初夏の朝。
アレンたちはいつものようにギルドへ向かっていた。レオが黒猫団に加わってから、こうして三人でギルドへ向かうのもすっかり当たり前になった。
(まあ、こいつらもだいぶ形になってきたな)
俺はアレンの肩の上であくびをした。
ギルドに着くと、受付の奥ではリリアがいつものように帳簿へ羽ペンを走らせている。
「おはよう、黒猫団のみんな。今日も元気ね」
マリアが依頼書を広げる。
「西の丘のムーンフラワー採取とホーンラビットの間引きなんてどうかしら」
「ちょうどいいですね。最近ちょっと物足りないんです」
エマが目を輝かせる。
「物足りないって……まだDランクなんだから無茶しないでね」
マリアが苦笑する。
アレンが依頼書を受け取る間に俺はリリアの足元へ目を向けた。俺に気づいたリリアが一瞬だけ顔を上げる。目が合う。それから何気ないふりをして自分の右手へ視線を落とした。
午後になればまたゼドのところへ行くのだろう。リリアがゼドの塔へ通い始めて五日が経っていた。休憩時間になるとしばらく姿を消し、戻ってきた彼女からはいつも薬草と古い羊皮紙の匂いがする。
(相変わらず真面目なやつだな)
自分の意思が強い。しっかりしてる。それは出会ったころから変わらないリリアの印象だ。
俺も知らん顔をして前足を舐める。アレンたちは何も知らない。今のところそれでいい。
「クロ、行くよ」
アレンの声で、俺は顔を上げた。
* * *
西の丘では、青い草が初夏の風に揺れていた。
「クロ、左の方をお願い」
「にゃあ」
アレンの指示で俺は左手の草むらへ駆け出した。肉球が湿った土を捉える。鼻をひくつかせればすぐに獣の匂いがする。
右前足で地面を二度叩き、左の藪へ首を振る。
「左ね」
アレンが頷き剣を抜く。
藪が揺れ二匹のホーンラビットが飛び出した。
アレンが一歩踏み出す。その動きに合わせて、レオが杖を振る。
氷壁が左側面に隆起し、ラビットの逃げ道を塞ぐ。範囲は完璧だ。アレンが動く余地をちゃんと残している。
「今だ!」
エマの矢が一匹の前足を射抜く。体勢を崩したところへ、アレンの剣が入った。もう一匹は氷壁にぶつかって跳ね返り、レオの氷の矢がその動きを止める。
「終わった」
アレンが剣を収めるまで、数十秒もかかっていない。
「レオ、今の壁ちょうどよかったよ」
「前より狭くしました。アレンさんが動く場所を残した方がいいですから」
「私も撃ちやすかったよ。前だったら壁の向こうに隠れちゃってたもん」
エマが地面に刺さった矢を引き抜く。
「……すみません」
「褒めてるんだから謝らなくていいって」
三人が笑う。
(慣れってやつだな)
少し前までは戦うたびに誰がどこへ動くか声を張り上げて確認していた。それが今ではアレンが一歩踏み出せばレオが壁を出し、レオが杖を向ければエマが射線を空ける。まだ完璧じゃない。相手が相手だから余裕があるだけだ。それでも三人が互いに三人の動きを見るようになっていた。
その時だ。
鼻先に、奇妙な匂いが触れた。
(なんだこれ)
鉄錆のような、それでいて妙に甘ったるい匂い。鼻をひくつかせた瞬間、背中の毛がぞわりと逆立った。匂いだけじゃない。何かが気持ち悪い。
(なんだ……?)
俺は草を掻き分け、匂いがした方へ数歩進んだ。地面に鼻を近づける。土。草。ホーンラビットの血。それからアレンたち三人の匂い。どれも知っているものだ。
(違う。あれじゃない)
もう少し先へ進む。十歩ほど歩いて周囲を見回した。草の根元にも木の幹にも何かが通った跡はない。足跡らしいものも見当たらない。
ふと気づいて耳を立てる。鳥の声が遠い。虫の音もしない。俺たちがいる辺りだけが、妙に静かな気がした。
風が吹く。草がざわりと揺れた。反射的に振り返る。
何もいない。
「クロ?」
後ろからアレンの声がした。
「何かいる?」
「にゃあ」
(……いや)
俺はもう一度だけ鼻を上げた。風が頬の毛を撫でていく。だがさっきの匂いはどこにもなかった。
(魔物なら、何かしら痕跡が残っててもよさそうなもんだが)
少なくとも俺の知っている魔物じゃない。だからといって騒ぐほどのものでもない。何よりアレンたちに説明する方法がない。
(……気のせいならいいんだが)
俺は首を振ってアレンの肩に飛び乗った。
* * *
ギルドに戻り報告を済ませる。
「最近調子いいわね。三人になってから討伐数も上がってるし」
マリアが依頼報酬の銀貨を数えながら笑う。
酒場の隅のいつものテーブルでは、ダンが大きなカップ片手にこちらを見守っていた。目が合うと、「やるじゃねえか」少しだけ顎をしゃくった。
「次はもう少し大きな敵でもいいかも。ウルフの群れとか」
「エマ、それはちょっと急ぎすぎだよ」
「冗談冗談。でも、もういける気がしなくもないよね」
(調子に乗るなよお前ら)
俺はテーブルの上で前足を組んだ。確かに強くはなっている。だが、それはあくまでDランクの範囲内での話だ。
その時受付の方からリリアがこちらを見ているのに気づいた。俺と目が合うとリリアは右手をほんの少し持ち上げる。
(今日もやってきたか)
「にゃあ」
小さく返すとリリアは満足そうに帳簿へ視線を戻した。
(ま、焦らずやれよ)
* * *
夕食を終え、俺はアレンの膝の上で丸くなっていた。
アレンは今日採ってきたムーンフラワーの話をしながら、食後の果実水を飲んでいる。開けた窓から夜風が入り、遠くで虫の声が聞こえていた。いつもと変わらない夜だ。
それなのに
(なんだったんだ、あれ)
目を閉じると、あの甘ったるい匂いが鼻の奥に蘇る気がした。
気のせいならそれでいい。
俺はそう思って目を閉じた。
だが、耳だけはしばらく立ったままだった。