「クロ、今日はご近所に挨拶回りに行くんだ。きみがこの家に来てから、まだちゃんと紹介できてなかったからね」
朝食の片付けを終えたアレンが、少し改まった様子でそう言った。灰色の髪はいつもより丁寧に梳かされ、訓練着ではない、ちゃんとした普段着を着ている。手には、昨日市場で買ってきた焼き菓子の包みをいくつも持っている。
(ご近所挨拶、か)
俺は一声鳴いて、窓辺から飛び降りた。拾われて約二ヶ月。この家での生活にはすっかり慣れたけど、近所の住人たちとはまだほとんど面識がない。アレンが買い物に行く時に、ちらっと見かけるくらいだ。
「よし、それじゃあ行こうか」
アレンは俺を抱き上げると、いつものように肩へと乗せた。最近はこれが定位置だ。子猫の俺には歩き回るよりも、こうやって運んでもらう方が楽でいい。
(たまには運動しろって? うるさいな、猫は寝てるのが仕事だ)
心の中で誰にともなく言い訳しながら、俺はアレンの肩の上で丸くなった。
* * *
外は雲ひとつない青空で、道の両側には石造りの家々が立ち並んでいる。春の名残と初夏の気配が混ざり合った、心地よい季節だ。
「まずは、お隣のマーサさんだよ。小さい頃から僕のことを知ってる、とても優しい人なんだ」
アレンが隣家のドアをノックすると、ふくよかな体型の中年女性が顔を出した。エプロン姿で、手にはお玉。ふわりとバターの香ばしい匂いが漂ってくる。
「あら、アレン。ちょうどよかった、今クッキーを焼いたところなのよ。……あら、その子猫は?」
「この前、裏通りで拾ったんです。クロっていいます。今日はその紹介に来ました」
「にゃあ」
俺が一声鳴くと、マーサは目を細めて微笑んだ。
「まあ、真っ黒で賢そうな子だね。ちょっと待ってな、干し魚を持ってくるから」
「最近、アレンの家から猫の声が聞こえてたからね。もしかしてと思って、猫ちゃん用に塩抜きした魚を取っておいたんだよ」
(塩抜き! 気が利くな!)
俺は思わず尻尾を立てた。猫に塩分は厳禁だと、前世の知識で知っている。それをちゃんと理解した上で猫用のおやつを用意してくれるとは。このマーサという女性、かなりできる。
「いつもすみません」
「いいんだよ。あんたが元気でやってる姿を見るのが、あたしの楽しみなんだからね」
マーサはアレンの頭を、我が子にするようにそっと撫でた。その仕草には、長年見守ってきた者だけが持つ、深い愛情が滲んでいる。
「父さんと母さんがいなくなってからも、マーサさんにはずっと助けてもらってるんだ」
隣家を辞去した後、アレンがぽつりと言った。その声は、寂しさよりも感謝の方が強く滲んでいた。
(そうか。両親が亡くなってからも、こいつは一人じゃなかったんだな)
俺はアレンの頬に、そっと頭を擦りつけた。
* * *
「次は、鍛冶屋のグレッグさんだよ。ちょっと怖そうに見えるけど、本当はいい人なんだ」
店の前には無骨な鉄の看板。中からはトンカン、トンカンと金属を叩く音が絶え間なく響いている。
「グレッグさん、おはようございます!」
「おう、アレンか」
奥から現れた大柄な男は、丸太のような腕に無精髭。見た目は強面そのものだ。しかし、俺を一目見るなり、グレッグは豪快に笑った。
「黒猫か! こりゃいい。ここらへんじゃ、黒猫は鍛冶屋の守り神って言われたりもする。煤で汚れても目立たねえし、ネズミを獲ってくれるからな」
(守り神、か。それは初耳だ)
「ちょっと待ってろ」
グレッグは店の奥に引っ込むと、小さな包みを持って戻ってきた。中から出てきたのは、銀色に輝く手の込んだ鈴だ。
「うちのせがれが昔練習がてらに作ったものでな。猫の鈴は昔から魔除けになるって言われてる。まあ、お守りみたいなもんだが、よかったらつけてやってくれ」
