第20章 何でもない一日
季節は秋へと移ろい、ローベスの街路樹も赤や黄色に色づき始めていた。朝晩は冷え込むようになり、俺はアレンの布団に潛り込む頻度が格段に増えた。猫として当然の権利だ。断じて寂しいとかではない、寒いだけだ。
「クロ、そろそろ起きてくれないかな」
アレンが苦笑いしながら布団をめくる。俺は抗議の声を上げた。
「にゃー……」
(あと一時間……いや、せめてあと三十分……)
「今日は特に予定ないけど、日が昇ってからずっと寝てると夜眠れなくなるよ」
(余計なお世話だ。猫は本来夜行性なんだぞ)
とはいえ、俺の生活リズムはすっかりアレンに合わせて人間よりの生活リズムになっている。猫だけど。
仕方なく布団から這い出し、伸びをする。背筋がピンと伸び、尾がぷるぷると震える。うん、猫の伸びは気持ちいい。
窓から差し込む朝日が、木の床にオレンジ色の四角を描いていた。空気はひんやりとしているが、陽の光にはまだ温かみがある。
アレンは台所で簡単な朝食の準備を始めた。パンとチーズ、それに昨日マーサさんが持ってきてくれた野菜スープを温めるだけの簡素な献立だ。俺の分には小皿に注がれたミルクと、細かくほぐした干し魚が用意される。
(悪くない朝だ)
* * *
あの森での出来事から、すでに一ヶ月以上が経っていた。
灰色の外套の人物は、結局見つかっていない。ゴードン自らが調査隊を編成し、森の奥深くまで探索を行ったが、あの奇妙な物資集積所もすっかり片付けられた後だった。
「まるで最初から何もなかったみたいに、だ」
ゴードンは苦い顔で呟いた。
三つ眼の印についても、ギルドを通じて王都の調査機関に情報が送られたが、今のところ目立った進展はないらしい。ゴードンは相変わらず何かを知っているようだが、多くを語ろうとしない。
黒猫団の日常は、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。
朝食を終えたアレンは、居間の隅で剣の手入れを始めた。布で刃を拭き、砥石で丁寧に研ぐ。金属と石が擦れる規則的な音が、部屋の中に小さく響く。
俺は机の上に飛び乗り、丸くなってその様子を眺めていた。窓から差し込む日が温かい。思わず喉がゴロゴロと鳴る。
「クロ、退屈?」
アレンが手を止めて笑いかけてくる。
「にゃ」
(別に。こういう日も悪くない)
「そっか。じゃあもう少しだけ付き合ってね」
俺は前足に顎を乗せて、アレンの指の動きを観察する。十五歳の少年の手はまだ細い。狭い場所で使用する用の探検、父の形見の大剣。その二本を丁寧に手入れする姿には、以前はなかった落ち着きがある。
最近のアレンは、剣を抜く前に周囲を見るようになった。
少し前までなら真っ先に前へ出ていたくせに、今はエマの位置や逃げ道まで確認してから動く。
(ちゃんと学んでるんだな)
(気づけば、俺がこの家に来てから一年半近くになる)
拾われたばかりの頃はまだ子猫だった俺も、今ではすっかり成猫の体格だ。アレンの腕の中で丸まると、少し窮屈に感じることもある。
(まあ、悪くない人生……いや、猫生か)
* * *
午後になって、アレンと俺は町へ出た。
今日は依頼のない休養日だ。こういう日は決まって、まずギルドへ顔を出す。急な依頼が入っていないか確認するためだが、それ以上に、ここで誰かと顔を合わせるのが習慣になっていた。
ギルドの中はいつもより閑散としていた。大きな討伐や調査依頼が続いた反動か、今日はみんな休みを取っているらしい。
「あら、アレン。今日はお休みでしょ?」
受付のマリアが顔を上げ、おさげ髪を揺らしながら微笑んだ。
「はい。でも何か急ぎの依頼が出てたらと思って」
「真面目ねえ。今日は大丈夫よ。ゆっくり休んで」
マリアはそう言ってから、一枚の紙を掲示板に貼り出した。
「そういえば、来月また初心者向けの薬草講座があるわ。リリアも手伝ってくれるって」
「リリアが?」
アレンの声が少しだけ明るくなる。
「ええ。最近ずっとゼドさんの講座を手伝ってるのよ。ギルドの受付業務も殆ど覚えてしまったし」
(リリアか)
あの幼馴染は、アレンにきつく当たる一方で、明らかにアレンを意識している。俺がこの家に来たばかりの頃は、アレンが冒険者になるのを反対していたくせに、気がつけばギルドの手伝いを始めていた。エマが加わった時は露骨に面白くなさそうな顔をしていたし、ついこの間までは自分の役割について悩んでいた。
だが、今は違う。
マリアの話では、リリアは帳簿整理や依頼票の仕分けも覚え、少しずつギルド運営の裏方として機能し始めているらしい。薬草の知識も、モーガン商会で扱う茶葉や香辛料の知識と重なる部分があるから、吸収が早いのだという。
(ただアレンを追いかけるだけじゃなく、自分の道を見つけたって感じか)
それはそれで、少し大人になったということなのかもしれない。
「アレン」
背後から声がかかった。振り返ると、ダンが立っている。今日は鎧を着ておらず、ラフなシャツ姿だ。
「あ、ダンさん。お休みですか?」
「おう。ここのところ詰めすぎたからな。ライラにも休めって言われた」
