ギルドへ向かう道すがらなんとなく空気が違うことに気づいた。
いつもなら朝の喧騒があるはずの石畳が、どこか張り詰めた静けさに包まれている。
ギルドの扉を開けると、その理由はすぐに分かった。
「おはよう、黒猫団」
マリアの声が少し硬い。カウンターの向こうでは数人の冒険者たちが深刻な顔で話し合っている。
掲示板の前には人だかりができていた。そこへ行くと北東の森方面の依頼書に赤い札が貼られている。
『依頼受付一時停止』
「依頼の受付が、止まってる……」
アレンが呟く。
「昨日からね、報告が急に増えたの」
マリアが苦しげな表情で説明する。
「森からウルフの群れが出てきたとか、ホーンラビットが街道付近まで来てるとか浅い場所で鳥がほとんど見かけなくなったとか……それに、もう一体原因不明の死骸が見つかったって」
「もう一体?」
エマとレオが顔を見合わせる。
「街道脇で、野ネズミが死んでたんですって」
(野ネズミか)
昨日見つけたホーンラビットではない。俺はそれが気になって仕方なかった。
ちょうどその時入り口の扉が開き、大柄な男が何かを抱えて入ってきた。ダンだ。その手には布に包まれた小さな物体がある。
「マリア二匹目だ。街道沿いの藪で見つけた」
ダンが机の上にそれを置く。布を開くと、小さな野ネズミが冷たく固まっていた。
「見てくれ、傷一つねえ。ただ死んでるだけだ」
俺はダンの足元から机の上へと飛び乗った。鼻を近づける。
土と草の匂い。そして、その奥に。
(……ある)
鉄錆のような甘ったるい匂い。
間違いない。ホーンラビットの時と同じ匂いだ。
(じゃあ、あいつだけの病気じゃないのか)
別の種類の死骸からも同じ匂いがする。
「ゼドさんに見てもらおう」
マリアが言うとリリアが奥から手袋を持って出てきた。
「私が運びます」
リリアは手袋をはめると布ごとネズミを持ち上げた。その手つきは迷いがない。
黒猫団もついていった。救護室でゼドがネズミを調べる。
「昨日のホーンラビットと同じだ。目立った病変もねえ。毒を食ったようにも見えん」
ゼドが顎髭を撫でながら言う。
「少なくとも俺の知ってる普通の病気じゃないな」
(やっぱり、昨日のやつと同じか)
俺は机の下で尻尾を巻いた。
ホーンラビットだけじゃない。
野ネズミまで、同じ死に方をしている。
* * *
その日の午後。
ギルドのホールに冒険者たちが集められた。奥から出てきたのはギルドマスターのゴードンだった。
「聞いてくれ」
ゴードンの低い声が響く。
「北東の森への依頼は当面すべて停止する。異変の報告が多すぎる。無視できねえ状況だ」
ざわめきが起きる。
「明日、調査隊を編成して森へ入らせる。経験のある者だけだ。若い連中は留守番だ」
「僕たちも行けませんか?」
アレンが一歩前に出た。
その視線が黒猫団へ向く。
「駄目だ」
ゴードンは即座に断った。
「危険だからじゃねえ。分からねえからだ。何が起きてるのか危険度すら分からねえ状況でお前らを連れていけねえ」
アレンは何か言いかけて、口を閉じた。
「……分かりました」
拳は握られたままだった。
「アレン。お前らはここで情報を待て。それがお前らにできる一番の仕事だ」
(ゴードンが正しい。分かってる)
だが、俺の胸の奥はもどかしい。
(調査隊にはあの匂いが分からない)
ダンも、ゴードンも、ゼドでさえもあの鉄錆の匂いには気づいていない。
(俺も行ったほうがいいんじゃないか)
だが、あの匂いをどう説明する。俺が勝手についていったところで調査隊に意図を伝える術がない。それにアレンを置いて勝手に森へ入るのも違う。
「にゃあ」
俺は小さく鳴いてアレンの足元に頭をすり寄せた。どうしようもないもどかしさを噛み締めながら。
「にゃあ」
アレンはまだ握っていた拳をゆっくり開いた。
「……今は待つしかないか」
「今回は強いとか弱いとかじゃないんじゃない?」
エマがアレンの肩を叩く。
「何がいるか分からない以上、戦う準備そのものができませんからね」
レオも眼鏡のブリッジを押し上げる。
アレンが少し顔を上げた。
「そっか。じゃあ今は待とう」
アレンはまだ少し悔しそうだったが、それ以上は何も言わなかった。
その様子を見て、足元で尻尾をひとつ揺らした。
* * *
報告会が終わりギルドが少し落ち着いた頃。
俺は窓辺で外を眺めていた。北東の空は秋の雲に覆われている。
「クロ」
背後から声がした。振り返るとリリアが立っていた。
「さっきからあれ気にしてるわね」
「にゃあ」
リリアは窓の外、北東の方角を見る。
「あんたには何か分かるの?」
もちろん答えられない。
「もし何か感じてたとしても、無理はだめよ」
リリアはそう言って俺の頭を軽く撫でた。
(俺が気にしてることには気づいたか)
俺は撫でる手に頭を少しだけ押しつけた。
* * *
翌朝。
ギルドの前で調査隊の準備が進められていた。
ダンを含む数名の経験豊富な冒険者たちが装備を確認している。普段の討伐依頼より荷物が多い。縄、薬、松明、食料。武器だけじゃない何があるか分からない場所へ調べに行く装備だ。
俺はその光景をアレンの肩の上から見つめた。
アレンもいつもの依頼へ送り出すときとは違って口数が少ない。
ダンがこちらへやってきた。
「そんな顔すんな。森見て帰ってくるだけだ」
ダンがアレンの頭を軽く叩く。
「気をつけてください」
レオが深く頭を下げる。
「何もなければいいね」
エマも小さく手を振った。
男たちが北東へ歩き出す。その背中は頼もしい。だが俺の背筋はずっと張ったままだ。
風が吹いた。
北東から。
鼻先に触れたのはあの匂い。
(……まただ)
鉄錆のような、甘ったるい匂い。
微かだ。だが、間違いない。
北東から吹く風に、あの匂いが混じっている。
調査隊は誰一人足を止めない。
(……やっぱり、分からないのか)
森へ向かう男たちの背中が、木々の向こうへ一人ずつ消えていった。
(本当に、大丈夫か?)
俺は前足で地面を掻いた。
追いかけたい。だがアレンの隣から動けない。
調査隊の背中はもう見えなかった。
それでも北東から吹く風にはあの甘い鉄錆の匂いが残っていた。