薬草採取の依頼から、さらに一ヶ月が経った。あの日、ゴブリンに遭遇して命からがら逃げ帰った経験は、アレンにとって大きな転機になったらしい。それ以来、こいつは毎朝、庭で木剣を振るようになった。
俺は窓辺の特等席——朝日が一番よく当たるソファの背もたれの上——から、その様子をじっくり観察していた。拾われた頃より身体も少し大きくなり、ソファから庭へ飛び降りるのもだいぶ楽になった。子猫の時期は成長が早い。この調子なら、あと数ヶ月もすれば立派な若猫だろう。
「いち! に! さん!」
アレンの掛け声が、静かな朝の空気を切り裂く。手にした木剣を、何度も何度も振り下ろす。額には大粒の汗が浮かんでいて、灰色の髪が額に張り付いている。
まだ構えは安定せず、勢い余ってよろけることも多い。それでも、一ヶ月前のように一振りごとに転ぶことはなくなっていた。
(まあ、努力は認めてやってもいいか)
この一か月見ていて分かったことがある。こいつは弱い。魔法も使えなければ、特別な才能もない。あるのは、人よりちょっと優しい心と、諦めの悪さだけだ。
「にゃあ」
俺は一声鳴いて、窓辺から飛び降りた。それから、庭に出てアレンの足元にすり寄る。
「あ、クロ。おはよう。見ててくれたんだね」
アレンは木剣を置いて、俺の頭をそっと撫でた。その手は汗で湿っていて、少しだけ震えている。素振りを続けた疲労のせいだろう。
「にゃあ、にゃあ」
俺は台所の方を見て、しっぽをピンと立てた。これが俺なりの「飯にしようぜ」の合図だ。訓練も大事だが、腹が減っては戦ができぬ。前世の記憶がそう教えてくれる。
「あ、もうこんな時間か。ごめんね、クロ。すぐに朝食を用意するよ」
アレンは慌てて台所に駆け込んだ。アレンが温めてくれた山羊乳を飲み終える頃、向かいで硬いパンをかじっていたアレンが、ぽつりと言った。
「クロ、僕ね、もっと強くなりたいんだ」
「にゃあ?」(急にどうした)
「この前のゴブリンとの遭遇で、思い知ったんだ。僕はまだまだ弱い。クロに助けてもらわなかったら、今頃どうなってたかわからない」
アレンはパンを握りしめながら、うつむいた。その声は、悔しさと情けなさで震えている。
(おいおい、また自分を責めてるのか)
俺は山羊乳を舐めるのを中断して、アレンの顔をじっと見つめた。こいつは本当に、自分を犠牲にして誰かを守ろうとする。それが、俺にはもどかしくもあり、誇らしくもあった。
「にゃあ」
俺は一声鳴いて、アレンの膝の上に飛び乗った。それから、彼の手をぺろぺろと舐める。
「クロ……慰めてくれてるの?」
(まあ、そんなところだ。お前が強くなりたいなら、俺も付き合ってやるよ)
もちろん、言葉にはできない。だから、代わりにゴロゴロと喉を鳴らしてやった。
「ありがとう、クロ。……うん。落ち込んでるだけじゃ、強くなれないよね」
アレンは一度うつむいて、それから顔を上げた。
「今日はギルドに行って、ダンさんに剣術の指導をお願いしてみるんだ」
その目には、さっきまでの暗さはもうない。代わりに、強い決意の光が宿っている。
(ダンさん、か)
ダンは、この町で指折りのベテラン冒険者だ。大柄で豪快な戦士で、アレンの両親とも顔見知りだったらしい。アレンが冒険者を目指すと決めた時も、真っ先に相談に乗ってくれたという。
(あの人なら、アレンに合った指導をしてくれるだろう)
俺はアレンの肩に飛び乗りながら、そんなことを考えていた。
* * *
「よお、アレン。今日はどうした? また薬草採取か?」
ギルドの酒場で、ダンは空になったエールのジョッキを脇へ押しやり、アレンを迎えた。熊みたいな巨体と、無精髭に覆われた顔は、いかにも歴戦の戦士といった風貌だ。
「ダンさん、お願いがあります。僕に剣術を教えてくれませんか?」
