初夏の朝。空は気持ちよく晴れ渡っていた。
アレンの家の古い窓ガラス越しに光が差し込んでくる。
毛並みに触れる空気はまだひんやりとしているが布団に潜り込みたくなるような冬の冷たさではない。
俺はアレンの足元で丸くなっていた体を伸ばし大きくあくびをした。
「ふにゃぁ……」
首元の黒い革の首輪についた銀の鈴がチリンと小さく鳴る。グレッグさんの息子が昔作った小ぶりな鈴だ。この音にはもうすっかり慣れた。
(ん、まあ悪くない目覚めだ)
心の中でぼんやり考えつつ顔を上げて部屋を見渡す。
アレンはまだ寝ている。布団に頭まで潜り込み規則正しい寝息を立てている。こいつの寝起きの悪さは相変わらずだ。
前世のブラック企業時代ならとっくに遅刻で給料を引かれているところだ。
視線を流すと部屋の隅に作られたスペースがあった。そこにいるのは黒猫団の新入りだ。
レオ・クライス。
眼鏡の魔術師はもう起きていた。薄暗い中小さな魔法の光を灯して分厚い本を読んでいる。
静かにページをめくる音だけが寝息とは別のリズムを刻んでいた。
(相変わらずの早起きだなあいつは)
レオはアレンの家に居候しているわけではない。宿に部屋を借りているが朝の時間はよくここに来る。アレンを起こすためというよりは朝の訓練に合わせるためだ。
「クロ、おはよう」
レオが本から顔を上げ小声で挨拶してきた。
「にゃあ」
俺も小さく返す。この時間の静けさは悪くない。
しばらくして約束の時間が近づく。家の外から軽やかな足音が聞こえてきた。草を踏む音と革のブーツが地面を叩くリズム。嗅覚が運んできたのは矢筒の木と革の匂い。
エマだ。
「おはよー! まだ寝てるの?」
ドアが開くと同時に元気な声が飛び込んでくる。エマは赤い髪を揺らしてもう長弓を背負っていた。腰にはいつもの矢筒に加えライラから譲り受けた護身用の短剣がぶら下がっている
レオが本を閉じて立ち上がる。
「おはようございますエマさん」
「レオももう来てたんだ。さすが早起き」
エマがアレンの寝床に近づき布団を容赦なくめくる。
「アレン起きて! 依頼に行くよ!」
「うぅ……あと五分……」
「五分じゃない! 今すぐ起きる!」
アレンが寝ぼけ眼で手探りを始めるので俺は仕方なく枕元に歩み寄り、冷えた鼻先をアレンの頬に押し当てた。
「うわっ! 冷たいっクロ……」
「にゃっ」
これが一番効くのだ。アレンはようやく上半身を起こし青い瞳をぱちぱちとさせた。
「おはよ、みんな。クロ起こしてくれてありがとう」
「にゃあ」
(感謝は新鮮な魚で払ってくれ)
アレンが支度を済ませ全員で朝食の硬いパンを齧る。エマが持ってきた干し肉を分けレオがお茶を淹れる。以前はアレンと俺だけの朝だったが今は四人がテーブルを囲む。
狭い家の中が少しだけ賑やかになった。
* * *
ローベスの町は初夏の気配に包まれていた。石畳の道を歩く人々の姿も軽やかで市場の屋根の隙間から眩しい陽光が降り注いでいる。
冒険者ギルドに到着すると受付でマリアが手を振ってくれた。
「おはよう黒猫団のみんな! 今日も元気ね」
「おはようございます、マリアさん」
アレンがパーティ証を取り出す。その羊皮紙には確かに『黒猫団』と記されメンバー欄には『アレン、エマ、レオ』の名前が並んでいる。そして端っこの方に『パートナー:クロ』と書かれていた。
(パートナー欄か。まあ俺はアレンの相棒ってことでいいんだろう)
俺はアレンの肩の上からその文字を眺める。不満はない。この名前があるから俺はギルドに出入りでき依頼にも同行できる。それが大事なのだ。
「今日の依頼はね……」とマリアが依頼書を広げる。
「西の丘での薬草採取とスライムの間引きよ。Dランクの定番ね」
「了解です!」とエマ。
「三人になってからの依頼もだいぶ慣れてきたけど今日も気合い入れなきゃね」
「そうだね」とアレンが頷く。
「レオ無理しないでね。僕たちがカバーするから」
「はい。お願いします」
レオは少し緊張した面持ちで杖を握りしめた。あの廃屋での失敗からまだ完全に立ち直ったわけではない。
でもアレンが安全に魔法を撃てる射線を作ってくれる。それがレオにとっての支えになっているはずだ。
* * *
西の丘への道中、初夏の風が木々の間を吹き抜けていく。
青葉を揺らす音、小鳥のさえずり。俺の耳は森の微かな変化を捉えていた。
薬草採取を終え、今度は依頼にあったスライムを探しながら丘を歩いていると、草の匂いに混じって、スライム特有の生臭い匂いが鼻を突いた。
「止まって。何かいる」
俺が前足を止め、耳を伏せて低く唸ると、アレンがすぐに反応する。
「どうしたの、クロ?」
「見て、あそこの岩陰」とエマが指差す。
ぬるりとした青緑色の塊が三つ、ゆっくりと這い出てきた。スライムだ。物理攻撃が効きにくいやつだが魔法には弱い。
「レオ、氷壁で動きを封れる?」
アレンが剣の柄に手をかけながら尋ねる。
「やってみます!」
レオが杖を振り、短い詠唱と共に地面に手をつく。シュウッと冷気が走り、スライムたちの進行方向に透明な氷の壁『氷壁』が隆起した。
……が、少し広すぎたらしい。氷壁がスライムの進路を塞いだだけでなく、アレンが回り込もうとしていた側面まで完全に遮断してしまった。