(お守りか。それなら気軽に受け取れるな)
「あ、ありがとうございます! クロ、よかったね!」
アレンはグレッグから嬉しそうに細い革紐を受け取ると、そこへ鈴を通して俺の首につけてくれた。首を動かすと、ちりん、と小さな澄んだ音が鳴る。軽くて、邪魔にならない。
「にゃあ」(悪くない)
「お、気に入ったみてえだな。大事にしろよ、クロ」
グレッグは満足そうに笑い、また仕事へ戻っていった。トンカン、トンカン。規則正しい槌音が、心地よく耳に残る。
* * *
「それじゃあ、次は……」
アレンの声が、そこで少しだけ弾んだ。歩く速度も、心なしか速い。
(ん? 今までのとは様子が違うな)
俺は猫の感覚で、アレンの鼓動が少しだけ早くなっているのを感じ取った。
「雑貨屋のリリアのところだよ。僕の、幼馴染なんだ」
(なるほど。それは楽しみだな)
雑貨屋は市場のすぐ近くにあった。女性向けの店らしく、色とりどりの布や小物が所狹しと並んでいる。
「リリア、いる?」
アレンが声をかけると、奥から栗色の髪を束ねた少女が現れた。大きな緑色の瞳が印象的だ。歳はアレンと同じくらいだろう。
「あら、アレン。今日はどうしたの? また変なものでも買いに来たの?」
腰に手を当て、じろりとアレンを睨みつけるリリア。口調はきついけど、目が笑っている。
「ち、違うよ。今日はクロを紹介に来たんだ。この前拾った猫で――」
「へえ、この子が」
リリアは俺をじっと見つめてから、ふんと鼻を鳴らした。
「でも、あんたがちゃんと世話できるの? 自分のこともまともにできないくせに」
(お、痛いところを突くな)
心の中で笑う。確かにアレンは一人暮らしを始めたばかりで、まだまだ生活力は発展途上だ。食事はパンとチーズばかりだし、洗濯も週に一回がやっと。それでも、俺の世話だけはちゃんとしてくれているけどな。
「だ、大丈夫だよ。クロは賢いから、手がかからないんだ」
「ふん、まあいいわ。……クロ、よろしくね。アレンはおっちょこちょいだけど、いいやつだから。ちゃんと面倒見てあげてね」
リリアは俺の頭をそっと撫でた。その手は、マーサやグレッグとは違って、すごく細くて、少しだけ冷たかった。でも、嫌な感じはしない。むしろ、とても優しい手つきだ。
「にゃあ」(わかってる)
俺が返事をすると、リリアは少しだけ驚いた顔をしてから、嬉しそうに笑った。ツンツンした態度が嘘みたいに可愛らしい。
「わ、この子、賢いのね。本当に言葉がわかってるみたい」
「でしょ! クロはすごいんだよ!」
自分のことみたいに嬉しそうなアレンを見て、リリアは小さくため息をついた。それから店の棚を探り、小さな包みを取り出す。
「これ、うちで扱ってる動物用のおやつ。無塩の魚を乾燥させたやつよ。クロにあげて」
「え、でも、僕がお菓子を持ってきたのに、逆にもらっちゃ悪いよ」
「いいのよ。これはクロにあげるんだから。あんたにじゃないわ」
リリアはぷいっと横を向いた。その耳が、ほんのりと赤くなっている。
(なるほど。口では文句を言いながら、会えて嬉しそうな顔をしてやがる)
俺は心の中で笑った。
「ありがとう、リリア」
「ええ。クロ、また遊びに来てね。今度はもっといいおやつを用意しておくから」
リリアは俺に向かって手を振った。アレンには、最後までツンツンした態度だったけどな。
* * *
その後も、パン屋や仕立て屋を回った。どこへ行っても、アレンは温かく迎えられた。パン屋の主人は焼きたてのパンを二つも持たせてくれ、仕立て屋のおばさんはアレンの袖口のほつれを見つけてため息をつきながらも、クロへの贈り物として小さな毛布をくれた。
