
アレンが、毎日のように一人で依頼へ出かけていることだ。
「クロ、今日もいい天気だね。僕はこれからギルドに行ってくるよ」
アレンが、装備を身につけながら言った。ぼろぼろの皮鎧に、腰には作業用の短剣。それとは別に、まだまともに扱えない父の形見の長剣を、お守りのように背負っている。まだ十四歳の見習い冒険者——彼は今日もギルドで何か仕事をもらうつもりらしい。
半年前、冒険者をしていたアレンの両親は依頼中に命を落としたらしい。それ以来、アレンはこの家で一人暮らしを続けている。
(にゃあ)
俺は返事のつもりで一声鳴いた。アレンは嬉しそうに笑って、俺の頭をそっと撫でる。
「それじゃあ、行ってくるね。留守番、よろしく」
アレンはそう言い残して、玄関のドアを開けた。ギィ、と蝶番が軋む音。彼の足音が遠ざかっていく。
(さて、どうしたもんか)
俺は窓辺から飛び降りて、少し考えた。アレンは俺に「留守番をよろしく」と言った。常識的に考えれば、ここは素直に留守番をしているべきだろう。
しかし、俺はただの猫じゃない。前世の記憶を持つ、ちょっと特殊な猫だ。そして、俺の飼い主はまだ子供で、冒険者としても駆け出しで、何より心配になるくらいお人好しだ。
(よし、ついていくか)
俺は決断すると、アレンの後を追って家を飛び出した。幸い、彼の足は遅い。子猫の俺でも、十分に追跡可能なスピードだ。
* * *
外に出ると、雲ひとつない青空がどこまでも広がっていた。道の両側には石造りの家々が立ち並び、市場の方からは商人たちの威勢のいい声が聞こえてくる。
(ここは、ローベスっていう町だったか)
アレンから聞いた話では、王都から離れた町にしては交易が盛んらしい。道はきれいに整えられ、朝から市場には多くの人が行き交っている。
俺は物陰に隠れながら、アレンの後を追いかけた。彼が向かったのは、町の中心部にある大きな石造りの建物——冒険者ギルドだ。
入り口には剣と盾を組み合わせた看板が掲げられていて、中からは男たちの怒鳴り声や笑い声が聞こえてくる。開け放たれた窓から中を覗くと、左手には酒場、右手には受付カウンター、正面の壁には大量の羊皮紙が貼り出された掲示板があった。むわっとした熱気と、汗と酒と鉄の匂いが漂っている。
「おはようございます、マリアさん」
アレンは受付カウンターに向かって声をかけた。カウンターの向こうには、おさげ髪の女性が座っている。歳は二十代後半くらいか。優しそうな顔立ちだけど、目はしっかりとしていて、仕事ができそうな雰囲気だ。
「あら、アレンくん。おはよう。今日も元気そうね」
マリアと呼ばれた女性は、にっこりと微笑んだ。
「はい。今日は何かいい依頼はありますか?」
「そうねえ……ああ、これなんかどうかしら。東の森の入り口付近で、月光草の採取よ。報酬は銀貨三枚。森の入り口までは町の巡回範囲内だし、普段ならゴブリンが出るような場所じゃないわ。アレンくんにぴったりだと思うの」
マリアはカウンターの下から、一枚の羊皮紙を取り出した。アレンはそれを受け取ると、真剣な顔で読み始める。
「月光草……わかりました。これを受けます」
「はい、受注完了ね。気をつけて行ってきてね」
アレンはぺこりとお辞儀をして、ギルドを後にした。俺も慌てて窓から離れ、物陰に隠れる。
* * *
東の森へ向かう道をしばらく歩いた頃、さすがに子猫の足ではつらくなっていた。息が上がり、足取りも重くなる。
(くっ……思ったより距離があるな)
少し遅れた俺に気づいたのか、アレンがふと振り返る。
「えっ、クロ!?」
(しまった。見つかった)
「もしかして、ずっとついてきたの?」
「にゃあ……」
アレンは困ったように眉を下げた。
「もう……留守番しててって言ったのに。でも、ここまで来ちゃったなら仕方ないか」
アレンは俺を抱き上げ、自分の肩に乗せた。
「絶対に僕のそばを離れちゃだめだよ」
「にゃあ」(分かったよ)
(まあ、こうなったら仕方ない。堂々とついて行くしかないな)
心の中で苦笑しながら、アレンの肩の上で丸くなる。
東の森は、町から歩いて三十分ほどの場所にあった。この辺りは衛兵と冒険者が毎日巡回しており、見習いが一人で入れる数少ない採取場所だった。森の入り口は木々が生い茂っていて薄暗い。鳥のさえずりも聞こえず、風が葉を揺らす音だけが、ざわざわと響いている。
(なんだか、いやに静かだな)
俺は猫の感覚をフルに研ぎ澄ませて、周囲の気配を探った。特に異常はない。でも、なんとなく嫌な予感がする。
「えっと、月光草は……このあたりのはずなんだけど」
アレンは地図を片手に、森の中を進んでいく。彼の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。蒸し暑さと、魔物が出るかもしれないという緊張感の両方だろう。
その時、甘いような、少し青臭い匂いが風に混じって漂ってきた。
(この匂い……なんだ?)
