あの日から二日が過ぎた。
黒猫団はギルドで次の依頼を選んでいた。三人の連携も安定しDランク依頼なら大きな問題なくこなせるようになっている。
「お疲れ様。今日はね、北東の森で薬草採取をお願いできるかしら」
マリアが依頼書を差し出す。
「北東の森ですか」
アレンが首を傾げる。
「あっちはまだ行ったことがないですね」
「ええ。最近ね、あっちで小型の魔物を見かけないって報告があるのよ」
「魔物が少ないなら楽でいいじゃない」
エマが矢筒を軽く叩く。
(小型の魔物が少ない?)
俺はアレンの肩の上で尻尾を巻いた。西の丘で妙な匂いを嗅いだのは二日前だ。北東の森は西の丘からは離れている。
(場所が違う。関係ないか)
受付の奥ではリリアが帳簿に羽ペンを走らせている。俺と一瞬だけ目が合ってそれから何事もなかったように書類へ視線を戻した。
「行こうか」
アレンの声で俺たちはギルドを出た。
* * *
北東の森は西の丘より木々が密生している。
光があまり届かず地面には苔が生い茂っていた。足音が吸われるように響かない。
「クロ、頼む」
俺はアレンの肩から飛び降り先行する。
最初は普通だった。苔と土の匂い。木の根の隙間に潛む虫の気配。風が枝葉を揺らす音。
「こっちにムーンフラワーがあるよ」
エマが木の根元を指差す。
「本物ですね。根を傷つけないように採りましょう」
レオが図鑑を取り出して種類を確認しアレンがナイフで慎重に掘り取る。戦闘以外でも三人の役割分担は自然にできていた。
「今日はよく見つかるね。この調子ならすぐ終わるよ」
エマが嬉しそうに笑う。
「魔物も出ないし当たりの依頼かも」
(そうだな。楽なのはいいことだ)
俺も最初はそう思っていた。
だが、しばらく歩いたところで足を止めた。
(待てよ)
魔物が出ない。それ自体はありがたい。だがここまで何も出ないものか。
魔物の糞もない。木の幹を引っ掻いた跡もない。獣が草を踏み倒した跡すらほとんど見当たらない。
鼻を上げる。
土。苔。湿った木。
それだけだ。
(静かだ)
鳥が鳴いていない。虫の音も少ない。獣の匂いも薄い。
「ねえ、なんか今日静かじゃない?」
エマが立ち止まって周囲を見回した。
「この時間ならもう少し鳥がいてもおかしくないですね」
レオも杖を握りしめる。
アレンが無言で剣に手を掛けた。
(やっぱり俺だけじゃないか)
何かが迫っている気配はない。魔物の匂いもしない。だからこそ落ち着かない。
(何もいないことが妙に嫌な感じだ)
俺はさらに先へ進んだ。肉球が苔の上を滑る。
その時。
鼻先に微かな匂いが触れた。
(これか)
鉄錆のような妙に甘ったるい匂い。あの西の丘で嗅いだ匂いと同じだ。今回は一瞬じゃない。微かだが残っている。
「にゃっ」
俺が短く鳴くと歩く方向を変えた。
「クロ?」
アレンの声が後ろから追いかけてくる。
匂いを頼りに藪を抜ける。
藪を抜ける。
白いものが見えた。
最初は石かと思った。
だが、違う。
長い耳が地面に倒れている。
(……ホーンラビット?)
「クロどうしたの?」
追いついたアレンが藪の向こうを見て息を呑んだ。
「死んでる」
ホーンラビットは動かない。目は見開かれ体は冷え切っている。
「食べられた跡もないね」
エマが眉を寄せる。
「外傷もありません」
レオが眼鏡を外して覗き込む。
血は流れていない。身体が腐っているわけでもない。噛まれた跡も爪で裂かれた跡もない。
ただ死んでいる。
俺が近づいて嗅ぐ。
(間違いない)
死骸からはあの鉄錆のような甘ったるい匂いがした。濃くはない。だが確かにあの日の匂いだ。
(気のせいじゃなかった)
俺は確信した。
だがそれが何かは分からない。
捕食者なら食った跡が残るはずだ。何かに襲われたなら傷の一つくらいあってもいい。病気か?毒か?
(分からん)
この森から生き物が消えている。鳥も虫も獣もまるで何かから逃げるように。
(こいつらは何から逃げてる?)
俺には分からなかった。
「これ、持って帰ろう」
アレンが死骸に手を伸ばす。
「ちょっと待ってください」
レオがアレンの手を止めた。
「もし病気だったら素手で触らない方がいいかもしれません」
「あ……そっか」
アレンは手を引っ込め荷物から古い布を取り出した。
「じゃあこれで包もう」
(そういう知識はレオが一番頼りになるな)
三人は慎重に死骸を布で包み、荷物へ入れた。
「ギルドに報告した方がいい」
エマとレオも頷いた。
(それがいい。俺たちだけで考えても仕方ないからな)
* * *
ギルドに戻り報告を済ませる。
マリアの表情が曇った。
「最近妙な報告が少しずつ集まってるの。北東の森で獲物が減ってるとか西の丘でも小動物が減ったとか森から街道近くへ出てくる動物が増えたとか……」
「でもまだ何かが起きてるとは言えないんですか?」
アレンが尋ねる。
「断定はできないわ。減ってるってだけなら、森じゃ時々あることだから」
酒場の隅からダンが立ち上がった。机の上に置かれた布をめくり、ホーンラビットの死骸を覗き込む。
「傷もねえ。見たところ何にやられたかも分からねえな」
「一つ一つなら珍しい話じゃねえ。だがなこうも重なると何かあるんじゃねえかと勘繰りたくなる」
ダンはそう言って死骸を机の上に置いた。
「だが今はまだ何も言えねえ。お前らも下手に森の奥へ入るなよ」
「はい」
三人が頷く。
(そうだな。まだ何も分からん。これだけで森に何かいると決めつけるのも早い)
その時リリアが死骸を覗き込んだ。
「傷がないのに死んでるの?」
「ゼド先生にも見てもらった方がいいんじゃない?」
マリアが頷く。
「そうね。お願いできる?」
「分かった。伝えてくる」
リリアは布に包まれた死骸を持ち上げるとそのまま救護室へ向かった。
俺はその背中をしばらく見送った。
(何か分かればいいんだが)
* * *
夜。
アレンの家。
暖炉の火が爆ぜる音だけが響いている。アレンは今日採ってきたムーンフラワーを乾燥させながら明日の天気を呟いている。
俺は窓辺に座り外を眺めていた。
二日前、西の丘であの匂いを嗅いだ時は「気のせいならいい」と思った。
だが今はそうは思えない。
西の丘。
そして、今日の北東の森。
場所は違う。なのに同じ匂いがした。
そして死んだホーンラビット。
傷もなく、ただ死んでいた。
(気のせいじゃなかった)
俺は目を細める。
(何かが起きてる)
窓の外は深い闇に包まれていた。