ギルドの午後は、少し空気が緩む。
依頼に出た冒険者たちが戻り始める時間だ。酒場から湧き上がる笑い声、成功の報告に安堵する受付嬢たちの吐息。そんな喧騒の中、リリアはいつものように帳簿へ羽ペンを走らせていた。
「リリア、こっちの報告書もお願いしていい?」
マリアが書類の束を差し出す。
「はい。そっちはもう終わったので大丈夫です」
「もう終わったの? 相変わらず早いわね」
「このくらい普通です」
リリアは澄ました顔で答え、次の書類を受け取った。手は止まらない。文字にも乱れはない。
だが。
(……朝から落ち着かないな)
俺はカウンターの下からリリアを見上げる。さっきから何度目だろう。仕事が一区切りつくたび、壁に掛けられた時計へ目を向けている。
昨日、ゼドの治癒術を食い入るように見ていた顔を思い出した。
やがてリリアが最後の一枚を書き終え、帳簿を閉じた。
「マリアさん、あと三十分ほど外に出てもいいですか?」
「いいわよ。こっちはもう大丈夫だから」
「ありがとうございます」
リリアは立ち上がるといつもより少しだけ早足で扉へ向かった。
(リリアの決意を見届けさせてもらうかな)
俺はアレンの足元から音もなく離れ、リリアの後を追った。
* * *
ローベスの町外れ。
石造りの古い塔が、初夏の陽射しの中に立っている。ゼドの住処だ。
リリアは塔の入り口で一度立ち止まり、深呼吸をした。それから意を決したように扉を叩いた。
「ゼド先生、いますか」
「入れ」
中から低い声がする。リリアは扉を押し開けた。
俺は塔の外壁をよじ登り、狭い窓の縁に着地した。肉球が古い石の熱を吸う。中を覗き込むと、ゼドが机に向かい、リリアがその前で棒立ちになっていた。
「いいか、治癒術ってのはな、自分の魔力を相手の傷に沿わせるところから始まる。イメージは水だ。溢れさせず、枯渇させず、必要なところへ流す」
「はい」
「まずは術にする必要はない。手のひらに魔力を集めてみろ」
「……やってみます」
リリアが右手を前に突き出す。その手は、やはり震えていた。
「光れ……! 光れっ!」
念じるような声。だが指先からは何も出ない。ただパチッと小さな静電気が弾けただけだった。
「っ」
リリアが唇を噛む。
「駄目だ。お前は焦りすぎとる」
ゼドが静かに言った。
「魔力は感情に引っ張られる。お前の今の心は、荒れた海みたいだ。そんな状態で、まともな流れが作れるか」
「……でも、早くできるようになりたいんです」
リリアがうなだれる。
「みんなはもう、あっちで戦ってるのに。私だけ、ここで立ち止まったままで……」
(……焦り、か)
俺は窓の縁で尻尾を丸めた。アレンたちが前へ進んでいくほど、自分だけが取り残されているように感じていたんだろう。
「リリア」
ゼドの声が、少しだけ優しくなった。
「才能があるかなんぞ、今の段階じゃ分からん」
「じゃあ、私には無理かもしれないってこと?」
リリアが顔を上げる。
「当たり前だ。一回やっただけの奴の向き不向きが分かるか」
「……だから、繰り返しやるんだろうが」
リリアがゼドを見つめる。
「はい。やります」
「木が育つのに、水を欲しがるからといって一気に注げば、根が腐る。焦るな。今のお前に必要なのは深呼吸だ」
リリアが深呼吸をする。一度、二度。肩の力が抜けていくのが窓の外からでも分かった。
「今度は言葉に乗せてみろ」
彼女が再び手をかざす。今度は、念じる声ではない。静かな、吐息のような詠唱。
「恵みの光よ」
しばらく、何も起こらなかった。
だが。
「……先生」
リリアの指先に、ほんの一瞬だけ白い光が瞬いた。蝋燭の火どころか、目を離せば見失いそうなほど小さな光だった。
「今の……」
「ああ。魔力が動いた」
ゼドが頷く。
「治癒術と呼べるようなもんじゃない。傷一つ塞げん。だが――一歩目には違いない」
リリアは自分の指先をじっと見つめた。さっき光が灯った場所を、確かめるように。
「……できた」
「まだ何もできとらん」
「もう、先生!」
「だが昨日までとは違う。少なくとも入口には立てそうだな」
リリアの目に、小さな光が宿る。それは指先の光よりも頼りなかったが、確かにそこにあった。
「今日はここまでにしろ。焦りすぎても、逆効果だ」
* * *
塔から出てきたリリアは伸びをした。
「……ふぅ」
長い吐息。そしてくるりと振り返る。俺と目が合った。
「見てたのね」
リリアが苦笑いする。
「にゃあ」
(まあな。)
「……内緒よ。まだ誰にも言えないから」
リリアが人差し指を口元に当てる。その指先を、俺はじっと見つめた。さっきほんの一瞬だけ白い光が灯った指だ。
「にゃあ」
(わかってるよ。お前の秘密だ)
リリアは俺の頭を軽く撫でて、ギルドへ戻っていった。
* * *
夕方。
ギルドの仕事を終えたリリアは、俺たちと一緒に帰り道を歩いていた。
「今日のリリア、なんか機嫌よくない?」
アレンが不思議そうに首を傾げる。
「……さあね。私のことは放っておきなさいよ」
そう言いつつも、リリアの声は弾んでいた。
「クロ、あんたも余計なこと言わないでよ」
「にゃあ」
(言えるわけないだろ)
リリアは俺をちらりと見て、それから小さく笑った。
俺はリリアの足元にすり寄る。
始めたばかりのことは、誰だってうまくいかない。俺だって、最初は自分のしっぽに躓いて転んだ猫だった。
だが一歩踏み出した事実は消えない。
あの一瞬だけ灯った小さな光のように。
初夏の夕陽が、二人と一匹の影を石畳の上に長く伸ばしていた。