俺は鼻をひくつかせて、匂いのする茂みを見つめた。アレンも俺の視線を追って、そちらを覗き込む。
「もしかして……あった! 月光草だ!」
アレンが指さす先には、ひっそりと咲く小さな花があった。銀色がかった白い花びら。葉の縁は細かいぎざぎざになっていて、月光草の特徴と一致している。
「クロ、ありがとう。きみが見つけてくれたんだね」
アレンは嬉しそうに笑って、慎重に花を摘み取った。その手つきはまだぎこちないけど、真剣そのものだ。
「よかった。これで一個目だ。依頼では五個必要だから、あと四個探さないと」
「にゃあ」(あっちにも匂いがするぞ)
俺はアレンの肩から降り、匂いのする方向に向かう。その時だった。
「グギャッ」
突然、茂みの奥から醜い声が聞こえてきた。それと同時に、腐った肉のような異様な悪臭が漂ってくる。
(なんだ?)
耳をピンと立てて、茂みの奥をじっと見つめる。風に乗って、獣の匂いと血の匂いが流れてきた。
「この声……ゴブリンだ!」
アレンの顔色が、さっと青ざめた。彼は慌てて腰の短剣を抜いた。その手が、かすかに震えている。
「グギャ、グギャギャ!」
茂みの奥から、三匹のゴブリンが現れた。身長は一メートルちょっと。緑色の肌に大きな耳、潰れた鼻。手には錆びた短剣や棍棒を持っている。ぎらぎらとした黄色い目が、俺たちを獲物として認識していた。
「ク、クロ、逃げて!」
アレンは震える声で叫んだ。でも、彼は逃げ出さなかった。アレンは短剣を抜いて、俺をかばうように、ゴブリンとの間へ立った。
(こいつ、また自分を犠牲にしようとしてるな)
呆れと感心が入り混じった気持ちで、アレンの背中を見つめた。二週間前、雨の中で俺を拾った時もそうだった。自分が濡れるのも構わず、俺を拾ってくれた。
俺は一度アレンの前に飛び出した。でも、すぐに自分の身体の小ささを思い知る。
(駄目だ。俺一人じゃ、あいつらを止められない)
それなら、俺にできることをしよう。
俺は素早く周囲を見渡した。そして近くの木へ駆け寄り、低い枝へ飛び乗る。
(ここなら、届く)
俺は小さな前足で、枯れ枝を蹴り落とした。バキッという鋭い音が、静かな森に響き渡る。
「グギャ!?」
ゴブリンたちが反射的に音の方を向いた。
(ほんの一瞬でいい。隙を作れれば、それで——)
「アレン、今だ!」
もちろん言葉にはならない。それでも俺は、斜面の方向へ走り出した。アレンも俺の意図を察したらしい。獣道を見つけて斜面を滑り降りる。
「グギャア!」
一匹のゴブリンが俺たちを追いかけようとしたが、茂みに足を取られて転んだ。残りの二匹も、斜面の上で迷っている。森の入り口までは、もう少しだ。
* * *
森の入り口まで戻ってくると、アレンはその場にへたり込んだ。肩で大きく息をしていて、顔はまだ青白い。
「はあ、はあ……クロ、大丈夫かい? 怪我はない?」
アレンは俺を抱き上げて、身体中を確認する。その手は、まだ震えていた。
「にゃあ」(大丈夫だ)
一声鳴いて、アレンの手を舐めた。汗で少ししょっぱいけど、今は気にならない。
「よかった……本当によかった……。クロが注意をそらしてくれなかったら、逃げ出すきっかけをつかめなかった」