「うわっ!」
アレンが慌てて足を止める。
「す、すみません!」
レオが顔を青くする。
「大丈夫! 次はもう少し範囲を絞って!」
アレンは即座に体勢を立て直し、剣の腹でスライムを氷壁の方へ弾き返す。倒す役ではなく、レオが魔法を当てやすい位置へ誘導する役回りだ。逃げ場を失ったスライムたちはてんでばらばらに動き出した。
「氷の矢よ 敵を穿て!」
レオの杖の先から氷の矢が飛び、一匹のスライムを凍りつかせる。動きの鈍ったところへ、エマの矢が突き刺さった。
もう一匹が氷壁の脇から抜けようとする。
「こっちは僕が!」
アレンが剣の腹で叩きつけ、スライムを氷壁へ弾き飛ばした。レオがすかさずもう一本の氷の矢を放ち、完全に動きを止める。
残った一匹が氷壁の反対側へ逃げようとする。
「逃がさない!」
エマの矢が進行方向の地面に突き刺さる。スライムが慌てて向きを変えたところへ、アレンが回り込んだ。
「レオ、こっち!」
アレンが剣の腹でスライムを押し返す。
「はい!」
三本目の氷の矢が命中し、最後の一匹もその場で凍りついた。
「……やった」
アレンが息を吐き、剣を収める。レオの氷壁が陽光を受けてキラキラと輝いていた。
「レオ、氷壁、かなり使いやすくなってきたよね」
アレンが振り返って笑う。
「もう少し範囲を絞れたら完璧だね」
「あ、ありがとうございます」
レオの頬が少し緩む。
「皆さんの位置がわかっていたので、落ち着いて使えました。範囲、次は気をつけます」
「私も射撃しやすかったよ」
エマが指サックを外しながら言った。
「レオの氷壁があると敵の動きが止まるから狙いが定めやすいの。範囲は慣れればどうにかなるって」
「ふにゃあ」
(俺も褒めてくれ。匂い察知したの俺だぞ)
俺が喉を鳴らしながらアレンの足にすり寄ると、アレンがしゃがんで頭を撫でてくれた。
「クロもすごいよ。いつも一番最初に気づいてくれる」
(……まあ、そうだな。当然だ)
耳の後ろを撫でられるとどうしてもゴロゴロと喉を鳴らしてしまう。猫の習性とはどうしてこうも抗えないのだろうか。
* * *
依頼を終え、帰り道。
夕暮れのローベスは、茜色に染まっていた。石造りの家々が長い影を落とし、教会の鐘がゆっくりと鳴り響く。
アレンの家に戻ると、玄関の前に見慣れた影があった。
栗色の髪を後ろで束ね、大きな籠を抱えた少女。
リリアだ。
「もう! 遅いんだから!」
アレンの姿を認めるなり、リリアが眉を寄せて怒ったような声を上げる。でもその頬は夕日に照らされて少し赤く見えたし、籠からはいい匂いが漂ってきていた。
「ごめんごめん、リリア」とアレンが頭をかく。「依頼が少し長引いちゃって」
「ふん。あんたが遅いから、シチューが冷めちゃったじゃない」
「シチュー? また作ってくれたの?」
「余り物の整理よ! ……マーサさんにもらった野菜があったから、ついでに作っただけ」
(ついでに、ね。素直じゃないな)
俺がリリアの足元にすり寄ると、彼女は少し声を和らげて屈み込んだ。
「クロもおかえり。……ふふ、依頼お疲れ様」
「にゃあ」
(リリアの匂いがするな。ミルクと、少しの薬草の香り。今日はギルドの手伝いだったのか?)
リリアは俺を抱き上げ、アレンたちを家の中へ促した。
「さあ、入って。冷めないうちに食べるわよ。……レオも遠慮しないで」
「え、僕もいいんですか?」
レオが目を丸くする。
「せっかく作ったんだから、一人増えたくらい変わらないわよ」
「ありがとうございます」
レオが少し遠慮がちに頭を下げる。
リリアはそんなレオを見て少しだけ目を細めた。
「それに正式に黒猫団に入ったんでしょう?」
「はい」
「ちゃんとアレンたちと助け合えるんでしょ?」
「……はい。そのつもりです」
「ありがとう。二人をよろしくね」
リリアの口調はきついようでいて、愛情も見え隠れしている。
リリアが籠を置き、手際よく食事の準備を始める。
アレンの家の狭いテーブルを、四人と一匹で囲む。
野菜シチューは温かくて、冷えた体に染み渡る。アレンとエマがパンをちぎり、レオが小皿に取って食べる。
「レオの氷壁、かなり使いやすくなってきたよね」
「次はもっと範囲を絞れそうです」
「私も、あそこならもっと早く撃てたかも」
三人が楽しそうに今日の依頼を振り返る。
リリアも笑って聞いている。しかし、ほんの一瞬だけスプーンを止めたように見えた。
(ん?)
俺が気づいた時には、リリアはまたいつもの顔でシチューを口に運んでいた。
(まぁ、いいか。それより飯だ)
俺の前に置かれたのは、塩抜きした白身魚と、温めた山羊乳。
(うまい)
アレンの膝の上で魚を齧りながら、俺はテーブルを囲む顔ぶれを見渡す。
少し前までこの家にはアレンと俺だけだった。
それがエマが加わり、レオが加わった。
そして、リリアが見守るように混ざることもある。
窓の外はすっかり暗くなり、初夏の夜が更けていく。
暖炉の火が爆ぜる音だけが静かに響いている。
(……さて、明日の依頼はなんだっけな)
魚の身を綺麗に舐め取りながら、俺はアレンの膝の温もりに目を閉じた。