アレンはダンの前に立つと、深々と頭を下げた。酒場にいた他の冒険者たちが、ちらちらとこちらを見ている。でも、アレンは気にしなかった。
「剣術? そりゃまた急にどうした」
「この前、ゴブリンに遭遇したんです。森の入り口で。クロが助けてくれなかったら、今頃……」
アレンは言葉を詰まらせた。
「なるほどな。それで、強くなりたいってわけか」
ダンはジョッキを机に置いて、アレンの顔をじっと見つめた。それから、にやりと笑う。
「いいぜ。明日の朝、裏庭へ来い。ただし、俺の指導は厳しいぞ。泣き言は一切なしだ。それと、二日鍛えたら一日は身体を休めろ。無理に続けても身体を壊すだけだからな。それでもいいか?」
「はい! よろしくお願いします!」
アレンの顔が、ぱあっと明るくなった。その無邪気な笑顔を見ると、こっちまで嬉しくなってくる。
(休みの話をちゃんとするあたり、ダンは指導者として信頼できるな)
俺はアレンの足元で、尻尾をゆっくりと揺らした。
* * *
「よし、まずは基本からだ。剣を構えろ」
翌朝、ダンの指導が始まった。場所はギルドの裏庭。地面は固く踏み固められていて、ところどころに的や訓練用の人形が置いてある。
アレンは緊張した面持ちで、木剣を手に取った。
「剣術の基本は、構えだ。いいか、足は肩幅に開いて、重心はやや低めに。剣は両手で握って、切っ先は相手の喉元に向ける。そうだ。悪くない」
ダンはアレンの構えを細かくチェックしながら、指導を続ける。彼の教え方は厳しいけど、理にかなっていた。無駄なことは一切言わない。必要なことだけを、的確に伝える。
「次は素振りだ。俺の動きをよく見て、真似しろ」
ダンは手本を見せる。大柄な身体から振り下ろされる木剣は、空気を切り裂いて鋭い音を立てた。無駄のない、見事なフォームだ。
「はい! いち!」
アレンは必死に真似ようとするが、どうしても動きがぎこちなくなる。重心がぶれて、振り下ろした後にふらつく。
「だめだ。重心が高い。もっと腰を落とせ。剣を振り下ろす時は、腕だけじゃなくて全身を使うんだ」
「こ、こうですか?」
「まだ甘い。もう一度!」
ダンの指導は、昼前まで続いた。アレンは何度も何度も素振りを繰り返し、その度にダンからの厳しい声が飛ぶ。汗だくになり、息も絶え絶えになりながら、それでも彼は諦めなかった。
(こいつ、本当に根性あるな)
俺は裏庭の隅にある木陰から、訓練の様子をじっと見守っていた。アレンの手には、すでにマメができ始めている。でも、ダンはマメが潰れる前に訓練を止めた。
「よし、今日はここまでだ。初日としては上出来だな。明日は筋肉痛で動けなくなるかもしれん。そういう日は無理せず、座学で体の使い方を学べ。いいな?」
「はい! ありがとうございました、ダンさん!」
アレンは疲れ切った顔で、それでも力強くうなずいた。
* * *
「クロ、ただいま……」
家に帰るなり、アレンは玄関に倒れ込んだ。もう一歩も動けない、といった様子だ。慣れない訓練で、十四歳の身体はすっかり疲れ切っていた。
「にゃあ」(お疲れ)
俺はアレンの顔をぺろぺろと舐めてやった。汗の味がするけど、今は気にしない。
「ああ、クロ……きみの舌、気持ちいいよ……」
アレンはうつ伏せのまま、うっとりとした声を出す。よほど疲れているんだろう。このまま玄関で寝てしまいそうだ。
(おいおい、風邪をひくぞ。ちゃんとベッドで寝ろ)
俺はアレンの耳元で、一声鳴いた。
「にゃあ」
「うん、そうだね。ちゃんとベッドで寝ないと、クロが心配するもんね」
アレンはゆっくりと起き上がって、ふらふらとベッドに向かった。それから、泥のように眠りに落ちる。規則正しい寝息が聞こえ始めるまで、ほんの数秒だった。