アレンは俺をぎゅっと抱きしめて、涙ぐんだ。彼の心臓が、バクバクと早鐘を打っているのが伝わってくる。
(俺が作ったのは、ほんの一瞬の隙だけだ。そこから逃げ切ったのは、お前自身だろ)
心の中で呟く。でも、アレンには伝わらない。だから、代わりに彼の頬に頭を擦りつけてやった。
「ありがとう、クロ。きみは、僕の命の恩人だよ」
アレンは俺の頭を撫でながら、少しだけ笑った。
「そうだ、月光草。まだ一個しか採れてないや。でも、さすがに今日はもう無理だね。大人しく町に戻ろう」
アレンは立ち上がって、ポーチの中の月光草を確認した。幸い、さっきの逃走中に潰れたりはしなかったらしい。
* * *
ギルドに戻ると、マリアが俺たちの姿を見て、心配そうに眉を寄せた。
「アレンくん! 顔色が悪いわよ。何かあったの?」
「森の入り口で、ゴブリンに遭遇しました。三匹です。なんとか逃げ切れましたけど……」
アレンの報告に、マリアの表情が引き締まった。
「入り口付近にゴブリンが? それは大変。すぐに調査隊を出さないと。アレンくん、よく無事で戻ってきてくれたわ。それで、怪我はないの?」
「はい。クロが助けてくれたので」
「クロ?」
マリアは俺を見て、驚いたように目を丸くした。
「にゃあ」
俺は一声鳴いて、胸を張る。マリアはしばらくぽかんとしていたが、すぐに微笑んだ。
「そう。この猫はクロちゃんっていうのね。アレンくんを助けてくれてありがとう。」
「それじゃあアレンくん、月光草一株分と、ゴブリン出現の報告料を合わせて銀貨一枚を支払うわ。情報提供は立派な仕事だからね」
「ありがとうございます、マリアさん」
アレンは深々と頭を下げた。
「それと、アレンくん。今後クロちゃんももし一緒に依頼へ出るなら、パートナー登録をしておきましょうか」
「パートナー登録?」
「ええ。正式な冒険者登録はできないけれど、冒険者と一緒に行動する動物のための登録制度よ。ギルドへの出入りも、依頼への同行も認められるわ。王都では認められてないんだけど、この支部じゃ昔からやってるの」
「お願いします。クロと一緒に依頼へ行きたいです」
マリアはウインクして、書類に何やら書き込んだ。どうやら俺は、ギルド公認のパートナー猫になったらしい。
「クロ、よかったね。きみも今日から僕の正式なパートナーだ」
アレンは俺を抱き上げて、嬉しそうに言った。
(パートナー、か。悪くない響きだな)
心の中で笑いながら、アレンの肩の上で丸くなる。
「今日の報酬で、クロに美味しいミルクを買ってあげるね」
アレンはそう言って、市場に向かって歩き始めた。
(おいおい、自分の飯を優先しろよ)
心の中でツッコミを入れつつ、俺はアレンの横顔を見上げた。それでも、俺はアレンの肩に頭を擦りつける。
(それを選ぶのが、お前らしいけど、だからこそ心配なんだよ)
ため息まじりに尻尾を揺らす。まあでも、こいつのそういうところが、俺の一番気に入っているところでもあるんだけどな。
採取依頼は達成できなかった。
それでも、俺たちは二人とも生きて帰った。
今は、それで十分だった。
拙い文章ではありますが、感想等いただけますと大変励みになります。
よろしくお願いいたします。