ダンたちを見送ったあと、俺たちは西の丘でムーンフラワーを採取する依頼を受けた。
昼過ぎには戻る、とダンは言っていた。だからそれまでに終わる依頼を選んだのだ。
「クロこっちにもあるよ」
エマが手招きする。
「根を傷つけないように」
レオが図鑑を片手に確認する。
「うん、分かってる」
アレンがナイフで慎重に掘り取る。
いつもの通りだ。役割分担も自然にできている。
だが、俺の目は何度も北東の空へ向いていた。
(またか)
風が時折あの甘ったるい鉄錆の匂いを運んでくる。
アレンの手が止まる。
「……どうしたの?」
エマが聞く。
「ううん、なんでもない」
アレンは作業に戻る。だがその背中は少しだけ強張っていた。
(無理もねえ。ダン達が行ってるんだ)
俺だって同じだ。鼻が勝手に北東を向く。風が吹くたびにあの匂いを探してしまう。
* * *
昼を過ぎた。
ギルドに戻るとマリアが受付で帳簿をめくっている。だがその目は扉の方へ何度も走っていた。
「おかえりなさい。どうだった?」
「いつも通りです」
アレンが報告書を渡す。
「そう……よかったわね」
マリアの笑顔が少しだけ硬い。
(まだ戻ってないのか)
ダンは「昼過ぎには戻る」と言っていた。森の調査なら多少遅れることはある。そう自分に言い聞かせる。
時間が経過する。
午後の日差しが傾き始める。
ギルドには他の冒険者たちも集まってきていた。表の仕事がない者たちは酒場の隅でカードゲームをしたり世間話をしたりしている。それでも誰かが扉を開けるたび皆の視線がそちらへ向いた。
入ってくるのは他の冒険者か、依頼を受けに来た村人ばかりだ。
「まだ戻らないな」
誰かが呟く。
「調査だろ? 深入りしたんじゃないか」
別の声が答える。
ゴードンはカウンターの奥に座り書類に目を通しているように見える。だがペンを持つ手は止まったままだ。
夕方になっても調査隊は戻らなかった。
アレンが耐えきれずに立ち上がった。
「ゴードンさん!」
ギルドマスターを見るアレンの目には苛立ちが滲んでいる。
「迎えに行った方がいいんじゃないですか! もう日が暮れます!」
酒場が静まり返る。
ゴードンがゆっくりと顔を上げた。
「アレン」
低い声だ。
「状況が分からないまま森に入って行方不明者を増やすのが一番まずい」
「でも! ダンさんたちが——」
「夜の森に入るのも危険だ。闇雲に探してお前らまでいなくなったらどうする」
(分かってる。分かってるんだ)
だがアレンの拳は白くなるほど握りしめられている。
「このまま戻らなければ、夜明けと同時に捜索隊を出す。今から入れば、こっちまで夜の森で動けなくなる」
ゴードンはそれだけ言うと再び書類へ目を落とした。
アレンは何か言い返そうとして、口を閉じた。
握った拳だけが震えている。
「……分かりました」
エマもレオも何も言えない。
俺はアレンの足元に身を寄せた。
(くそっ)
* * *
完全に日が暮れた。
ギルドには黒猫団を含め何人もの冒険者が残っていた。誰もが入り口を気にしている。
マリアも受付から離れず暖炉の火をかき立てたり空になったカップを片付けたりしている。ただその動きにはいつもの軽快さがない。
その時だ。
ギルドの扉が乱暴に開いた。
全員の視線が集中する。
風が吹き込む。その中に泥と汗の匂いが混じっていた。
立ち尽くしたのは一人の男だった。調査隊の冒険者だ。だがダンではない。
男は泥だらけで肩の防具が片方なく左腕から血を流していた。だが深い傷ではなさそうだった。
「……ギルド、マスター……」
男の声は掠れていた。
「あなた……!」
マリアがカウンターから飛び出す。
男は何か言おうとして、掠れた息を吐いた。
「他のやつらは? ダンはどうした」
ゴードンが立ち上がり男に歩み寄る。
男は一度、唇を動かした。
だが声が出ない。
「……まだ、森にいる」
男の膝が崩れた。
近くにいた冒険者が慌てて身体を支える。
「ゼド先生!」
マリアの声に、奥の救護室からゼドが姿を現した。リリアもその後ろから駆けてくる。
「こっちへ」
ゼドが男を救護室へ誘導する。
俺はその隙間を縫って男に近づいた。
鼻をひくつかせる。
血の匂い。汗。泥。
その奥に――混じっている。
(っ)
あの匂いだ。
鉄錆のような、妙に甘ったるい匂い。
(嘘だろ)
俺はもう一度だけ鼻を近づけた。
それでも匂いは消えなかった。
(こいつ、生きてるぞ)
俺は動けなかった。
死骸だけじゃない。
救護室の中でゼドが男の傷を手当てしている。リリアがゼドに言われた道具を次々と渡していく。
ゴードンが扉の前に立ち低い声で尋ねた。
「何があった」
男は荒い呼吸を繰り返しながら断片的に語り始めた。
「森の途中までは……普通だった」
「奥へ進むと生き物がいなくなった。鳥も虫も何も」
「さらに奥で……見つけたんだ」
男の目が虚空を見つめる。
「ウルフの死骸が……十匹以上。傷らしい傷もなく死んでいた」
酒場がざわめく。
(ウルフまで……)
「そのあとだ。何があった」
ゴードンが促す。
「分からない……ただ急に……身体がおかしくなって……立っていられなくなった」
男は頭を抱えた。
「皆バラバラに逃げた」
「ダンさんは……まだ森にいる」
「ダンさんは!」
アレンが救護室に飛び込もうとした。
「アレン!」
ゴードンが腕を掴んで止める。
「無理だ。夜の森に入るなと言ったばかりだろ」
「でも! ダンさんがまだ! それに他の人たちだって!」
「明日の朝一番に出発させる。それまでは待て」
アレンは何か言い返そうとして結局口を閉じた。
握った拳だけが震えていた。
エマが黙って、その拳に手を添えた。
レオもただ唇を噛んでいる。
救護室の扉が閉まった。
あの匂いを纏った男は、生きて帰ってきた。
なら、まだ。
俺は閉じた扉から目を離せなかった。
(ダンも生きてろよ)