(みんな、本当にこいつのことを気にかけてるんだな)
一通りの挨拶を終え、家へ戻ろうとした時だった。
「おい、アレン。そいつは黒猫じゃねえか」
通りの向こうから、偏屈そうな老人が声をかけてきた。杖をつき、腰を曲げたその男は、俺を見るなり眉をひそめる。
「黒猫は昔から縁起が悪いと言う。飼うなら気をつけることだな」
瞬間、アレンの肩がびくりと震えた。
(まあ、こういうことを言う奴もいるわな)
俺は心の中でため息をついた。前世の日本でも、黒猫が不吉だなんて迷信はあったしな。別に気にするほどのことじゃない。
だが――。
「……クロは、そんな子じゃありません」
アレンの声は小さかった。でも、はっきりと老人を見つめて、彼は言った。
「クロは僕を助けてくれた、大切なパートナーです。縁起が悪いなんて、思いません」
(お)
俺は少しだけ驚いた。こいつが、こんなにしっかりと自分の意見を言うなんて。
「なに……?」
老人が何か言い返そうとした、その時だった。
「何言ってるんだい、ガスパル爺さん!」
背後から、鋭い声が飛んできた。買い物籠を抱えたマーサが、険しい顔でこちらへ歩いてくる。どうやら、買い物の途中で通りかかったらしい。
「その子はね、アレンの大切な家族になったんだよ。縁起が悪いだなんて、そんなことあるもんかい!」
「う……」
老人はマーサの剣幕に押され、一歩後ずさった。
「……ちゃんと言えたじゃないか、アレン」
マーサの目が、少しだけ潤んでいるように見えた。
「わ、わかった。わかったから、そんなに怒るな……」
ガスパル老人はぶつぶつ言いながら、杖をついて去っていった。
「大丈夫かい、アレン」
「はい。ありがとうございます、マーサさん」
アレンはぺこりと頭を下げた。その声は、さっきまでよりもずっとしっかりしている。
(やるじゃねえか)
俺はアレンの頬に、そっと頭を擦りつけた。首の鈴が、ちりん、と鳴る。
* * *
「ふう、今日はいろいろあったね」
家に帰り着いたアレンは、もらったものをテーブルに広げながら、ほっと息をついた。パンに、スープの素に、それから俺用の干し魚と魚チップ。いつもの貧しい食卓とは、まるで違う豪華さだ。
「すごいや、こんなにたくさん。クロ、今日は特別だよ!」
目を輝かせるアレンを見ながら、俺は今日一日を思い返していた。
マーサ。グレッグ。リリア。パン屋に、仕立て屋。それに、最後の老人に立ち向かったアレン自身の姿。
(思っていたより、ずっと多くの人に支えられていたんだな)
「いただきます」
スープを一口飲んだアレンが、ふと手を止めて窓の外を見た。もうすっかり暗くなった空に、星が瞬いている。
「父さんと母さんがいた頃から、みんな、ずっと僕のことを気にかけてくれてたんだな。本当に、ありがたいよ」
その横顔を見て、俺は理解した。
アレンは、一人暮らしだった。でも、一人ぼっちじゃなかったんだ。
「クロ、今日はありがとう。きみが来てくれて、本当によかった」
(……まあ、これからも面倒を見てやるさ)
俺はアレンの膝の上で目を閉じかけて、ふと今日の出来事を思い返した。
(そういえば今日は、アレンが俺を守ってくれたんだな)
声は震えていた。
最後はマーサが助けてくれた。
それでも――あの瞬間、こいつは確かに一歩前へ進んだ。
(悪くない一日だったな)
俺は目を閉じ、ゆっくりと喉を鳴らした。
拙い文章ではありますが、感想等いただけますと大変励みになります。
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