ダンは豪快に笑いながら、アレンの隣に腰を下ろした。
「そういえば、お前らもあれから調査に協力してくれてたな。お疲れさん」
「いえ、僕たちはただの下見です。ダンさんたちが森を徹底的に調べてくれたから」
「何言ってんだ。クロの鼻がなきゃ、痕跡すら見つからなかったんだ。お前らが来る前は何も掴めなかったんだぜ」
ダンが俺の頭を軽く撫でる。大きな手だが、意外に優しい。思わず喉が鳴りそうになるが、ぐっと堪えた。威厳の問題だ。
(まあ、たまにはでかい手で撫でられるのも悪くない)
「それに、あそこで外套の奴より仲間を優先したのは正解だ。深追いしてたら怪我じゃ済まなかったからな」
ダンの言葉に、アレンは少しだけうつむいた。
「まだまだです。怖かったし、何もできなかった」
「当たり前だ」
ダンはあっさりと言い放つ。
「Cランクだって一人でオーガに勝てる奴は少ねえ。ましてや初見でビビるなって方が無理だ」
「でも」
「でもじゃねえよ。前なら勢いで追ってたかもしれねえ。それを止められるようになった。それで十分だ」
ダンは立ち上がり、アレンの肩を軽く叩いた。
「いいか、アレン。最終的には倒す強さも必要だ。だが、それ以上に、いつ戦うか、いつ退くかを間違えねえことが大事なんだ」
「はい」
「わかったら、今日は休め。強くなるのはそれからだ」
ダンは笑いながら、手をひらひらと振ってギルドを出ていった。
(いいこと言うじゃねえか)
俺はダンの背中を見送りながら、心の中で拍手を送った。
* * *
ギルドを出た後、市場に立ち寄った。
露店が立ち並ぶ通りは、主婦や行商人で賑わっている。
「あら、アレン。今日はお休みかい?」
八百屋の女将が声をかけてきた。
「はい。今日はゆっくりしようと思って」
「いいねえ。若いんだから、たまには息抜きしなきゃ。あ、そうだ。これ持ってきな」
女将はリンゴを一つ、袋に入れてくれた。
「え、でもお金……」
「いいのいいの。いつも魔物から守ってくれてるお礼だよ」
(この町は本当に温かいな)
市場を歩くたびに声をかけられ、時に野菜や果物を差し入れられる。最初は困惑していたアレンも、今では素直に「ありがとう」と言えるようになった。
「クロ、今日は魚にしようか」
魚屋の前でアレンが足を止めた。氷の上に並べられた新鮮な川魚が、キラキラと銀色に光っている。
「にゃ」
(賛成)
俺が尻尾をピンと立てると、アレンは嬉しそうに笑った。魚屋の主人と値段の交渉を始めるアレンの横顔を見ながら、俺は尻尾を揺らす。
(成長したもんだなあ、ほんと)
買い物を終え、家への帰り道。
「クロ、今日は僕が料理するよ」
「にゃ?」
(お前が?)
「大丈夫。マーサさんに教わったんだ」
(へえ、いつの間に)
半信半疑だったが、アレンは本当に手際よく魚をさばき始めた。塩と香草をまぶし、フライパンでじっくりと焼く。油の跳ねる音と、香ばしい匂いが台所に広がる。塩をまぶしていない半身も合わせて焼いてくれている。
「はい、クロの分」
小さな皿に盛られた焼き魚が俺の前に置かれた。皮はパリッと焼け、身はふっくらとしている。匂いだけで涎が出そうだ。
(いただきます)
一口かじる。うん、うまい。
「にゃ」
「ほんと? よかった」
アレンはほっとしたように笑い、自分も焼き魚を口に運んだ。窓の外はすっかり暗くなり、ランプの灯りがテーブルをオレンジ色に染めている。リンゴの甘い香りが、焼き魚の香ばしさに混じって漂っていた。
食後、片付けを終えたアレンは、机に向かって何やら書き物を始めた。報告書かと思って覗き込むと、どうやら明日の依頼の準備らしい。真面目なことだ。
俺は机の上に置かれた鈴に目をやった。春の市でアレンとエマが買ってくれた、表面に細かい模様が彫られた銀の鈴。依頼がない日は、こうして机の上で静かに光っている。前の鈴は今、机の引き出しの中だ。「初めて出会った日の大切な鈴だから」とアレンがしまっている。
(二つになったな)
古い鈴と新しい鈴。どちらも、俺にとっては大切なものだ。
アレンが書き物を終え、ランプの灯りを小さく絞る。
「クロ、明日は何しようか」
「にゃあ」
(明日は明日の風が吹くさ)
「まあ、明日考えればいいか」
アレンが布団を敷き始める。俺はすかさずその中に潛り込んだ。
「あ、ずるいよ!」
(先着順だ)
「もう……じゃあちょっとだけ端に寄ってよ」
少し狹い布団の中で、アレンの体温がすぐ隣にある。
この温かさが、ずっと続けばいいと思う。
冒険者である以上、そんな毎日ばかりではないことくらい分かっている。だからこそ、こうして何でもない一日を過ごせることが、今は何よりありがたかった。
(俺が拾われた頃も、こんな少し冷たい雨の季節だったっけ)
あの日、雨の路地裏で目を覚ました時は、最悪だと思った。よりによって猫かよ、と。
でも今は――。
(猫になって、悪くなかったかもな)
そんな感慨が、ふと胸の中に湧いてきた。
「クロ、おやすみ」
「にゃあ」
(おやすみ、アレン)
俺は目を閉じ、アレンの心臓の音を子守唄に、ゆっくりと眠りに落ちていった。
明日もきっと、いい一日になる。