(おやすみ、アレン。明日も頑張れよ)
俺はアレンの枕元で丸くなりながら、静かに目を閉じた。
* * *
それから、さらに一ヶ月が経った。
アレンの訓練は、ダンの指導のもと、二日鍛えて一日休む周期で続けられた。休養日には、ダンから戦闘の基礎知識や体の使い方を学ぶ座学の時間が設けられた。無理なく、着実に。それがダンの方針だった。
その成果は、確実に表れていた。
「いち! に! さん!」
アレンの素振りは、一ヶ月前と比べて格段に安定している。重心は低く、足腰はしっかりと地面を捉えている。木剣を振り下ろす速度も、格段に速くなった。百回の素振りを終えても、以前のようにその場へ座り込むことはなくなった。体力も、ずいぶんとついたようだ。
(なかなか様になってきたじゃないか)
俺は窓辺の特等席から、アレンの訓練を見守っていた。朝日が差し込む庭で、彼は真剣な顔で素振りを続ける。
「よし、百回終了。次は投げナイフの練習だ」
アレンは木剣を置いて、今度は投げナイフを手に取った。接近する前に敵の注意をそらす牽制手段として、ダンから教わったのだ。庭の隅にある古い木の的に向かって、ナイフを投げる練習だ。
「えいっ!」
ナイフはくるくると回転しながら、的の——端っこに突き刺さった。真ん中には程遠いけど、一ヶ月前は的に当てることすらできなかった。それを思えば、大きな進歩だ。
「くそ、まだ真ん中に当たらない。もっと練習しないと」
アレンは悔しそうに言って、外れたナイフを拾い集める。その手には、新しいマメがいくつもできていた。でも、以前のように潰れて血が滲むことはない。ちゃんと手入れをしながら訓練を続けている証拠だ。
(まあ、焦るな。少しずつでいいさ)
俺は一声鳴いて、アレンを応援した。
「ありがとう、クロ。よし、次こそ真ん中に当てるぞ!」
アレンは拾ったナイフを、もう一度的に向かって投げる。何度も拾っては投げ直す。十回、二十回と続けるうちに——
「やった! 真ん中に当たった!」
ついに、ナイフが的の中心に突き刺さった。アレンは子供みたいに飛び跳ねて喜ぶ。その無邪気な笑顔を見ると、こっちまで嬉しくなってくる。
「クロ、見てたかい!? 真ん中に当たったよ!」
「にゃあ」(見てたぞ。すごいじゃないか)
俺は一声鳴いて、窓辺から飛び降りた。それから、アレンの足元にすり寄って、頭をこすりつける。
「えへへ、ありがとう。まだダンさんとの模擬戦では一本も取れないけど、前よりは少しだけ強くなれた気がするんだ」
アレンはしゃがみ込んで、俺の耳の後ろをかいた。そこを触られると、無性に気持ちいい。俺は思わず、ゴロゴロと喉を鳴らしてしまう。
(そこは反則だろ……)
でも、まあ、こういうのも悪くない。
「さて、そろそろ休憩にしようか。今日は午前中で訓練を終わりにして、午後は久しぶりにゆっくりしよう。最近、きみと遊ぶ時間もなかったからね」
アレンはそう言って、古い毛糸玉を取り出した。俺がこの家に来たばかりの頃、アレンがお手製で作ってくれたおもちゃだ。もうぼろぼろになりかけているが、それがまた味がある。
「にゃあ!」(遊ぶのか!)
俺は思わず、猫の本能全開で毛糸玉に飛びついた。転がる毛糸玉を追いかけて、家中を走り回る。アレンはそんな俺を見て、嬉しそうに笑っていた。
まだまだ先は長い。
それでも、少しずつ強くなっていくアレンの隣で、俺も一緒に歩いていけばいい。
(立派な冒険者になるその日まで、付き合ってやるさ)
外は雲ひとつない青空だった。窓から差し込む陽射しが、じんわりと温かい。
俺はアレンの膝の上で丸くなり、静かに目を閉じた。
拙い文章ではありますが、感想等いただけますと大変励みになります。
よろしくお願いいたします。